本門の題目
            本化妙宗の宗旨  本門の本尊  本門の戒壇

【1】 久遠本佛の妙智 【2】 本因妙行 【3】 十界皆成の要法 

【4】 本門寿量の肝心 【5】 妙法蓮華経の理義

                                             「法華経の勉強室」に戻る

【1】 久遠本佛の妙智

  本門の題目とは「南無妙法蓮華経」と唱えることである。この妙法の五字は、法華経の題号なる故に、通途に従って「題目」というたのであるが、その実は『妙法蓮華経の五字は、経文に非ず其の義に非ず、唯一部の意耳』とあって、『法華経の精神』として、非常に尊ぶのである。すでに法華経の心であるとすれば、佛の心は法華経であるから、この五字は即ち佛の精神である。故にこれを佛種というて『佛になるべき種』としてある。佛の種であるから此の五字より佛は出生する。過去遠々のむかしから、未来永々の後いつの世になっても、いかなる世界へ往ってもおよそ佛という佛は、悉くこの「妙法五字」より造り出される。故にこの五字は法界の大善本である。この五字を信じる者は、則ち『佛を出生する因縁を為しつつある』のである。世にこのくらい尊い業はない。それと同時に、若しこの五字に背いた者があったら、それは総て佛を亡ぼす罪より重いのである。なぜならば、『将来限りなく生じ来たるべき多くの佛の種をいり殺すようなもの』であるから、一切の罪悪の中で、此の上ない極罪と定めたのである。これに背く罪は、罪悪中の最上悪、これに順う功徳は、一切の善根福徳の中に最上の功徳最上の善根とせられて、世界の善悪邪正の標準をこの一埒に追い込めて、的切醇要に知識道徳の根底意義を決釈し、人をして先ず第一に帰着せしむべき唯一の道を定められたのが、この「本門の題目」の要旨である。

 然るに此の五字は、印度の「薩達磨芬陀利伽素多覧(サダルマフンダリキャソタラン)」を訳して「妙法蓮華経」の五字としたものであるが、語は印度語であろうと、中国語であろうと、乃至は西洋でも日本でもそんなことにはかまわない。理義正しく語調正しく訳されればそれでよい。今この「本化妙宗」がこの漢訳の五字を基礎として、直ちにこれを本佛の妙智とし、唯一佛乗種子と定めたのは、この訳者たる羅什三蔵の語学上に於ける古今無等倫の学聖たる価値を認め、又中国の天台大師がこの訳語を正依として、『五重玄義』を釈成し、日本にもそれを伝えたる因縁といい、内容事縁ともに完美して釈迦佛の原説に毫末の遺憾をも感ぜしめざる妙訳である故、直ちにこの訳語の上に法界的威信を公認して、『久遠本佛の妙智』明らかにこの五字の中に任持包有せられたるものとして、吾人信行の成佛し得べき手形と定めたのである。

 前の「本尊」を『久遠の本佛の正體』とすれば、この「題目」は『本佛の妙智』である。智の矢で境の的を射るのである。智の魂で境の身体は活動するのである。元来人は迷いとか罪悪とかいうものは、畢竟何から来るかというと『天然の正智を失した諸々の妄想顛倒』から来るのである。煩悩の根本惑を「無明」というので解るであろう。故に何時でも固有の正智を回復すれば、真理は直ちに現前して、法界は了々分明になり、何の惑いもなくなり、自在に道を楽しむことが出来るのであが、一たびこれを失う時は、固有の正智は容易に回復しない。しないからとて、回復せずに置くわけにはゆかない。尋常のことではとても回復はおぼつかないが、もとそれを亡くしたのが迷い出した原因であるから、どのみち之を得て欠陥を補充せねばならぬ。さていかにして之を得んかという段になる。ここに於いて佛の大慈悲は一切衆生を愛護すること限りないところから、どうかして救ってやりたいというので、最勝修多羅たる法華経の理義言辞名字の上に、本佛の妙智を寓托し、これを持ち唱えるものをして自然佛智に契合せしむるよう『法華経の名において、妙智伝授の予約をなされた』のが、この五字の妙名である。佛みずからが真理を提唱する便利のためにもされたには相違ないが、一つは確かに人をして唱え持たしむる便利から、適切簡明なる妙名のもとに、一切の諸法門諸功徳を束ねられたのである。 『受持法華名者』と挙げ、「五種法師」の中にも「読誦」以上に「受持」の一行を挙げられたのは、たしかに経名を誦持せしむる思し召しに相違ないことがわかる。こうなると唯の一語であるから、経文読誦の例と動揺にも取れない。正しく「呪いの唱えごと」のようなものである。一言にして多くの意義を含むは勿論、なおその上に一種神秘的約束の籠もっているという意味がある。その神秘的意味とは、即ち『佛の慈悲と吾等の信との接触点』である。どこで接触しても同じでありそうなものだが、必ず、『この五字の上で逢着したのでなくてはならぬ』というので、『吾が慈念もこの五字の上に注がん!汝等の信念も亦この五字の上に注ぎ来たれ!かくて此の五字を介して、我と汝等と一つにならん!』という約束より成り立ったのが、『教行の因縁』というものである。 而してこの五字なるものは、その剋體果たして何かと言えば、まぎれもなく『久遠本佛の妙智』である。実は自分にもっているはずなのだがあまりの下積みになって、一寸のことでは出て来ない。それを強いて出そうとしていると、他の種々なる傷害がたくさんであるから、つい其の方へ紛れてしまう。何時になっても目的を達することが出来ない。そこで何よりも容易で、正確で、一足飛びに目的地に達すべき最大便法として、「信」と「智」の転換法を行うの一事が、佛より指導せられたのである。即ちおのが固有の智を研き出すことは後にして、先ず最醇最豊なる本佛の妙智を獲得する方法である。「本佛の妙智」を以て吾が智とする。例えば『種痘』のようなものである。一度それが植われば、やがて自己の正智といっちする。それを吸収したり呼び起こしたりするのが、佛に在りては「慈念」、吾等にありては「信念」である。この「慈」と「信」とはともに智の属性であって、智の本能的力用の併発したものである。 佛法の中におよそあらゆる諸々の法門功徳修行三昧の数々が説かれてあるが、すべて智を以て主體とするのである。故に時により世につれて、他の修行は廃するとても、智慧の一行だけは佛法あらん限りやめることはない。故に「六波羅蜜」の中でも末法に於ける初心の修行として、堅く五度(六波羅蜜の中の「般若波羅蜜」即ち智慧の修行を除きたる、他の五波羅蜜)を制止して、専ら「智慧」の一行に限ることに規定せられてある。これはいかなる場合でも、智慧は除くことが出来ないからである。ところが此の智慧が亦直接にそれを発揮することが甚だ難しいので、祖判にも

 『問う、末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや否や。答えて曰く、此の義大事なり。故に経文を勘え出して貴辺に送付す。所謂五品の初二三品には佛正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧もまた堪えざれば、信を以て慧に代う。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也』

と示されて、「信」を『行因』とし、「智」を『行果』としてある。

【2】 本因妙行                               

 本門三妙でいへば、「本尊」が本果妙の剋體で、本佛の妙證なることは、前にすでに述べた通り、而して此「本門の題目」が、それに対する能対で、「本因妙」の法體、即ち『妙行の剋體』となるのである。因から生じない果はない、行から出ない證はない、即ちこの「本門の題目」によって、本尊の體中に入ることが出来る、故に「本門の題目」なき時は、「本尊」はただの『理屈の図』に過ぎないものとなってしまう。
 『本果よりは本因を宗とす』とまで訣せられた所を以て見ても、いかに本化の宗が活動的修行的であるかが判るであろう。然し因のみを取るというのではない。「本果」の為に益ます「本因」が要であるというのである。

【3】 十界皆成の要法                      ページのトップ

 理は本来から佛である。なにも別に『成る』に及ばない。けれども事実上吾等は堕落しているのである。堕落はしているが其れが本領ではないから、どうかして本に帰るべく、向上還元的に発動しなければならぬ。人生の一面には常に堕落的傾向をも有している。其れと同じく他の一面には還元向上すべき機能をも有している。これがひとたび教行の因縁に触れれば、『法性的本能の自覚』となって、向上進歩して本性に還るようになって行く。この方の勢力が増長して、彼の『向下力』に打ち勝つ時、信行の成功となるのである。故に本理固有の成佛の上に、必ず事実的に『破悪入理』のみちを求めねばならぬ。それが「修行」というものである。この点に於いて、明らかに佛に成り得べき原則及び実例を示して、その正確なることを証拠立てたのが、法華経顕説の諸法門である。法華経以前に於いて佛に成れぬときめられた二乗や女人をも、まのあたり佛になると説き、且つそれを証明するに、一通り」ならざる力を入れたのは、必ずこの法華経を信じさせねばならぬ、持たせねばならぬという必要があったからである。実は十界の内で、あれは佛になれる、これは佛になれぬという筋目ならば、実際のところどれも成れないことになってしまうのである。なぜかというと、此の十界は一界で孤立しているものは一つもなく、その本體同一のもので、互いに相具し相摂しているのだから、若し一界でも究極佛になれない筋のものがあるとすれば、他の九界までが側杖をくって、結局どれも佛に成れないことに帰するのである。故に『法界の成佛』ということになれば、一物でも漏れてはならぬ。悪人は成れぬ、女人は成れぬ、二乗は成れぬというのは、つまり第二義点の仮性をのみ認めるからの事である。ひとたび本體的に詮しきたれば、善悪邪正その本性なく、真際の面目は渾然として『一大法性の流化』であるからこの妙義の下において、十界は平等に成仏するのである。 この道理に基づいて教を布き行を立てたのが、法華本門の立行であって、これが十界皆成の本旨である。故に「本法」は先天的の本来佛たることを顕している、その原理が本となって、それを『修行』の上に移したのが『要法』というのである。即ち『本法』の『修行化』したのが『要法』である。『十界久遠』は先天的であって『本法』、『十界皆成』は後天的であって『要法』という次第である。

【4】 本門寿量の肝心                       

 法華の迹門が、爾前の諸経を開会するのも、その実は後ろに「本門」を控えているから出来るのであって、決して「迹門」の孤立ではできない。「本門」を予想せざる「迹門」は、つまり『根無し草』のようなものである。故に一切聖教の魂たる「法華経」のそのまた魂たる「本門寿量品」は、正しく佛教の根本性命である。その「寿量品」に説かれた『三身常住一念三千』の妙理を呪し出したのが、この「妙法五字」であって、その出所は正しく「本門寿量品」にあるから、
 寿量所顕
の妙法というのである。而して「寿量品」でも、文上浅近ほ辺に約したのでなく、全く文の底に秘め置かれたる秘法であって、其の筋目の人(本化の菩薩のこと)でなければ解らない。解っても説き出すことが出来ない。たとえば文上には『五百塵點の成佛』とといてあるが、而もその元意は『無始無終』と言うことにある。『無始無終』でなければ『三身常住』は顕れない。『三身常住』なるが故に、『国土も常住』となる。ここに於いて『事円の一念三千』ということが顕れてくる。これらはすべて『文底の玄秘』である。「観心本尊鈔」にも、文底をかかげ釈して『五百塵點乃至所顕の三身にして無始の古佛なり』とあって、文上は「五百塵點」と、有限式の数量で説いたが、その「五百塵點」なるものの帰着は、つまり無限性の数量で、結局「無始無終」ということになる。それを「乃至」というた。此の「乃至」は『それでもって』というような意味の言葉である。斯くあらわに表に知れない処に、非常な幽玄な道理を含んでいるのを、正しい規則で見出したのが、玄義というのである。即ち妙法五字に五つの深い義が籠もっている、それを「五重玄義」(名・體・宗・用・教の五つ)という。それが寿量の文底にひそんでいるから、之を
 文底五玄
というのである。この「文底」の玄秘たる五字の理法に、自ずから教行の二門を備えて、自然と修行の體となるようになっている。故に此の五字の『理』のあるところはいつでも『道』のあるところで、即ち依教立行の絶えないところ、したがって真理正道の法界的原動となって、常に道を修むるものに対する化益が絶えないのである。故に之を
 教行具足
の法というのである。「教」とは教法、「行」とはそれを修行する方法、この二つがあって、始めて完き宗教の用をなすのである。いくら真理真理正道正道とばかり言っても、之を行う動力が無ければ、『口ばかり達者で業の利かない人』のようなもので、哲学としても宗教としても、それは一種の「かたわ」である。即ち広大(迹門)と深妙(本門)との極際を尽くして、それを一言につづめて「ランビキ」に掛けたように煎じ詰めたのが「本門の題目」で、それはどこでそうしたのかというと「寿量品」の法門から詮し出すのであるから、『寿量の肝心たる妙法五字』というのである。経に
『父子等の苦悩すること是の如くなるを見て、諸の経方に依て好き薬草の色香美味皆悉く具足せるを求めて檮篩和合して子に与えて服せしむ』(如来寿量品)
文に『檮篩和合』とあるは、即ち文底に於いて、或る特種の『調整約要』を経たる要法ということを意味しているのである。又『是の好き良薬を、今留めて此に在(お)く、汝取って服す可し、差(い)えじと憂うること勿れ』(如来寿量品)とある。この「留める」は即ち寿量の文底に留めるのである。これは「文底留種」という一科の
題算である。

【5】 妙法蓮華経の理義                      

      其の1 真理の名 其の2 妙法五字の略解 其の3 萬法開顕の妙法 

     其の4 妙の精義
 其の5 本門開顕

  
其の1 真理の名

 『妙法蓮華経』ということを、人は経典の名であるとばかり考えて、昔からよく言うことではあるが『佛を南無と言って拝むのは聞くことはあるが、お経!いかに尊いからと言ったところが書物ではないか、それを佛と同じように南無妙法蓮華経というのは、少しわざとらしくておかしいよ。例えば論語は孔子の言行を集めた尊い書物であるから、孔子を尊んで「孔子さま」というのは聞くことが出来ても、「論語さま」と言ったらおかしいようなものである。』とこういう愚説が昔からあるから、ここで妙法蓮華経の理義について考えてみておこう。
 元来妙法蓮華経が経典の名とのみ一つの大きな誤りである。成るほど『妙法蓮華経』と経題をつけたのだから、経典の名とも言われないことはないが、本来南無妙法蓮華経は、経の名を主としたのではない。『経の意なり本體なり』を取ったのである。それをお題目というのはしばらく通途にしたがったので、その実は法華経そのものが妙法蓮華経である。『妙法蓮華経ということを説いた経だから、そのままに妙法蓮華経と名づけた』ので之を「如来真実経」とか、「出世本懐経」とか言わないで、直ちに「妙法蓮華経」と名づけたのは、結集者(佛の滅後に経を集めて編纂した人)の考案でもなく、確かに佛の自称に随ったので、これには必然の子細があって、佛自らしばしば「妙法蓮華経」の名を称したのみならず、今佛今番の説法以前より、先天的にこの名があって、代々の佛は皆此の妙法より生じ、妙法を護ることを任務とせられたのであるということをまだ本地を顕さないうつでさえ、「諸佛同称」の宗号なることをしばしば証明されてある。況わんや本地が顕れた以上、『本佛証悟の至法』としての妙法であることが確かめられた暁は、天地を総て、万古を貫いての真理の唯一適称であるから、是非とも『この正しき名をたよって、本理に会入すべく、天下萬世の標的としなければならぬ』 、名が一つ間違えれば、それからそれと葛藤が生じ、疑いや論弁などの花が咲いた暁でなければ、真理の実に到達することが出来ない。そのうちには何かのけつまずきで、元も子も失ってしまうのが落ちだから、世を救おうという大慈悲心を有った聖人は必ず真理正道の標榜たる名を大切にする。『名正しうして義これに随う』の道理であるから、名に重きを置くのである。『必ず名を正さんか』ともいわれてあるが如く、教えというものは名から始まるのである。この呼吸を主張したものは、釈尊の外には、中国では孔子、日本では日蓮聖祖である。釈尊は、萬世の人に猶予疑惑無く、一本槍に真理正道の無上道に入らしむべく、大々的露骨に、端的に、明白に、単純に、直截に、原始的に、そして結論的に、一切の迂曲方便を避けて、公然と『無上真理の體』を取って名とせられたのが、此の「妙法蓮華経」である。即ちイヤとも間違わないようにしたのである。これを間違うのは、間違えるものが悪いのである。

  
其の2 妙法五字の略解                        【5】へ戻る

 そのそも「妙法蓮華経」ということは、全体どういうことかというと一言に言えば「妙なる法」ということで、それは「蓮華」の二字で会得すべきように、一面には譬えとしての蓮華を以てこの妙法の不思議を顕し(譬喩蓮華)、一面にはこの法界が「蓮華」というものであるから、その法界萬法の晴れの名たる「蓮華」を以て、本性清浄の法體を顕したので(当體蓮華)、その道理を理義正しく萬世不変の金言とした教えの典則が「経」というので、要するに『譬喩釈』でいえば法が妙であるから「妙法」、その妙なる法は因果不二と言って、九界の衆生(因)が即佛界(果)であって、二なく別なきものぞという大真理は、まるで蓮華が花と果と同時に出来ているのと、いくら汚い水の中にあっても、天性として決してその汚れに染まないという具合が、この佛性の本来清浄にして、何ものにも汚し侵されない道理に譬えられ、又その花の開いたり落ったりするのが九界の権理を追って説かれた「権教」が、必要に際しては之を用い、必要が止めば之を廃するようなもので その華のつぼんで菓を保護しているのを『実の為に権を施した』方便示現の化導に譬え、花の開いて中の蓮実が現れたのを、権は権として孤立すべきものでなく、元もと実の為に設けたものであるから、『その意を開けば即ち実である』という「開権顕実」の理に譬え、蓮実がいよいよ成就して了えば、花の用がすんだのだから落ちてしまう。その華落ち蓮成ずる所をいよいよ実教真理の全部を顕しおわれば、権の存在すべき必要がなくなるから『正直に方便を捨てて但無上道を説く』という「廃権立実」の理に譬えたので、なおこの上に更に佛の上でいえば前の権実と同じく、菓の為の華なることを、「本より迹を垂れた」のに譬え、華開いて蓮の現れるを九界の迹を開いて、その本地を顕した「開迹顕本」に譬え、又華落ちて蓮成ずるを「廃迹立本」に譬える。此を「本迹六重の蓮華」というて、つまりは「妙法」ということを尤も完全に言い顕した譬喩である。故にこれを本體的に合点するには、この天地法界の当體が、本来清浄の徳ありて、その端厳美妙なる大蓮華界なることを直覚して、『当體蓮華観』に耽るべく、又整然たる理路を推し求めて、理義的に合点するには、『譬喩蓮華』を以て、比況玩味して、妙法の妙法たる所以を会得すべきである。結句いずれからしても「妙法」ということを知るべき指南として、「蓮華」の二字を置いてあるので、およそ何の事物たるを問わず、名称としてこのくらい完全した、整斉した、無尽の理脈を包有した、『美にして威厳ある名称』は、外にはないのである。

 「妙法五字」の指す当體はというと、「法」の一字であって、その法がどうしたというと「妙」であるという事になるから、「法」は體で、「妙」はその心である。

 さてその『法』とは何物かというに『十界十如権実の法』とあって、つまり森羅萬法を指すのである。それを組織的に観察して、迷悟の二法に約し、凡聖の二位に約し、善悪の二法に約し、その品等を周密に階別して「十法界」という。即ち『法則整然たる十個の境界』ということで、略して「十界」ともいうのである。『九界』の法、それは『迷い』の法、『凡夫』の法、『悪』の法で、それ等はすべて『権』である。『佛界』の法、それは『悟り』の法、『善』の法、『聖』の法で、それ等は究竟した佛界で『実』である。故に「九権一実」とする。地獄界、餓鬼界、畜生界を三悪道といい、これに修羅界を加えて四悪趣という。修羅界と人間界と天上界の三善道といい、三悪道と三善道を合して六凡という。声聞界と縁覚界を二乗といい、これに菩薩界を加えて三乗という。三乗と佛界を合して四聖という。 この十界中、極めて霊明な勝れた「佛界」と、極めて劣等な「地獄界」とを、善と悪との両極として、その中間の善悪厚薄をついでて、十個の境界を分類し、それで法界をすべてを尽くしたのである。その十界の一つ一つに、皆それぞれの「もちまえ」から因縁等が、一糸乱れず存在していて、別つべき点は明白に別たれ、一体なるべき点は、本来自爾として一体になっている。その條然たる法則を「十如是」(略して「十如」)というて、これが十界の一々の下に悉く具備している。地獄は地獄の「十如」があって「地獄界」が出来もし存在もする。乃至佛は佛の十如があって「佛界」は存在するのである。相・性・體・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等、この十の法は実相であるから、すべて「如是」(如是とはまちがはぬ事)と標し、それで「十如是」というのである。

如是相・・外部から見て別ち得るもの、当相、前相の類
如是性・・自分に備わりて動かぬもの、俗に言う「持ち前」
如是體・・主質をいう、色心の二つを総称していう。本體なり。
如是力・・功用能力をいう。事を為すに足るべき備えし力。
如是作・・構造経営とも運為建立ともいうて作業のこと。
如是因・・習因ということにて悪心が悪業を起こす類。
如是縁・・助因ということにて因を助くるもろもろの縁。
如是果・・習果ということにて習因より剋獲したる結果。
如是報・・報果ということにて習果の事実に現れたる報酬。
如是本末究竟等・・本とは初め「相」、末とは終わりの「報」、この本末が究竟して齟齬せざるを究竟等という。即ち初めの相が善ならば末も善、それが悪ならば末も悪という道理は一定不動である。始終一貫して此の「十如」の理法を外れることは、断じてないということ。

 この「十如是」は、法華経の法體ともいうべき法門であるから、天台大師は、是について四重に念釈された。一には「十界」に約し、二には「佛界」に約し、三には「離合」に約し、四には「位」に約するの四釈いずれも肝要なれども、就中「十界」の釈は其の広きを極め、「佛界」の釈はその本領を発揮したものでこれが暗に本迹二門の高広を示したものである。故に妙楽大師は、この四釈を『理の攝遍することを明すが故に十界に約して釈し、自證の極を明すが故に佛界に約して釈し、佛の化用を明すが故に離合に約して釈し、三徳の遍することを明すが故に諸位に約して釈す』と曰はれてある。

 佛から言っても吾等から言っても、およそ道を修めるということは向上進歩を意味する筈である。『踏み外せば地獄までも堕ちて行くぞ、向上すれば佛界までも昇れるぞ』という意気込みによって、吾等の修道は力あるものとなっているのである。故に高い「佛界」も、卑くい「地獄界」も、その迷悟善悪に於ける両極の標準はもっぱら我々人間の為に説かれたものである。(教としては)依って今人間日常の上で直ちにこの十界十如の法を諦観する時は、瞭々分明に十界を具し、十如を備えていることが直解されるのである。尤も『究め尽くす』ということは到底我々凡夫には出来ないが、佛祖の指南に従って正しき信を起こし、その信念の力より領解した分際だけでも、たしかに哲学以上倫理道学以上の『堅固明快なる安心』は立つのである。
今本化聖祖の指南に依って、試みに人間を本位としての十界円具を例示してみよう。

 瞋(いか)りの心・・・・・地獄界の心・・怒りっぽい人
 貪(むさぼ)りの心・・・・餓鬼界の心・・欲深い人
 愚痴(ぐち)の心・・・・・畜生界の心・・愚痴っぽい人
 諂曲(てんごく)の心・・・修羅界の心・・いつもほめられたいと思っている人
 平和(へいわ)の心・・・・人間界の心・・穏やかな人
 喜楽(きらく)の心・・・・天上界の心・・しょっちゅう悦ばしそうな人
 はかなさを観じる心・・・・声聞界の心・・佛の教えに心づいて世の無常を観じ道に入る人
 はかなさを観じる心・・・・縁覚界の心・・飛花落葉を観じて無常を知り佛道を求める人
 慈愛(じあい)の心・・・・菩薩界の心・・無顧の悪人猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、と仰せの如く、慈しみのある人
 公正(こうせい)の心・・・佛界の心・・・堯舜等の聖人の如き万民に対して偏頗なき公正なる人

 元来「如是」というは、『そうあるべき様にある』ということであって、造作虚偽を離れたる、所謂「実相」のことで、それが自ずから十個の則を為していることを、佛のみが究盡されたのである。この十個の天然法則が、何の境界、何の事物にも、ちゃっと具わっていて、『そうあるべきよう』に有り、『そうあるべきよう』に成り、「地獄」でも「佛」でもおのおの相も性も體も力作因縁果報が存して居て、諸法各々その必然の法則に保たれて、おのおのその特色を発揮している。こればかりは神の造ったものでもなければ、人が造ったものでもない。天然法爾として存して、自然とその中に厳格整然たる法則が本来に具有されてあるから、その法則に含んでいるところの『道徳的性能』を取って、人が行うべき道と定め、その包有している『すじみち』を取って、それを人間の則るべき原則とし、その天然法を意味的に解し来たったのが、佛の法理である。畢竟法理は絶対であって、何ものからも枉げられないものとされている。この法に順うものは『善』で、この法則に背くものが『悪』となって、はじめて善悪の両極を意味するのである。 さてその善の部面を吾等の向上点として、これに帰向すべく一切の思想行動を霊化して行くというので、修行即ち真理の体現活動が発生してきたのである。故によく此の法則に順いて、ほとんど法則そのものと別物ならざるまでの境界に到ったものを、法と一体に帰したものとして、之を開覚とも成佛ともいうのである。これが佛法の原理であるから、十界を十法界ともいう。法界とは『それぞれの法則にて立っている境界』という事で、その法とは何かといえば、この「十如」の法則である。それに向下点と向上点の二作用があって、「向下点」は善から悪に降る方、「向上点」は悪から善に帰する方、この両面の中に於いて、向上点の極を佛界と為し、向下点を九界と為し、佛界を『悟』と立て、九界を『迷』とする。(九界の中でも菩薩などは佛に近き高位で無論下級から比べれば、多くの善と悟りを有しているが、今は極果の佛に望めていうからm畢竟したところが迷いの分際となるのである。「九悪一善」も矢張り此の例である。)至極の善を佛界とし九界を悪とする。即ち「久悪一善」である。この九界と佛界とを相対して、九界の心を本とした法を、すべて「権」といい、佛界を基礎とした法を「実」というので、九界限りの法を「権理」、九界の情を酌んで、それに応同して説いた法は「権教」となるのである。 その森羅万象の固有した法則、その表も裏も一切をひきくるめて「法」というので、「善」でも「悪」でも「権」でも「実」でも、つまりの行き止まりは、必ず本来の一致点に帰着すべきものであって、支離滅裂に終わるべきものは一法もない。その個々に具えた個々の原則も、一々に皆一大法界の原則に連れられて動いているので、末の方より見るから別々のように思われて、『法界の一体であるということ』が会得しかねるのだが、本の方から見れば一つものの中にいろいろの小区別があって、それぞれの一小本分を発揮しているので、畢竟その一つ一つの働きについては、一つの大いなる機関があって、各部面を支配し、法界はその一組織の下に存在しているのであるということを示して、始めて善悪二法の由ってある根元が解り、『法界同一體』の覚悟が決定するから、智慧も安心も道徳も、ここに於いて正確なる根拠を得て、始めて大安楽地の境界に到るのである。その趣を顕すについて、ひとまず一つの法に「権」と「実」の中に「本」と「末」とあることを知らせんとて、「本」「迹」二門の進退を立て、さて此の権実と本迹との二門二教を始末して見せるに、「開顕」ということを以てした。この開顕が即ち「妙」ということである。

  
其の3 萬法開顕の妙法                      【5】へ戻る

 「妙」ということは、事物の中に存している中心の真理をあばいて、その固有の本能を顕すことで鉄を點じて金と為し、廃物を興し、冷に温を与え、死物に生を与え、萬物を活かす謂いである。法界萬有の当體は、すべて真理であって、悉く本佛の功徳界より流れ出たものであるから、権だの妄だの悪だのというものは一つもないはずである。然るに事物に真妄虚実が分かれ、作業に善悪邪正の別が立ち、果報に苦と楽との隔てが出来て、法界は画然として、この二大原則が並立しているようになったのは、どういう理由かというと、これは物の上に二つが出来たのでなく、情の上に二つの異相を認めたのである。真理は依然として一つであるが、情が之を隔てたのである。「情」とは『理に従はないで自己の煩悩に従うところの心』である。即ち飲みたい食いたいという場合の情である。それが自己の已み難き欲望の切なる力によって、自己の一面をくらまして、一歩一歩と真理に遠くなるようの径行んじ誘い行く、それを『迷い』というので、ひとたびこの情的観想が発生してくると、それはそれは四方八面このほうの勢力は、手近ではあり、繁くはあり、待てしばしなく発生に発生を続けてくるから、その勢いはげしくて、到底防ぎきれない。その内に真理性の心が段々薄らぐ。ついにはこの情的観念が、全く自己の本当の心であるかのようになってしまって、それを変則だともおもはないで、この真理界たる宇宙の中に、非真理の心を擁護して、平気ですましているようになったのである。そこで聖人たちが、いろいろと教訓をする。 それが為幾分良心を刺激して、人欲の私と天地の公道との別を知るぐらいな智慧は出てきたが、猶自己が即ち『真理そのもの』であるということには想い到らないから、つとめて善を行うのを人間の道徳と考えている。それでは一時の善一時の徳であって、常住不滅の善でも徳でもないから、つまりは破壊せられてしまう。佛陀はこれを『根本的に開覚させたい』というので、根治的に先ず権実本迹の厳しい区別を立てて、それで善悪迷悟の法のいたく異なりたる呼吸を知らしめ、しかる後にその諸法の中に存している真理の中心を指摘して、いずれも『一真法界の流出』なることを悟らせる。その権中の「実」、迹中の「本」、悪中の「善」、妄中の「真」を発(ひら)いて、その内容を見せしむるを「開」といい、その「開」によりて真実の顕れたるを「顕」といい、この開顕を「妙」というのである。

 「開」には、開の準備(起)と、正しく開する(顕)のと、開し終わったところ(竟)の三段があって、それが施、開、廃、の三重となる。権実にも本迹にもある。合して六重の開顕である。

 概して言えば、一大佛教は一大開顕である。開顕のための佛教である。一切衆生が佛であるということを知らせるのが、そもそも佛教根本の目的であるから、開顕が佛教そのものであると共に、法華経が開顕の正體なり中心なりであって、一大佛教は正しく此の開顕の準備と付属である。故に起顕竟の三時説に摂するときは、全佛教悉く開顕の為のものとなってしまうのである。
 『妙』・・・「権実開顕」と「本迹開顕」の二つがある。
権実は諸法を横に見ての分け方であり、本迹は諸法を縦に見ての分け方である。又権実は九界より佛界を見る場合であり、本迹は佛界より九界を見る場合である
『権実開顕』
 (施)・・・為実施権・・・起・・・(開の準備)
 (開)・・・開権顕実・・・顕・・・(正  開)
 (廃)・・・廃権立実・・・竟・・・(開  了)

『本迹開顕』
 (施)・・・従本垂迹・・・起・・・(開の準備)
 (開)・・・開迹顕本・・・顕・・・(正  開)
 (廃)・・・廃迹立本・・・竟・・・(開  了)

  
其の4 妙の精義                            【5】へ戻る

 「妙法五字」の精要は「妙」の一字に尽くされてあるから、「妙」の字は「五字」を代表したようなものである。故に深くこの「妙」の義を理解し及び味解すれば、佛教の能事は畢れりと謂ってもよい。さてその「妙」とは『開』の義又『蘇生』の義と釈して、要は死せるものを活かすの義だとしてある。これを「能開の妙」というて、それは「一念三千」という法門を本とするのである。森羅三千の諸法は一念の発現であって、佛界でも地獄界でも、一切の事物は皆一心の所現だという道理が成立すれば、法界は本来一體だということが決定してくる。法界同一體だとなれば、その法界が固有して居る真理法則は、即ち自己の力であるということになる。即ち自己が森羅三千の中心であるとなれば、無限の権利と無限の義務とが生じてくる。その権利は自受法楽の『涅槃』となり、その義務は平等大慧の『慈悲』となって、法界をみること我が身の如く一切衆生を見ること我が心の如くなるから、それを開覚とも成佛ともいうのである。即ち鉄を點じて金と為すの法、死物を活かすの謂いである。 実は鉄が金になり死物が新たに活きるのではない。それは例の情見の為に鉄となし死物と為したのを、真理の光明、佛智の電力で、元の本體本質に還えしたのを成佛というのである。この手際の真実にして正しく、而も巧みにして円満なる所を具体的に「妙」というので、「妙」の中には『真実』『正』『円』『浄』『安』『即』『自在』『大』などいう意味を、残らず含んでいて、而もそれが言うに言われぬ巧妙な組織になって、血が通っているので、「真」とか「正」とかの抽象的言語では、とても言い顕すことが出来ないから、之を褒美的に「妙」というたのである。現に法護三蔵は法華経を翻訳するのに、この妙(原語『薩』)を「正」と訳して正法華経とした。義理は異なっておらぬが、十分ではない。羅什三蔵が「妙」と訳したのは、能く法華経の経意を得ているから天台大師も日蓮聖祖も、特に羅什の訳した法華経を正意として宗旨を定められたのである。以上の説明で「妙」ということの、佛教に於いて最も大切なることがほぼ解ったろうと思う。ただに佛教の大々的所詮なるのみならずして、今日世の中のすべてのことが、この『能開の妙』ということを離れては、まるで死物になってしまうのである。いくら真理だの事実だのといっても『血の通っていない真理』では仕方がない。世間の政治でも道徳でも、この萬法開顕の妙を離れては、根を断たれた草木のようなもので、一時は枝葉や花が持っているようでも、いつか枯れてしまわねばならぬ。畢竟世間の道徳や理論が『言に花が咲くばかりで、一向に実のならない』のはこの『妙』という精神を失っているからである。世間ばかりではない。佛教でも、法華経の光に離れた権教方便の経教を中心とした宗教は、いずれも此の「根無し草」の部類である。「所開の法」は「能開の妙」を予想して、始めて自家の「妙」を発見するので、「法」即ち妙であっても、「妙」の意味を自覚しなければ、その『法の妙』が人間の上に顕れてこない。自然の妙は、捨てておいても妙なれども、人の意識に上らなければ、猫が「小判」に接したようなものである。宗教の安心ということは、元もと人間のために必要であることを忘れてはならない。真理真理といっても、血の通わない真理では役に立たない。故に『真』といはずして『妙』といい、『実』といわずして『妙』といい、『正』といわずして『妙』というたのである。即ち真理正道の大成が『妙』である。

  
其の5 本門開顕                             【5】へ戻る

 『五字』の精が「妙」の一字に帰着するとなって、さて其の「妙」の効能はというと、「開顕」にある。而してその『開顕』は迹門の立場でなくて、必ず『本門の開顕』でなくてはならぬ。所謂『一二の教相は、世間にも夢の如く言うものもあれど、第三の法門に至りては全く沙汰がない』と名乗って、本化独特の判教を発揮された、彼の有名なる「第三の法門」は全くこの「本門開顕」の一意に正拠したものである。迹門は爾前教を開しても、本門からは開せらるる地位で、本門のみは『萬能開』である。而して此れに又文上文底の別がある。この「文底」というのが、本門寿量品の文の精神を取った、妙法五字ということで、即ち「妙宗」で唱ふる「題目」のことである。これが「萬法能開の妙」としての究極したもので、これから見ると、「文上本門」もなお開せらるる「所開」である。況わんや「迹門」況わんや「権教」をやで、但「本門」が上は『題目』を生み、下は「迹門」以下の諸法を開するが故に、法門の相場は、すべて「本門」で立てるのである。即ち『西陣の錦とか伊丹の清酒とか産地を以て品物の精良を証する』の格である。故に「本門の開顕」ということを以て、法華開会の眉目とするのである。同じ法華経でも、この本門の理義を主としないで、ただ迹門を中心とした開顕では、自己より以下の「権教」に対した場合にのみ開顕の権能があるようだが、その「能開の妙」が横だけで、竪に行きわたっていないからつまり不完全である。『十界が皆佛性を具えている』とだけはあかしたが、未だ佛の本地を顕さないから、その説くところの佛性そのものがなお不明確である。『品物は手に入ったが、所有権が移っていない』というような具合で、「実」として「権」に対した資格は、正に能開の主権を有したようだが、後の「本門」に対すれば、やはり所開の地に立って、「本門」から開せられねばならぬ。結局半分の珠を獲たのであって、完全なる「妙」というわけには行かない。天台宗も法華経を奉じているのであるが、その法華経は「迹門」を主眼としての法華経であるから、具体的に法華経の勝能を発揮することが出来ない。それ故「題目」も唱えたり、「念仏」も申したり、「禅」も「真言」もと、いろいろなものを寄せ集めて、「猿虎蛇」のような法華経を造り上げて、自らも其の正確の中心を認めえないようなありさまになっている。弘法大師に「第三の戯論」と言われても、ちっとは弁解できかねる様な具合である。  今この本化妙宗の「能開の妙」は、立脚地が「本門」にあって、帰着が妙法五字の玄題にある故、極度の最勝点に立ったもので、唯萬法の何ものに対しても、「開会」の権能を有して居って、自らはどこからも開せられない、「絶対開」の無上法である。而してこの「本門開顕」の理義は、「本門」を中心として法華経を解するから来たるので「本門」を中心とすることは、「本化の菩薩」に限る。迹化の論師人師は、決して其の分でない。畢竟龍樹菩薩や天台大師のような教傑が、この「本門開顕」を自己の主張としなかったのは、能く時節をわきまえ本分を守ったので、これは末法濁悪の時代に至らねば説き顕すことの出来ぬ法となっていて、その時代になると「本佛の直命」として「本化」が出現し、此の「本門開顕」の妙義を以て、極悪の時代を救うことに、釈尊みずから法華経に規定せられてある。佛の大慈念が、特に末法五濁極悪深重の世を救うために、此の法華経を説き残して、その人までも撰定して置かれたのであるから、「本化」の手を透して伝え顕された法華経でなければ、真の法華経でない。佛教全体の取捨進退も、一に法華経の上に存しているから、本化の一言一動が、全佛教の中心である。佛教に於いての此の上もない問題はといえば、『本化の菩薩の出現』ということにある。そうしてその出現が二度だ、一度は佛在世、一度は末法の時代である。若し佛教を信ずるとか研究するとかいうものがあったら、先ず第一にこの事からして究めて掛からねばならぬ所の大問題である。  本化の菩薩によりて、先ず此の日本国に弘められた「本門の題目」は正しく法界萬法の開顕法として、「本尊」と「戒壇」とに照応一具して、時と国と機との一大相応を得て建立せられ、釈尊、法華経、世界、日本国、人生、の一切を解決して餘す所なき一大至法であることを知らねばならぬ。

 萬法を開顕點晴して、その死を活かし、その闇を破り、一切の道法理義を根底より妙化すべき本門の題目は、真理正道の実力を標示すべき左券として発行せられた『約束手形』である。故にこの五字の律法的規道を無視してはよろず名義実質の齟齬を来して、理義葛藤の種となる基であるから、佛陀も祖師もヒドク名ということに重きを置いたのである。而してそのやんごとなき名それ直ぐに真理の體である。佛智の実である故、特に「題目」と標榜したのである。


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