本門の本尊 
       本化妙宗の宗旨  本門の題目   本門の戒壇 

 【1】 久遠本佛の正體 【2】 本果妙証 【3】 本尊の図式 

 【4】 曼陀羅の意義
 【5】 本尊の事理人法 【6】 本尊の依文 

 【7】 本佛化せる十界
 【8】 功徳荘厳の曼陀羅

                                  「法華経の勉強室」に戻る 

【1】 久遠本佛の正體

  「本尊」ということは『根本より尊いもの』ということで、ある意味から尊くした、若しくは尊く思わしたものではない。他から造りたてずして、自然に本来より尊い體となり居るものを指すので、宗教上に本尊を要するわけは、この本来より尊い無上の境界に対して、絶対の帰依信仰を捧げる。その信念の力に、無限の力用がある。この力用が宗教の価値のある所で、その力用の発すべき信を成立させるのが本尊である。よく世の諺に『鰯の頭も信心から』ということをいうが、いかさま信の力で鰯も尊くなることが有りもしよう。けれどもそれは信の方から鰯を尊くしたので、鰯のお陰で信が起こったのではない。そういう信も無いことはないが、それは一種病的信念で、世にいう『迷信』の類である。狐を拝んだり、蛇を拝んだりする連中は、みな此の鰯系を引いたのである。真誠の宗教では、斯くの如き情けない信を要求しない。ややもするとこの鰯系の信を以て、法華経の真を説明しようとしているものもあるが、それ等はまるで『犬猫の食物で人間を饗応すべし』と説くのと一般である。要するに本尊とすべきものが正しくなければ、信も随って正しく起こらないのである。
 本尊と信仰とは切っても切れない関係のもので、「正しい信」とは、一つは「正しい本尊」を信ずる信のことをいうので、「本尊」が正しく尊高なれば、それを信ずる所の「信」そのものも、任運に正しく崇高の情操を発揮するのである。 「本尊」と「信」とは互いに相発し相たすけるので、どちらが先どちらが後ということはないが、本末をいえば「本尊」ありての信でなくてはならぬ。「本尊」そのものが吾が心に発揮したのを「信」というので、適法に「本尊」に帰依同化した場合の一刹那に発生する『根本心の発動』であるから、「本尊」に帰依せざる以前に発生すべきものではない。
 果たして然からば『正しい本尊』を撰ぶの要はいうまでもないことである。心の中には浄いものも汚いものもいろいろさまざまある。それが外界の対縁によりて浄くも汚くもなる。浄いものに接すれば浄い心となり、汚いものに接すれば汚いものとなる。高い方をいえば、最高最尊の佛陀と同じ部分もある。低い方をいえば、畜生よりも下等な地獄の心さえある。所対の如何によって、どちらでも出る。最高最尊の本佛に接すれば、必ず『本佛の信』が起こる。狐や蛇や鰯を拝めば、やはりそういう類の信が起こるのである。それであるから、身体に養生の必要なるが如く、心には信念の修養が必要である。而して修養の先決条件が『吾人は須く最尊最上の本尊を奉ずべし』ということである。而して今この法華経の実義として説き顕された「久遠実成の本佛」というのは、法界真理の原動力ともいうべき大精霊の徳體にして、形から言っても、力から言っても、はてしのない広大無辺のものであるから、寿命を以て其の功徳の一切を代表顕説して、『三身常住、無始無終』といい、而もそれが無責任の不可解的誇張談でない。『つとめるだけつとめて得る』という因果の大法則によりて成立していることを示して、『久遠実成』というので、「久遠」とは『限りない遠い古』ということで、「実成」とは『チャンと規則通りの修行をしてそれに酬いて得たる槍先の功名より来たった功徳』ということで、何の因もなく始めより偶然に尊いというような、そんな夢のような、雲をつかむような、茫漠無責任なる造物主もどきの神とは全く違う。 やはりその誰たるを問わず『するだけの事をして、得るだけの果報を得る』と、同じ意味同じ経路を辿って、因果の大理法の下に修行もし証りもすべき正真正銘の手本であるから、「実成」というので、「実成」であってそれが「久遠」であり、「久遠」であってそれが「実成」であるところの『実際的大尊貴の功徳のかたまり』が、永久不変に吾等の手本となり、吾等のあらゆる力の源となるべく、すべての信ずるものに対し、先天の契合約束を教法の上に取り結びて、いつの世にも色もかわらぬ三身常住の本佛として、其の教行因縁の『約束名』を「妙法蓮華経」と定め、この名によりて、本佛の具有せる一切の因の功も果の徳も顕そう、この名をしるべに之に集まれ、この名をしるしに吾は慈念をここに致そう、この名は即ち真理の體にして,且つ相性をも力用をも包含し、宇宙不滅の真理正法を意味表現している。およそ本佛の具有しつつあるすべての因縁果報力作體性は悉くこの五字に含まれている。故に「妙法蓮華経」の五字によりて顕されたる徳體光容が即ち久遠実成の本佛の正體である。

【2】 本果妙証                               

 法華経の中心は本門、本門の精要は「十妙」である。
 本因妙 本果妙 本国土妙 本感応妙 本神通妙 本説法妙 本眷属妙 本涅槃妙 本寿命妙 本利益妙 

 此の十妙の骨ともいうべきものが、即ち「本因」「本果」「本国土」の三妙であるから、この「三妙」を以て、他の「七妙」を摂して、法界衆妙の『根本妙』とするのである。
 真、善、美、というけれども、「真」とばかりでは善と美とを含まず、「善」とばかりでは真も美も含まず、「美」とのみでは真善の二を兼ねないから、つまり麁法たるにすぎないが、若しこれを「妙」と称する時は、「真」も「善」も「美」も一切悉く備わりつくして、一点の欠け目無く、かゆいところへ手が届くように、すべての意義も情味も兼ね備えて、而も無限の活動を意味している。
故に法華経では
 大というべきを「妙」といい
 真というべきを「妙」といい
 善というべきを「妙」といい
 美というべきを「妙」といい
 浄というべきを「妙」といい
 自在というべきを「妙」といい
 安楽というべきを「妙」といい
 極というべきを「妙」といい
 円というべきを「妙」といい

その外、威厳、平和、光明、正確、調和、融通、具足、円満、およそあらゆる「よきこと」のすべてを調和的に具有し発揮する呼吸を「妙」と称したので、本義は不可思議ということであるが、要するに『何とも言い得ざる美味を具えた極めて正しい法』という意に帰着する。
 これに「判」と「開」の二つがある。
 「判」とは諸々の妙でないものを「麁」といい、この「麁」と相対して一々にこれは「麁」これは「妙」と仕分けをすること、「開」とは妙でないもののすべてに、皆妙の分子が潜み居るものとして、そのやがて顕わるべき『潜妙』を摘発允認して、おのおのその極真を発揮せしむることで、とじられてあるものを開くという意味になる。凡夫でも佛の分子を有して居るから、それを摘発すれば、釈尊と同じ佛になるに相違ない。たとえ何かの事情で、全部その通りに成り得ないとした所で、常にそれを心がけて居れば、いつしかその通りになる。まるで成らないまでも、幾分の進歩は必ずある。これが向上的態度というのである。この向上的方針をすこしでも外れると、人間はどこまで堕落するかわからない。堕落を理想とする主義もあるようだが、それは『ヤケになった人間が無法をする』のと同じ度合いのもので、元より論ずるに足らない。 法華経の命というべき、この「妙」の一字は、即ち亦法界萬法の根本的生命である。これを本門寿量の説会に於いて、十箇の要点を挙げて、妙の妙たる所以を示した。それが「十妙」で、その中の「本因・本果・本国土の三妙」は亦この「十妙」の骨子である。「三大秘法」はこの「三妙」を宗教的にあらわしたものであって、「本門本尊」は即ち「本果妙」の証得である。即ち「本門題目」の「本因妙」に対する証得の體であるから、「本果妙証」というのである。即ち妙法蓮華経の五字は一面本因の修行であると共に、一面その徳體たる本果証得の主體である。

【3】 本尊の図式                              

 久遠本佛の実體として、「妙法五字」は理の上の名體であるが、事実上の剋體は、即ち、『十界を円満に具足した姿』である。故に中央に「南無妙法蓮華経」を大書して、その左右三段に上は「釈迦佛」「多宝如来」等の佛界より、下は人畜鬼界に至るまで十法界のすべてを列ね、その十界が悉く中央の「妙法蓮華経」に朝宗し、且つそれに照らされて居る姿を図し顕したのが『本門本尊の妙法曼陀羅』である。その形式について「文字曼陀羅式」と「形像式」とがあるが、文字曼陀羅が正式である。形像式には「一尊四菩薩式」と「二尊四菩薩式」がある。今の木像勧請はこれから変化したものである。

【4】 曼陀羅の意義                            

 元来「曼陀羅」ということは、印度の言葉であって、之を漢語に訳すると、「壇」ということになる。即ち「壇場」である。そこでこの「壇」にはあらゆる尊い佛菩薩等を祀り請じてある処ゆえ、亦之を「諸佛聚」ともいい、その諸佛諸尊に功徳が充ち満ちているから「功徳聚」ともいうのである。而もその各種各様の佛菩薩等の諸尊諸功徳が、互いに相照らし合って、環の端なきが如く円かに相融し相具して円満なる故、亦義釈して「輪円具足」という。この外まだ種々の訳があるけれども、つまり、『本尊さまを祀る壇』ということが形體で、「功徳聚」又は「輪円具足」がその義である。 今十界の諸尊形が悉く一大妙法の下に統綜せられてあつまり会したさまは宛然『十法界のあらゆる功徳勝能を聚めて其の威厳尊特を認めた姿』であって、それが一々の孤立的位地よりせずして、『中央主尊の光りに包まれての上で尊い』というのが、この本尊の主眼とする所で、この意味を失ったならば、佛でも菩薩でも究竟の能力はないものとする。ましてその以下の天や神や人畜鬼趣の類に至っては、全く無功徳なる上、場合によりては毒害の本となるのである。即ち「中尊」は譬えば一天萬乗の君の如く、その左右の「諸尊」は百僚百官の如きものである。大官小吏おのおの必要でどれ一つ無くても事を欠くのであるが、さりとて君主より離れて立つことは出来ない。若しも君主より絶縁して其の能力を発揮しようとなれば、是れ明らかに反逆にして、天下大乱の基である。十界の體用力作、悉く中尊妙法の光にてらされての上に、その各自の徳性を発揮すればこそ、「本末究竟等」の整束を見るのである。故に中尊を透しての互具調和でなければ、「輪円具足」でもなく、「功徳聚」でもないことになる。

 而して中尊の妙法五字は、正しく
「久遠の本法」を體とし、
「久遠の本佛」を性とし、
「末法の要法」を用として、

『法の名』に依りて顕されたる『本佛の體』であるから、法界萬有の功徳が一切すべて本佛の程度に発揮された形相として、図出せられたのが、「妙法曼陀羅」である。

【5】 本尊の事理人法                      

 中央の「妙法蓮華経」は、法界の中心主体を示し、左右排列の諸尊はその妙用を示し、法と人とが理の上に一致し、事の上に調和した『功徳団』であることをあらわしたもので、単に法から言えば中央は真理の體であるのだが、その真理に無限の霊力即ち功徳力がある。それが人格的に顕れた佛陀であるから、功徳點より「本佛」と称し、理體點より「本法」と称するも、その「本法」の内容は本佛であり、「本佛」の内容は本法で全く「人法一如」である。本佛本法の上の一如は、また即ち本尊と吾等行人との上に於ける「人法一如」となるべき原則であって、信と行との媒介によりて、吾等の「人」はいつでも本尊の「法」と一つになるべく仕掛けられてある。
 功徳の上から之を本佛として中尊の剋體を定めることは『本門寿量三身常住』の教旨に順った称呼で一口に「本門の教主釈尊」と言うのである。然るを「南無釈迦牟尼佛」と書かずして、「南無妙法蓮華経」と書いたのは、前にいう『理の上の名』を取ったのである。所謂妙法は本佛の「理名」で、本佛は妙法の「事名」である。故に
『無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云う』(御義口伝)
とあって、これは佛の『本體称』であるとの意である。今一切の佛菩薩の本地を開発して、諸乗を帰一するの必要から、最大普遍的にして且つ原則的なる本體称を取ったのは、その釈迦といい多宝という如きは、元来『個體称』であるため特に之を避けたのである。しかし本門寿量の説会において顕れた、所謂「本門の教主釈迦如来」は名は個體称の釈迦でも、その実體は既に超個體的で、何佛何如来と数ある中の一佛でなくて、法界萬法功徳の根元、一切の諸佛の惣本體でただの一如来でない。故に諸佛の本體名なる「妙法蓮華経」という絶対真理の名を以て其の名とせねばならぬ。即ちその実體を指す時、之を「本佛」といい、その公称を表する時「妙法蓮華経」というのである。しかるを佛の外に法を認めたり、又は法を無視して佛をとるなどという、あらゆる葛藤は悉く邪説曲論である。一言にしてこれを決すれば『妙法蓮華経の名で顕した本佛』ということに帰着するのである。

【6】 本尊の依文                            

「本尊」についての本拠は、第一経文に於いては

『如来秘密神通之力』(如来寿量品)

の文を

『無作三身の依文なり』

と訣し、これを本尊の原理として三身常住無始の古佛を顕すが「本尊」なりとのべ、

更に

『時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出づ』(如来寿量品)

の経文を以て『本尊儀相』の本拠とするのである。

乃ち

『霊山一会厳然未散の文也。時とは感応末法の時也。我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界也。霊鷲山とは寂光土也。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づる也。秘すべし秘すべし。本門事の一念三千の明文也。御本尊は此の文を顕し出之給也。』 (御義口伝)

『本佛が常住にこの土にまします。』
ということによりて、本尊の根本は立つのである。
『信念妙行の前には、いつでも現在前する』
というので本尊の儀相は明らかになるのである。
 十界宛然円妙具足の本尊は、遠く雲のあなたの空理空談でなくして、正しくそれが事実の上の国家人生に打ち建てらるべく、理談より実際へ顕れ来たる様の仕組みに建立されたのである。故に経文に『此娑婆世界』とあり、『霊鷲山』とあって、実地界を指してある。猶一層適切に解して

『時とは末法第五の時也。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗倶とは六道也。出とは霊山浄土に利出する也。霊山とは御本尊也。今日蓮等之類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説く也云々』(御義口伝)

単刀直入に、吾等行人の住所を指して本佛の住所と為し、尚今一層的確に

『惣じて一乗南無妙法蓮華経を修行する処は、如何なる所也とも、常寂光の都、霊鷲山なるべし。(中略) 本有の霊山とは此娑婆世界也、中にも日本国也。法華経の本国土妙娑婆世界也。本門寿量品の未曾有大曼陀羅建立の在所也云々。瑜伽論に云わく、東方に小国あり、その中に唯大乗の種性のみなりと。(大乗の種性とは大乗を信じ行ずべき人種)大乗種性とは法華経也。法華経を下種して成佛すべしと云う事也。所謂南無妙法蓮華経なり。小国とは日本国也云々』(日向記)

 これ国土を本尊化するの深義をあかしたものである。『国土の成佛』というのが其れである。人について言えば個人をも本尊化するのである。それが本尊の目的である。これを為すのに「本門の題目」と、「本門の戒壇」との二つが要る。その二つで円満に信と行とが成り立つ。それが成り立って始めて「本尊」がものをいう事になる。『三法一體の妙旨』に由るのである。
 「本尊」は元と真理の標式であるから、法界的である。小さく言っても世界的である。故に世界統一のためには、先決条件としての第一標式である。即ち世界統一の旗印である。而もその『世界的の本尊』が、特にこの『日本』に建つということについて多くの因縁や理義が存しているのである。

『一閻浮提第一の本尊、此国に立つべし』(観心本尊鈔)

世界と日本との関係、日本と妙法との関係、尋常にあらざるものと為せる本化の大判を窺うことが出来るであろう。
 而して本尊の剋體については、いづれも「本門の教主釈尊」として、それを「妙法蓮華経」の名の下に表彰する趣が示されてある。下に二、三の聖判を示す。

 『其の本尊の體たらく、本時の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏、多宝佛、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は、萬民の大地に處して雲客月卿を見るが如し、十方の諸佛は大地の上に處したまう、迹佛迹土を表するが故也。是の如き本尊は在世四十余年に之なし、八年の間にも但だ八品に限れり』 (観心本尊鈔)

此の聖判は、名に負う『妙宗本尊の根本儀軌』ともいうべき「本尊鈔」の指南であるから、解説の模範も一にこれに遵わねばならぬのでる。文に『塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝佛』云々とある。即ち「中尊妙法蓮華経」のことである。それを後の文に至って『寿量品の佛』と指し、又『此の佛像』と呼びたまえる所を以て、これその内容の「本佛」なることが知れる。
 単に之を佛とのみ呼びたまえるは、「報恩鈔」に「三秘」を釈する時

『一には日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の中の釈迦多宝、外の諸佛、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。』

とあり、又「三大秘法抄」にも

『寿量品に建立する所の本尊は五百塵點の当初より已来、此土有縁深厚、本有無作三身教主釈尊也』

とありて、直ちに内容を的指して本佛たることを示されてある。

【7】 本佛化せる十界                       

 既に前の剋體の條でも述べた通り、中央妙法の主體即ちこれ『久遠本佛の正體』であるとすればその左右に羅列した十界は、支流分脈のように想われる様だが、決してそうではない。これは本佛の内容をそのまま具体的に顕したので、本佛には本来宛然として十界が備わっているのである。即ち本佛界中に備わっている十界の外に『別の十界あることを認めない』、それが本門寿量の深意である。『十界おのおの一界ごとに皆他の九界が具されている。』と説くのが法華経の一念三千という法門である。『地獄も佛も悉く自分に備わっていればこそ、地獄の心も起こり、佛の心も起こるのである。同じ起こすなら佛の心を起こすがよいではないか』というのが、天台大師の唱導された主義で、これは一般佛教の意に近い見地から法華経を解したので、実は法華経の「迹門」のこころであって「本門」の実義ではない。
 本門の実義でいえば、十界のいずれもが、すべて本佛の具したる中の十界であって、その界々の一々が、どれ一つでも本佛より離れて孤立しているのはない。泣いても笑っても嫌でも応でも、吾々はすでにすでに先天的に本佛に具えられた十界の其の一界である。故に何が何でも本佛の規矩に背反したるは、佛に背くの罪を得るばかりでなく先ずハヤ吾が自己をも滅却するのである。故に本佛の體とか寿命とかを説けば、吾々の本徳本用はずでにその中に現れてある。『法界は、唯一の本佛以外何ものもない』とするのが、法華経本門の実義である。その姿を遺憾なく顕したのが、十界本有の尊形たる、この「本門本尊」である。而もその十界の本有なるものが、ただ偶然的に本有でなく、それがすべて本佛の修行証果の功徳に包まれているのであるから、『十界本有の功徳』というので、その功徳の結晶を本尊とするのである。 単に十界を具したりとのみでは、必ずしも絶妙の本尊とは謂われない。天台にも此の種の本尊はある。不空三蔵という真言宗の学者も、法華経によって「観智儀軌」というものを造ったが、それも十界羅列に類したものである。十界が相互に具した上に、それが悉皆本佛に朝宗している(因よりいう)乃ち本佛を通じての上に相互具せる十界(果よりいう)である。而も其の本佛は同時に迹佛迹土を開顕して、『観』の下に教あり、『教』の下に観ある。本法が十界を統するは『観』なり、凡と聖との別あり、説会と法界との別ありて、八品の説相を表示し、三国伝燈を示し、四聖には南無を附し、六凡には南無を附せざる等は教相にして「教」なり。即ち「教」は花にして「観」は実なり。教観一如して信行証得を完全にするは美の美たる所以にしてこれ花実雙美の妙儀軌に依ったのである。

【8】 功徳荘厳の曼陀羅                         

 「佛」は縁に由って現れたり隠れたりするもので、その體は周辺常住でも、その名はおのずから局限があるから、佛の本體を直爾に顕すには、局量起伏のない「本法」の名を以てするに如かざる故、ワザと「佛」の名を避けて、その『本體名』たる「妙法」を中尊としたのが

  本法中尊

というのである。法が中尊であるから、この佛の大々的常住であることが、すこしの疑念なく顕された「本法」というても、「本佛」の外に存したものでなく、本佛の証得の内容を「本法」というのである。ただ一往の順序に従えば、佛が悟って、それから説いたから、法は世に伝わったのであるが、その佛が修行の始めは、法を定規として、それに会得悟入したのであるから、

『諸佛の師とする所は所謂法也』(涅槃経)

とあって、法は佛を生み出す根元だとしてある。又

『此の大乗経典は諸佛の宝蔵なり、十方三世の諸佛の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種也。諸佛は是に依って五眼を具することを得たまえり。佛の三種の身は方等より生ず、是れ大法印也、涅槃海を印す』(観普賢経)

とも説かれたある。「方等」とは広大平等の意義を説いたる教法即ち大乗ということである。いかなる佛もみなこの「大乗方等経典」より出たものであるとして、修行入証の順序から、法を能生とし佛を所生としてある。今「本尊」は修行の正的として建立されたものだとすれば、やはり修行入証の順序の方に従わなければならないので、本法を中尊としたので、これ即ち「法」は元と佛の『公的名称』であるからである。又他の諸々の権教方便の教えで、直ちに佛や菩薩を本尊とする未盡理の教行組織に対し、究竟盡理なることを示す必要もある。 要するに法界萬法を統一する根本法を標榜して、その内容の功徳範囲を知らしむるについて、十界三千の諸法を、この通りに秩序的に具有し、調和的に具有し、向上的に具有し、活動的に具有して居るぞということを示したのが、左右の羅列した十界の諸尊形である。それが十が十ながら、すべて中央の妙法五字に照らされて、互いに十界具融して居る姿を

 十界円具

というのである。十界の界々が、既に互いに具しつつある上に、それがすべて『妙法五字を介して具している』というので、その円妙具足なるさまが、一層深刻に厳明に発揮されたのである。即ち一往いえば、中尊は妙法五字の本法で『法』である。左右の十界は『人』である。その「法」が人を生じ、「人」は法に如い、その「法」が又人を照らし、その「人」がまた法を証し、互いに表裏を為して結局内容が一つものとなって、一団の妙法妙人となる。法も『単法』にあらず、人も『単人』にあらず

 人法一如

した「大威厳相」が成佛の真相である。 本尊に対する吾人は『人』である。その人の姿はこの本尊曼陀羅の中に写し出されてある。吾に『地獄の心』がある点は「提婆達多」に代表されて出ている。吾に『餓鬼の心』がるのは「鬼子母十女」として写し出されている。乃至吾が本領は人間であるとしても、その『邪見の分』は「阿闍世王」に依って写され、その『正見の方』は「転輪聖王」によりて代表されてある。乃至『佛菩薩の心』がある、それもすべて写し出されてある。よき部分も、あしき部分も残らず現れている。ただ現れたのでなく、妙法功徳の光の中に現れている。吾等が性霊體質の大根元たる「本法」も『その中尊』として厳然光陽している。即ち吾が一身の本迹ともに遺憾なく顕れている。我にあっては吾が「人」と吾が「法」とが、一致融合せられていないのがこの大円鏡たる「本尊」には人法一如して写っている。これが『真実の我』である。今わが認めている『我』は、仮りの我であって真のわれはない。その『真の我』がこの「本尊」によりて照らし出される。この『我』こそは本佛釈尊と同體一物の『我』である。即ち『大なる我』『明らかなる我』『正しき我』『公なる我』である。総合すれば乃ち『妙なる我』ということに帰着する。この我を発見せんが為の信心修行である。その正境目的が「本尊」である。十界各々の『小我』を没却して、『法界大』より一層更に大なる『本佛大』の唯一大我に帰しあつまりて、吾れ自らも気のつかざりし『真の我』を見出して、始めて自己の価値の絶大高妙なることを知り、区々の情念(瞋るは地獄の心、貪るは餓鬼の心、乃至楽しむは天上の心等)そのまますべて本佛化して『妙の我』となるのが、「本門本尊」の力用である。不完全なる自己が、いつまでも不完全でいるようでは、本尊も修行も用をなさない。所詮『妄我』を自覚すると同時に『本我』に還るのである。それが本尊に対する修行である。 

      
                              「法華経の勉強室」に戻る