王塚台、それは歴史と文化のすてきな町
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枝吉紹介

(枝吉4丁目7)

吉田郷土館は、地域文化活動の拠点として活用されることを念願し、昭和48年12月、鎮守の森の一角に、吉田財産区区有金によって建設されました。
背後の城山で営まれた播磨吉田遺跡や、片山遺跡、新方遺跡、養田遺跡、吉田南遺跡など、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落跡や、官衛跡より出土した遺物を展示しており、『明石川流域のあけぼの』をテーマに、弥生時代から戦国時代までの、風土や風俗を、映像で紹介している。
 その他、昭和40年頃の吉田地区の様子や、吉田南遺跡から見つかった奈良時代末期から鎌倉初頭の役所(明石郡)跡や、古墳時代の竪穴式住居などを模型で再現しており、また会館の外の庭には、庚申塚古墳から出土した(?)と考えられる石棺も展示されている。

枝吉城跡(枝吉4丁目7)

枝吉城は、先祖を平安時代の明石郡大領との伝承を持つ明石氏が明石川水系沿いを支配戦国動乱の時代を生き抜くため、今から五百年程前の室町時代中頃に築いた城で、人口の集中する、商業核のある明石川下流西岸の地に着目し、城と館を構え町を設けた。城主明石氏の勢力伸長とともに、二度の枝吉城攻防戦など幾多の合戦を経験、天正十三年(1585)の国替えで但馬豊岡城(豊岡市京町神武山)に移った明石与四郎則実にかわり、最後の城主になった高山右近重友が船上城を新たに築き移ったことにより、一世紀半にわたる城の歴史を閉じています。


神本神社(枝吉4丁目7)(こうのもとじんじゃ)

 
当神社の創建は、明石初代藩主小笠原忠正公時代の、元和5年(1619)に、社領田三反歩が寄進され、元和7年(1621)2月、明石郡林崎庄吉田村に「神本大明神」として祭祀されたことに始まる。境内は官有地で2645坪(明石記によると、宮山 東西23間、南北75間とある)
 遡れば、この鎮守の森の城山は、弥生時代の「吉田遺跡」であり、中世から近世への過渡期には枝吉城があり、神社の境内地は城主明石氏の館跡で、周辺には武士や商人がそれぞれ堀を持つ居を構えた由緒ある史跡地である。明治7年には、村社に列せられ「神本神社」と称せられた。
 また、大正7年には神饌幣帛供進神社として指定される。境内には、本殿・拝殿・長納屋二間七間、長納屋二間四間の当時の建造物も昭和50年1月、区画整理事業施工のときに改築、(長納屋は撤去)鳥居は平成7年1月、
阪神大震災により、倒壊、その年に復興され現在に至る。


常纂寺(枝吉4丁目40)(じょうさんじ)

常纂寺は浄土宗の寺院。知恩院の末寺である。昭和49年3月発行の『浄土宗兵庫教区寺院名鑑』の記述によると、「慶長年間(1598〜1615年)芸蓮社願譽上人林甫和尚の創建による。開山上人滅後、寛政11年、その草庵を再建して明治26年庫裡(くり)を建立し、伽藍漸く完成を見るに至った。然るに戦争中、昭和20年6月22日空襲の際、直撃弾を受けて、堂宇悉く壊滅して寺宝、古記録、過去帳等も同じく消失してしまった。その後、再建を計画し檀信徒協力一致して昭和24年4月30日、本堂庫裡を再建して、入佛式を挙行し、今日に至るものである。」と記述されており、枝吉城が築城されてから約130年後に建立された事になるのだろうか。
ご本尊の来迎形阿弥陀如来立像は平成10年度「神戸市指定文化財」の認定を受けている。弁天堂は天文2年(1737)武州、若槻浄国寺、恢誉蛍派上人の創建による、と伝えられている。
ご神体の財天像は、弘法大師の作、合祀されている大黒天は、伝教大師の作、多門天は運慶作、と伝えられているが、定かではない。 

報恩寺(枝吉4丁目52)(ほうおんじ)

 『南江山報恩寺』は、地蔵菩薩(長さ4寸)を本尊とする。開山は桂岩和尚。室町前期永享元年(1429)に建てられた(禅宗)臨済宗(妙心寺派)の末寺です。報恩寺は、山陽道から分かれ三木に通じる三木道に面し、背後にあった内堀の一つ「とく池」と共に、枝吉城主の館(神本神社の地)を守る様に建っており、枝吉城築城に関連して建立されたようです。
江戸時代の報恩寺は、本堂が藁葺きで、福蔵寺の他、慶蔵主・地蔵堂を兼帯していた。木造瓦葺の本堂庫裡を、戦中戦災での損壊により、昭和四十六年四月壇信徒の浄財で、現在の鉄筋コンクリート造りに改築されております。『安楽山福蔵寺』は、報恩寺境内に今も観音堂として、本尊正観世音菩薩脇佛弘法大師像をおまつりしています。福蔵寺は明石西国第11番札所でもあります。山門は文化四年十月(1808)建立(解体時の残存書簡に記)、阪神大震災で罹災し、平成九年四月に解体修理され、昔日の面影を取り戻しております。
山界萬霊地蔵尊は嘉永四年九月(1851)建立され、寺の山門の横にあって、報恩寺の地蔵さんと親しまれ、その台座が道標の役目をしています。
北「下津ばし」東「太山寺」、南「かにがさか(和坂)」とあります。寺の前の南北の道が三木街道です。
枝吉小学校(枝吉2丁目95)
 
枝吉子供祭り
《参考》資料・・・  「西区ふるさと自慢百選」「「しきつ便り」「吉田郷土館パンフレット」等

枝吉自治会

枝吉(えだよし)自治会は、主に2・4・5丁目の地域で、枝吉城址、神本神社、常纂寺、報恩寺、など歴史的遺物がたくさん残っている所です。

【歴史】枝吉は区画整理前まで玉津町吉田と呼ばれ、区画整理後、枝吉・持子・王塚台・森友・曙と行政上改称されました。枝吉(しきつ?)は古く戦国時代にまで遡る城の呼称で、今の神本神社一帯の高台に明石氏の城郭が築かれたそうです。現在の神社の参道を挟む形で武家屋敷等が在ったと言われています。この呼称から枝吉(えだよし)という今日の地名が付けられたと聞いています。
(平成14年3月20日発行「しきつ便り」より抜粋)

【自治会の行事】 「しきつ便り」発行、「しきつウォーク」開催、地域一斉清掃、草刈など、地域の安全とより良いまちづくりの為に、会長を中心にいろいろ計画実行されているようです。




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