本門の戒壇
       
              本化妙宗の宗旨  本門の本尊  本門の題目
  

【1】 久遠本佛の妙相 【2】 本国土妙 【3】 身土色心の妙化

【4】 即身成仏の妙業 
【5】 禁断謗法 【6】 護惜建立 

【7】 戒壇の事理
        

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 1 久遠本佛の妙相

 「本門の戒壇」は全く本尊と題目との立行的に相応せる『事の成佛の姿』を明した法門である。妙法を信じ唱えて妙法に帰依した姿は、正しく法界の極真極善極美の事実相にして、これ即ち「久遠本佛の妙相」である。総じて世界でも人類でも一切の建立は、みな『戒律の表現』としてある。一切の善意好意によりて事物のまとまること、出来上がることは、すべて『戒の結果である』としてある。山の静かなる姿、水の活動する姿等是れみな或る善意の表象である。男女の容貌端麗なるは、過去に功徳を積んだ余慶の結果だとすれば、人相醜劣なるは、過去に於いて悪いことをしたからとなる。要するに物の破壊せらるる姿は悪の姿で、建立せらるる姿は善の姿である。自然界でも「きまり」に背けば破壊の相をなすにきまっている。風雨水火が常道を失った場合に地震や噴火や洪水があって、その常態を破壊する。人の身体でも、栄養摂生の常軌を失した場合に、「のぼせ」だの「げり」だの「出血」だの「かいよう」だのという変が起こって、有形無形に身体の組織を破壊するものである。 故に事物すべてその常を持つのは「きまり」に順うからで、一朝この「きまり」に背くとくずれ出す。その所謂「きまり」とは『戒』の元素である。

 たとえば動物が総て生を愛し死を厭うの情があるから、この「きまり」を本として『生き物を殺すな』という「不殺生戒」を制したようなもので、日月運行、春夏秋冬の替化、いつまでたってもキチンとして一定の規律がある。その規律に違変すれば天変地夭となる。人間は動物中でも勝れて、万物の霊長を以て自ら任じているのであるから、一切の有情非情にわたって、自ら中心となるの自覚を要するので、さては『万物の自然法を基礎とした律法』を制し、それを厳守するに至ったのが、諸の道徳律である。ただ佛法でいう『戒』には、必ず「信心」が伴うものとして、その「信心」と「戒」との調和より諸の心作用を発揮して、「神通」だの「三昧」だのというものが現れるとしてある。

 「戒」にも小乗と大乗とでは大いに違う。「大乗」でも権教と実教とは違う。「実教」でも迹門と本門とは違う。「五戒」「三帰戒」「十善戒」「八斉戒」「二百五十戒」「五百戒」乃至「十重禁戒」「四十八軽戒」或いは菩薩の「三聚浄戒」等のいろいろは、つまり戒の枝葉であって、未だ根本を究めたものでない。今この「本門の戒法」というのは、一切の諸戒の根本中心であって、いやしくもこの一を挙げれば、萬法悉くこれに摂まるという「妙戒」である。それはどういう「戒」かというと、『一心に法華経を持つの外何ものをも顧みない』という「戒」である。経を持つということが『戒を持つことになる』というのは、普通談で無く、特に法華経に於いて、佛の規定せられたことである。即ち経に

『此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸佛も亦然なり。是の如き人は、諸佛の歎めたまう所なり、是則ち勇猛なり、是則ち精進なり、是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名ずく』(宝塔品)

とあって、経を持つことを『戒を持つ』と名づけてある。即ちこの法華経は佛の因行果徳の結晶であるから、いやしくも之を信じ持つものは、即ち一切の善根功徳の根元を把持したものである。故に経に又

『若し能く持つこと有らんは、即ち佛身を持つなり』(宝塔品)

ともある。即ち佛身以上の「戒」はない。 「戒」は『防非止悪』ということで、諸の非を防ぎ悪を止めるというのが目的であるから、元来消極的道徳である。それが持経戒ということになると、『防非止悪』を積極的方面から実行しているので、心の働きが悉く根本大善たる正法の上に集中しているから、別に非を防ごうの悪を止めようのとおもう必要がない。例えば『常に能く好んで施しをするものが、他人の物を盗むということのない』ようなものである。しかしこの『持経即戒』の「本門妙戒」でも、その戒相としての防非点は、只一つ「謗法」を厳禁するという大条件がある。

 実は適切に言うと、真に法華経を持つということは、「謗法」を禁ずるということにある。いくら熱心に法華経を奉戴しても、如何ほど懇ろに法華経を供養し修行しても、謗法があっては何にもならぬ。而してその所謂「謗法」とは法華経以外の経法宗旨を奉ずるのをいうので、法華経を度外して他教を信ずるはいうに及ばず、法華経を捨てずとも、併せて他教を信ずるのも同じく「謗法」である。謗りさえしなければ「謗法」にはなるまいなどと、早合点していると大怪我のもとである。

『謗とは乖背の義なり』

と釈されて、その『必ず奉じべきものを奉じない』ということが、すでにすでに乖背であって、これは毀謗の大なるものである。例えば子として親を顧みないという者があったら、すでに『不孝』である。それと同じことで、必ず持たねばならぬ筈の法を持たないということはすでにすでに「謗法」である。又唯一なるべき君父を二三にするが如きは、これまた一種の逆である。『天に二日なく国に二王なし』、唯一尊貴を二つも三つも並べるということは、たしかに「逆」即ち「謗法」である。故に『宗として奉ずべきものは、但だ法華経の一つ』でなければならぬ。(宗奉以外に哲学学説の立場で用いるのはべつである)久遠劫の昔より、この法に遠ざかったり、又混ぜ物をしたりの過失で、今に至るまでも還元帰真することが出来ずにいるのである。それをこの度幸いにして此の唯一独尊の正法に値遇したのであるから今度こそは、何が何でも間違わないように、しっかりと正式に持たねばならぬという必要から、前車の覆轍に懲りて『生一本の純正真理に帰依して、その正しき光に浴すべく堅く誓おうぞ』と約束するのが「謗法」を厳禁するの戒である。

  「謗法」は防止する、「大善正法」は持つ。この事業相状は、たしかに久遠本佛の姿をうつしたものである。「本尊」が本佛の正體で、「題目」が本佛の妙智であるから、この「戒壇」は本佛の妙相である。これが個人に在る時は、その個人が本佛の相を現じたのであるし、これが国家に在れば、その国家が本佛の相を現じたのであるし、それが世界全体にそうなれば、世界はここに本佛の妙相を成就したのである。而して天地法界は、任運自然に常に恒にこの本佛の相を現じつつあるのである。

 2 本国土妙                             

 「本門三妙」の中では、この「戒壇」は正に「本国土妙」にあたるのである。元来国土は『事業の根拠で亦果報の発現』である。所謂依地を以て内容を表証するのである。たとえば金殿玉楼を見て、その住む者の王侯貴人なることを知り、山林田畑の整頓して水利土工の完全した町村を見て、その住民の聡明善良なるを察するがごときもので、佛の果報に伴っては、必ず佛の浄土が説かれてある。然るに方便権教には、佛の浄土というものは、遠い遠いべつの処に在るものとして、吾等の住んでいるこの世界をば穢土として嫌ってある。故に佛というも凡夫の外にあり、浄土というも此の土の外に在るものと考えられているのが、法華経本門寿量品に至って、『佛の顕本』ということがあって、今の釈迦佛は、今度初めて人間から佛になったのでなく、『久遠の大昔より佛である』ということが顕れると共に佛の浄土は外の処でなく、やはりこの娑婆世界である。これが穢土と見えるのは、凡夫の顛倒からである。即ち

 『阿僧祇劫に於いて、常に霊鷲山及び餘の諸の住處に在り、衆生劫盡きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして天人常に充満せり』

と説かれて、同じ娑婆であって、衆生の見るのと佛の見るのと違うとされてある。たとえば心に哀しみを懐く者は何を見ても悲しく見え、心楽しみ有る者は天地万物何を見ても面白く見えるようなものである。

 然るに一たびこの妙法を信じて、如法に帰依立行するものは、その人の精神色體、すでに本佛の霊光内に還元したのであるから、その人の住所さながら『常寂光』となるのである。その人の果報の表彰点たる「依地」が、斯く浄土となる上は、その事業の積聚点たる「国家」も、随って霊化せられるべきものである。又必ず国家を厳浄しなければならぬはずである。『国とともに成佛するにあらざれば、まことの自己の成佛でない』と説くのが、『本化妙宗』の即身成仏である。今この「本門戒壇」の法門は、この本門の妙談「本国土妙」の原理を実現して、国家の結合力とその発展力とを浄化し霊化して、これを『妙法弘布の原動力』とするの大意匠を以て建立されたのである。  

 天地法界に固有法爾の約束あるが如く、人にも必然性の約束がある。それが「戒」の基礎である。而して人の約束の到り極まったものは『国の約束』である。即ち国の建創、存在、持続、発展、それらの力は、すべて個人の力の集中し発動したものである。故に人をして正道に入らしめねばならぬ通り、国をして正道に従わしめねばならぬ。これを確かにしてないと、少々ぐらい対人的に感化を試みても、『こちらを積めばあちらがくずれ、此処を直せば彼処が曲がる』というふうに、いくら行ってもおなじこと、いつまで経っても一つこと、要するに萬代不朽萬方同帰の実を挙げることが出来ない。依って是非ともこれを確実にしようというには、人々の約束の総合点たる「国家」そのものを同化しなければならぬという処からここに「戒法」という一定標準を『教権的に建設して、それを国家の主権と結びつける』の必要が生じた。其が「本門の戒壇」である。故に、日蓮聖人は「三大秘法抄」において

 『戒壇とは王法佛法に冥し、佛法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王覚徳比丘の其の及往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣竝びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立すべき者歟。時を待つべき耳。事の戒法と申すは是也。三国竝びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇也。』

と説破されて、一国同帰の上で、その国力を以てこの法を保護するのが、人類に臨むの第一要義であるとせられた。それが原理的本国土妙を、事実の上に現したのである。

 即ち理談を事実で解決したということになる。

 3 身土色心の妙化                      ページのトップ

 「戒壇」は無論国家の上の法門であるが、前にもいう通り『個人を積んで国家の保護力とする』のであるから、之を個人の上に約して見れば、先ず『個人に含まれた国家』および『それを含んだ個人』のいずれをも妙化するのである。それが「身土色心(=身土とは正報 の身と、その身の依止する所の依報の国土、色心とは身と心の事、「色」とは身なり、佛法にては総じて色質といって「かたち」あるものを「色」という)の妙化」というので「身」と「土」とは「依報」と「正報」の関係で切っても切れない。又「色」と「心」とも互いに相依り相持してすこしも離れない。故に自身の成佛が国の上にも顕れ、国の成佛が自身の上に影響し、心の成佛は身を証し、身の成佛は心の成佛を証するというように身土色心互いに相融し相照らして一つになって、而も同一霊化を受け、「本因」「本果」「本国土」の三妙が一時に現前する姿を、「本門の妙戒」というのである。

 4 即身成仏の妙業                        

 心に念ずるばかり、口に唱えるばかりでは、未だ真の修行とは謂わない。その心や口やが明らかに身に顕れて、はじめて真の成佛というのである。故に法華経を読むについても、「色読」というて『身に読む』ということを大切としてある。即ち『妙法の功徳法門が身行上に体現し来たる』のいうである。ほとんど『煩悩のためにのみ建てられたかと思うほどの国家の組織』さえ妙法化するということは全く法華経が身に現れたのである。

 法界の根軸ともいうべき、本善妙種の大法が、「信」という心地を経て、これが『身の上』『業の上』に、まざまざと現れ来たるのは、『世界の根本善が、人の上に復活されつつある現象』である。かくして世の善心道心が維持されて行く事になる。それが

 本善妙業

というのである。ただそれが思考や言論だけで、言語文字の上にのみ伝わり存していたのでは心の守りとならず、又意識及び動作の上のきまりともならないからそこで正確なる教式を立てるのである。『心でさえ承知しておれば間違わない』とのみでは、心の発作性とはなるが、『心の持久的習慣』となはらない。是非ともあらゆる『恩徳』、あらゆる『威厳』、限りなき『慈光』、限りなき『尊貴』の下に、最大極度の「信頼」「愛慕」「恭敬」「服従」を捧げて、その無際限の力に引き立てられ押さえつけられして、ここに堅固悠久なる誓いを立て『決して背きません!』と約束して、之を受持する。即ち

『今身より佛身に至るまで能く持ち奉る南無妙法蓮華経南無本門三宝尊』

(今身とは凡夫である今の身、佛身とは成佛せる時の身、即ち「今凡夫でいるこの身よりして佛になるまでいささかも間断なく持ちます」という誓いの辞。佛身遠き後なりとも決して変わらない、今身即ち佛身ならばいよいよ可なり)

と三返くりかえして、『受戒の式』を行うのが

 作法受持

である。「本尊」も正式に、「修行」も正しく、「受持の作法」も正式に行えば、これ正しく本化教徒たる資格を具備したもので、正しく菩薩の位に入るのである。而も此の「戒」は迹門竝びに爾前四十餘年の権教大小乗の諸戒に比して、群臣庶民に対して大王の尊貴なるが如き、無上最尊の妙戒で、何等苦行も行功もなくて、其の獲得する所の特に勝れたことは、全く経の勝能によるのである。故に

『行は浅く功は深し、以て経力を顕す』

と釈されて、これが円教妙理の最貴なる所以としてある。この「戒法」円足して「本尊」も光あり、「題目」も霊がある。之を

 功徳成就

の姿というのである。元もと佛がこの尊い円教法華の妙理をお説きになったというのも、『円頓の教は本と凡夫に被らしむ』とあるが如く、『凡夫を成佛させたいのが目的』でお説きになったのである。菩薩や羅漢たちの為ばかりならば、法華経ほどの上等の経でなくともよろしい。円頓の教理というのが、すでに凡夫を救いたいためである。大病人のためだから大良薬を要したのである。その大良薬というのは『少しでもって多く利き、面倒なしに効果がある』のでなくてはならぬ。即ち修行が簡単で功力が速疾多大である。それが円満頓極の教理であるからのことである。

 
5 禁断謗法                                

  其1 十四謗法 其2 三約離謗 

  其1 十四謗法

 総じていへば、法華経を度外する心即ち「謗法」である。其状態を細別すると十四ある。即ち「十四謗法」である。十四謗法とは

  驕慢謗法・・・自見を以て足れりとして正法を聞かざる類
  懈怠謗法・・・他事を勤めても正法の事に軽薄冷淡なる類
  計我謗法・・・よろづ我見を本として正法を枉げ解する類
  浅識謗法・・・浅薄なる自意識を規矩として法を断ずる類
  著欲謗法・・・私欲を中心として法を軽んじ疎む鄙吝の類
  不解謗法・・・解して正に当らず昏昧自ら劃て得々たる類
  不信謗法・・・当さに信ずべき法なるを信ぜずと僻する類
  顰蹙謗法・・・正法を信ずるものに対して眉を顰め厭う類
  疑惑謗法・・・愚痴にして正決断なく或は持ち或は捨る類
  誹謗謗法・・・正法及び正法を持つ人を悪口し罵辱する類
  軽善謗法・・・善とは正法なり心に根本大善を軽蔑する類
  憎善謗法・・・根本大善の正法に対し反逆心を以て憎む類
  嫉善謗法・・・根本大善の正法に対し妨碍の心にて嫉む類
  恨善謗法・・・根本大善の正法に対し敵対の心にて怨む類

以上の「十四罪」は、一切の『悪因』となって、諸の罪悪を出生する恐るべきものであると説かれてある。
 『此十四誹謗は、在家出家に亘るばし、恐る可し 恐る可し』(松野殿御返事)
と誡められて、大に慎むべきものとされている、而していかにこの謗法を捨離すべきかに就ては下の「三約離謗」ということがある。


 其2 三約離謗

 「三約離謗」とは、謗法を離れるに就て、三の順序次第があること、所謂三とは

  一には 約身離謗(先ず一身の謗法を離れ脱るること)
  二には 約家離謗(次に一家の謗法を離れ脱るること)
  三には 約国離謗(終に一国の謗法を離れ脱るること)

 先ず自身が謗法より離脱して清浄の奉行者となり、次にわが一家(父母妻子兄弟乃至一族等)の謗法を離れしめ、次に一国の謗法を離れしむることで、自身ばかり謗法を離れても、一家が謗法ならば、自己の行願は未だ完きものでない。又自身及び一家のすべてが謗法を離れても、わが国家が依然として謗法であれば、自己の成佛はまだ完了せざるものとして、造次顛沛にも之を忘れず、国家を諫暁するに力めるのである。
 国家を諫暁するというても、今日では昔の様に朝廷や政府へ請願建白等をせずとも、一人でも多く早くこの正義に順伏する様に、感化普及を計るのが、即ち正しく確かなる「国家諫暁」である。それには『興学』と『布教』とを盛にし、殊に『言論文筆の伝道』に力めて、種々なる機会を利用して、此大法を宣布するの方法を講ずるのに在る。同じ『布教』という中にも、萬人が萬人きっと行うことの出来て、比較的正確で、比較的効果の多い伝道法は、「施本伝道』である。これは無学無筆の人でも、婦人でも児童でもだれでも同じく出来て、『説き違へる』の、『話し損う』の、という危険がなく、その上費用も軽く、いつでも行えて、誠に自他に好適なる布教法であるから、願くば全国一般苟くも本宗教徒たるものは、男女老幼を問わず、たとひ月に一冊づつたりとも、心をそろへて力の許すかぎり、伝道に適したる教書を施して、絶えず正法の普及をはかり、少しも早く一国同帰の時節を造るようにしたいものである。

 6 護惜建立                           

  其1 人力護持 其2 国力護持

  其1 人力護持

    (1) 法施護持

 「護惜建立」とは、この正法が世に絶えないように、其を護り惜みて、段々に盛んになるように、もり立てて行くことである。即ち前の「禁断謗法」は消極的持戒で、この「護惜建立」は積極的持戒である。『既に悪いことを止したら、今度は善いことを為さねばならぬ』、既に水の漏らない様にしたら、後は其の器へ水を入れねばならぬ、それが「護惜建立」である。今此「護惜建立」を説くに、「三の布施」がある。「布施」とは法の為に身なり財なりを惜まずに捧げることである。其の第一が「法施」である。「法施」は法を説聞せて人を教化することである。『富めるものは人に財を贈り、君子は人に言を贈る』というように、道を以て人を救うことは、人に対する恩賚(おんらい=ありがたきたまもの)の中で尤も勝れたものである。今正信に住したものが、どうかして人を救いたいという考えは、いかなる人でも必ず起る。『自己が受けた愉快のような得分を他人にも与えたい』という考えがきっと生じる。これは法に自然に備わりたる作用もあり、且つ佛の加被力による慈悲心発動するからでもある。
 さて法施としての伝道感化について

    〇言説伝道 (議論講説等専ら言辞にてする伝道)
    〇文書伝道 (書を釈し義を述べ専ら文筆にてする伝道)
    〇教育伝道 (学校を興し学会を結びての教育伝道)

の数種ある。「言説伝道」は「公開演説」「教書講演」「質疑応答」「対話」等の各種の形式があるが、要するに言語説話を以て教えを弘めることである。自ら為し得るものは、相当の機会に於て必ずすべきである。又若し自ら為し得ざるものは、他のこれに堪える人を屈請するなり、又はそういう催しの場合に、相当の側面助勢を与えるなりして、弘通伝道をたすけるがよい。たとえば会場その他の費用を献納するとか、或は雑務諸役をたすけるとか、為に広告紙一枚を散布し、演壇の水一杯を汲んだのでも、自ら言論伝道の幾分を行うたようなものである。


 次に「文書伝道」は、みずから教書をものして施すとも、又は他の然るべき教書を出版するなり購ひ求めるなりして、所縁に順って頒布する。その利益効力は真に大なるものである。言説伝道ほどすぐに利目は見えないようでも、行うことの容易な割には、効果が著しく大きいということは、近時施本伝道に従事したものの、皆ひとしく実験した處であって、僅かな一小冊子より偉大なる教積を収めることは、『宗門之維新』の施本によりて有名なる佛教嫌いの学者高山樗牛が、あれほど熱誠なる日蓮主義鼓吹者になった一例で見てもわかるであろう。

 次に「教育伝道」は、この道を相続し、これが学殖を拡充するために要する学校等の保護拡張である。いくら正法でも、説くものがなければ弘まらない、それどころではない、若しも伝える者がなくなれば、その道が断絶するに至るのである。
 この正しき思想を有って居る人を造るだけでも、天地法界に於ける尤も勝れた大功徳である。况てそれを『正しく伝え巧みに教える所の学識才操ある布教家』を造ることは、実に正義相続正法弘通の上に於ける、先決の最要条件である。

   
 (2) 身施護持

 「法施」に次いで「身施」である。「身施」とは直接に身を以て法を護ることである。これにも「分」と「全」とがある、「常」と「変」とがある。所謂全で一身を正法弘通の用務に投ずるのは「全の身施」である。その折々に自分の生活程度の許す限り、法のために奔走するのは「分の身施」である。又常に自己の身を自己のものとせず、全く法の身なりとして、その一言一行を慎み、つとめて自分の行動の上に、法の光を顕そうと構えて、一身を以て他の模範とすべく、行住坐臥に、法の観念を離れざる処世の全体を「常の身施」とし、又一朝事ありて法の一大事という場合、或は正義の師が法の為に迫害に逢うなどという場合に臨みて、一命を捨てて之を保護するという、「死身弘法」の実行が『変に処する場合の身施護持』である、彼の「小松原法難」に於ける鏡忍阿闍梨や工藤吉隆の如く「加島法難」に於ける熱原甚四郎等の如く、「慶長法難」に於ける常楽院日経の如く、皆これ「捨身弘法」のかぐわしき先縦である。

    
(3) 財施護持

 「財施」とは、直接財を以て他を救うのであって、財そのものが、まがふ方なく正法弘通の資けとなることを確めた場合に於ては、財を惜まずに施すべきである。およそ財というものは人一人には人一人だけ家一家には家一家だけの当然必要なる衣食住の資を除いては、畢竟『余財』というものである。然るにこの余財を積んで「富」を為すことを貴ぶ所以は、財は即ち力であって、これさえ有れば何事でも思うままになるのであるから、萬一の備へとして、大に之を珍重するのである。處でその財富の正当なる作用としては、人の欠陥を補う場合、不時の変に備える場合、正義を保護する準備等に要するのであって、決して一個人の余分なる贅沢や奢侈の為に要すべきものでない。『自分のものだから自分で勝手に使う』というかも知れないが、実は自分の必需以外の余富潤財は、『高潔なる天地の公財』であって、自分の私財ではない。所有はおのれに属して居ても、使用の方針は公道正義のために使うべき先天の約束ある『名誉の公財』である。
 『財の用もかずかずあれど、正法正義を護持し弘通するほど勝れたる効用は他にあることなし。斯くて金銭は成佛すというべし、金銭の成佛は即ち人の成佛なり、国家の成佛なり、貴いかな金銭』

と。

 此の正しい観念を養って、正義護持の光栄なる功績を挙げさせようとして、佛は極力「財施」の必要を説き、「六波羅蜜」の中に、『檀波羅密』を第一に説かせられたのである。故に自己の有する財が、その幾分でも正法弘通の事に当って用を為し得べくば、真に喜んで捧ぐべきである。こは財の光栄のみならず、『自己の全部が正義の體と化する』のである。斯うなってこそ金銭の貴さが知れる。これ即ち法華経に霊化されたる金銭、それが即て法華経的人物、法華経的国家を為す所以である。

    
其2 国力護持

 前に説いたのは、『人力』で法を護ること、今ここに述るのは「国力」で法を護持することである。「法施」「身施」「財施」いづれも個人的布施行であって、其効力は漸を積んで小より大に至るのである。法の必要としても、又個人の修行としても、無論行はねばならぬ事ではあるが、本化の教は決して其れだけで満足は出来ぬ。その以上に於て、更に眼目たるべき必須条件として、「国力護持」の一案を忘れてはならぬ。即ち『一国の力を挙て正法を護持し拡張すべきもの』ということである。今はその見例に乏しいが、上古は珍しく無かったのである。然しこの「国力護持」を実地にするということは、今日に在りては、猶未来に属して居るが、本化教徒たる者は、必ずそれを実現しようと努力せねばならぬ。此努力が一面には『本化教徒の活力』である。「戒壇法門」の期する所は全く此一事に在る。

 「国力」ということを明かす前に、「力」ということを説く必要があるから、少し話そう。『功能を力と為す』とありて、用ふべき能力をいひ、又『堪忍を力と為す』とありて、是は任持する力をいひ、又『運御を力と為す』とありて、是は運動制御をいひ、各々その一面を説いてあるから、今これを総合してみると、『事物に堪えて、事物に当たる能力を有して、而して能くはたらき御むる』を「力」ということになる。物にも、事にも、善悪苦楽の諸法に、すべてこの「力」ということがある。今は修行の上の「力」をいうので、即ち『善法の力用』の事である。此に就いて『二種の力』ということを叙べるの要がある。『勝鬘経』の「得力」を釈する時、聖徳太子が『二種の力あり』と疏したのが其れである。先ず経に

 『我力を得ん時、彼々の處に於て、此衆生を見、應さに折伏すべきは之を折伏し、應さに攝受すべきは之を攝受す、何を以ての故に、折伏攝受を以ての故に、法をして久住せしめんとなり。』

此『勝鬘経』の「力」ということを、聖徳皇太子の『勝鬘経義疏』に釈して

 『力に二種あり、一には勢力、二には道力なり。若し善を行ぜざれば、即ち諸道皆閉じ、生死を流転し六趣に遷移す、故に大士彼々の處に於て、皆此人を見、重悪には即ち勢力を以て折伏し、軽悪には道力を以て攝受す。』

この二種の力の中の「勢力」とは、専ら『有形の制裁力』を指したる義にして、財宝とか兵力とかいう部分に属している、即ち所謂「勢力」の尤も大にして完全したものは「国力」である。要するに『銭も鉄砲も此大法を護るの具』となり、始めて立派な効を奏するのである。

 今日の場合、情けないかな銭も鉄砲も都て罪悪的傾向を有して居るのである。銭が欲しさに偽りもし諍ひもする。小さく言えば人と人との紛争、大きく言えば国と国との反撥、表に現れねば心に修羅をもようし猜疑を長じている。是は「国力」を挙げて、罪悪界に貢献しているのである。それをガラリ転じて、その「国力」の全部を、正法護持の原動力とするのが戒壇論の精要である。さしずめ正法建立妙益布及の必然的因縁からして、どうしても第一番に此日本国の国家をあげて、正法の原動力とせねばならぬ。本化の教眼は特にこの日本を以て世界の中心と定め、且つすべての便宜が整束していると訣して、此国を『三大秘法創建の国土』と定めた。偶然の究たのではない。必然的理由からそうなったのである。

 今その理由を掻い摘んで述べると、これには凡そ下記の五箇条項がある。

 [1]・・・・・日本建国の理想が、道義的に世界を統一する目的で建てられたということが、法華経の 「法界唯一乗」の理想に合期して居る事 

 [2]・・・・・建国伝統の起点は。高潔なる神明より出で、萬国の各人種群種族を統一すべき「道義閥」「人倫閥」を有せる国なるが故に、世界最後の教権と併立するに相應せる事

 [3]・・・・・萬世一系、革命なき霊国なるを以て、東西の文明、悉く此土に聚りて、最後の発達を遂げ るの国運は、『最後の決定を、世界の人文思想に与ふべき統一教』の為め、甚だ好適の土地柄なる事

 [4]・・・・・風土、気候、地理、等の関係正しく中和にして、異人及び異風俗を調和するに、外縁的幇助良好なるは、自ら世界統一の便宜を有する事

 [5]・・・・・古来実行主義の国柄なりしを以て、よろず「取要醇化」の風ありて、『散多を括要し、諸多を合一する』に便あるが故に、国性が任運に法界統一の教義に符合する事


 人は人類として存在するのは、元素的であって、謂はば仕上前である。国民として存在するのが完くの組織的である。人類としての人は蛮的であって、『国民としての人が文明的』である。人は『文明的存在』なるに於て、始めて人間としての真価が発揮されるのである。

 人文の最光明としての宗教は、また人間を解するに文明的に解するの要がある。即ち『国家を理想せる人間』を「安住點」とし、「活動點」とするのである。故にこっかという立場の上に築かれたる成佛でなければ、妙法の成佛でないとする、所謂『国と共に成佛する』のである。

 人類が起点で、法界が終点であるが、その中和と中心とをとって、国家を教法の原動力とするのである。

 国家のあらゆる機関が、悉く教法護持のためもものとなって、はじめて効力が無限絶対となるのである。「財力」でも、「兵力」でも、「政治」でも、「学門」でも、「風景」でも、「気候」でも、唯一の正法を保護する材料となった時、それ等すべての成佛である。


 7 戒壇の事理                           ページのトップ

    其1 即是道場の事壇

 戒壇の「戒」は『戒法』である。戒法にも事理の二つがある。古式の通り「五戒」、「八斎戒」、「十重禁戒」、「四十八軽戒」、乃至「二百五十戒」、「五百戒」等をその説相の通り持つのを「事戒」といひ、『戒法の趣意を體達して、之を思想化して持つ』を「理戒」という。今この本化妙宗の戒法は「本門の十戒」を数えて戒法としてあるが、悉く妙法五字の信を誓約的に観想化したもので、すべて「理戒」である。即ち経に

 『此経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸佛も亦然なり。是の如きの人は、諸佛の歎めたまふ所なり。是則ち勇猛なり、是則ち精進なり、是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く』

とある。此の『妙法を持つ』を直ちに「持戒」としてある。即ち此妙法を持つに就て、決して法華経より外の諸経を持たざるのみならず、『法華経たりとも餘経の心を加味して持つことを為すまじ』と堅く誓う心(信心)を「戒法」とする。即ち『本門戒體抄』に於て「十重禁」悉く経に約されての聖訣を示したまへるを以て知るべきである。

 次に「壇」とは、『戒を受ける場所』、即ち式場という様なことである。是にも又「事壇」と「理壇」との二つがある。「事壇」は正式の作法によりて建てられる国立の戒壇で、「理壇」は法華経の教理によりて、『その行人の住所即ちこれ道場なり』との意に約し、分々にその個人の信心修行する處、それやがて戒壇なりとして、朝夕の修行にも、個人個人には『今身より佛身に至るまで能く持ち奉る南無妙法蓮華経本門三寶尊』と本門三帰に約して、常に自誓戒を受けて居るから、その一人の上では、その修行の場所、即ち「戒壇」である。(「結婚式」「帰正式」等の場合には三秘に約することもある。即ち『南無本門本尊一乗妙法蓮華経、今身より佛身に至るまで能く持ちたてまつるや否や』、答へて曰はく、『能く持ちたてまつる南無妙法蓮華経』、『南無本門戒壇一乗妙法蓮華経、今身より佛身に至るまで能く持ちたてまつるや否や』、答へて曰はく、『能く持ちたてまつる南無妙法蓮華経』、『南無本門題目一乗妙法蓮華経、今身より佛身に至るまで能く持ちたてまつるや否や』答へて曰はく、『能く持ちたてまつる南無妙法蓮華経』)法華経の信念妙行の存する處、即ち是れ天地法界の中心にして、一切の諸佛諸天も悉く来り集て悦樂し守護する所である。天地もこれに依りて安く、日月もこれに依りて明かに、法界萬有はすべて吾れに依りて其所を得つつありという大観念の下に『我れ即ち法界の主たり、天地の父母たり、萬有の師たる所の大権能と大義務とを有するものぞ』という意が、即ち法華経の信念識見であって、これを『理想の上の戒壇』即ち「理壇」とするのである。

    
其2 一国同帰の事壇

 昔より「戒壇」を建てるに就ては、『公立』と『私立』との二つがあって、公立が正式という事になって居る。特に日本では南都東大寺の戒壇をはじめ、叡山の圓頓戒壇に至るまで、帝王の勅命で建てる事になって居る。それが本当の戒壇であって、一寺一山の私的建設はいはば変則と謂たようなものである。とりわけ伝教大師が叡山に戒壇を建てることに就ては、当時各宗よりの故障が起って、永い間論難折衝した結果、遂に南都六宗との対決となり、そこで六宗の高僧悉く雌伏してグウの音も出ず、いよいよ天下一統法華経の世となって、めでたく戒壇建立の勅命が下った。此時はすでに伝教大師御入滅の後であったが、とにかく大師の素懐はここに達して、『圓頓戒壇はじめて世界に建鼎せられた』、真に佛法の一新紀元である。この次は佛法の最終帰着たる「本門法華の大戒壇」が、世界を統一すべく、この日本に建てられねばならぬ。

   〇小乗戒壇・・・・・・・・(印度発達)
   〇大乗戒壇・・・・・・・・(支那発達)
   〇迹門一乗戒壇・・・・(日本統一)
   〇本門一乗戒壇・・・・(世界統一)

これは天下一統しての上である。国民も、執政者も、帝王も、すべて法華に帰依した暁で、合議協定の上、『国家の宗旨』として時の天皇の勅宣によって建てるのである。即ち三大秘法抄の

 『戒壇とは、王法佛法に冥し、佛法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王覚徳比丘の其乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣竝びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者歟。時を待つ可き耳。事の戒法と申すは是也』

の聖文に勅宣竝に御教書という、此「御教書」とは、今でいへば『議会の協賛』とでもいう部分を指すのである。「王臣一同」とあるから、無論国民全体をも指す。如説修行抄」には

 『天下萬民諸乗一佛乗と成て妙法独り繁昌せん時、萬民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば吹く風枝をならさず、雨壊を砕かず。世は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得人法共に不老不死の理顕れん時を御覧ぜよ。現世安穏の証文疑いあるべからず。』

とあり、又「報恩抄」には

 『日本乃至漢土月支一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし』

とあり、要するに日本国中悉く法華の持者となり、皇室亦『この法が国體の内容』なることを認めて王法と佛法とが一體になった時、世界統一の大標示として「本門戒壇」の建設を勅命せらるる時、その時!、日本国みずからが始めて自己の真意と正体とを認め得るのである。

 『理観』よりも『事観』を崇ぶ「本化妙宗」は、総じて空論的でなく実際的である。此国に神聖の威力が存して居ることは、古来の事実がすでに理屈以上の説明をしている。それを一層具体的に正式に整斉しての発現が本門戒壇の成立である。これは宗門の仕事というよりも、むしろ『国家の仕事』である。それを説明し指導したのが「本化妙宗」である。


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