ひとこと
Even the Stars Never Know 1月18日発売です |
高校の頃、わりとリアルタイムで聞いたのがコレだった。その頃はといえば、「狂気」の次の謎のベールに包まれた新作を心待ちにするピンク・フロイド漬けの小僧だったわけだが、叔父が「コカコーラの懸賞でこんなん当たったんやけど、興味無いし欲しかったらあげるわ」とお年玉替わりにポンとくれたのだった。
文学賞なんかで尻尾振って喜んでるようじゃ失格やろ |
自分の場合、心情的には昔から
ルー・リードよりもパールズ・ビフォア・スワインだった。そしてボブ・ディランよりもレナード・コーエンなのだった。
True love leaves no traces |
晩秋によく似合う、この黄昏アルバムには聴き方がある。
この世で一番キレイな歌 |
最後のオリジナルメンバー、マイク・ラトリッジまで辞めてしまい「そして誰もいなくなった」というジェネシスも吹っ飛ばす冗談のような9枚目なんだが、これがまた味わい深く、大変に具合がよろしいのである。 タイトルがこれまた潔くて好き! |
“American-flavoured country-rock…to acid-drenched psych.”とDiscogsには書いてあったが言い得て妙、そんな感じではある。我が青春のアイドル、ジェントル・ジャイアントと同様ルーツが一向に不明な英国ロックの白眉。 これぞ1972年型正統派ブリティッシュ・ロック。いや確かに1stにはニール・ヤング&クレイジー・ホースを忠実に再現しようとして至らなかったけどそれがどうした文句があるかテイストの曲もあったけれども、それとてなんだか所謂UKスワンプ一派とは全然別の方角を見ているような虚脱感が前に来ていた。 この3rd、Lots of Mellotronのロングトラックがハイセンスにヘンテコで味わい深く、朝夕ひんやりとした空気が流れてくれるようになった今時分にひっそり聴くと大層しみる。ジェネシスやクリムゾンとは真逆でコンセプトが希薄というか全体的には何をやりたいのかよくわからないバンドなのに、どの曲においても確固たる意識を以って演奏が統制されているのがまことに不思議な持ち味。 初期のトラフィックもそんなところがあった。「ご自由にどうぞ」ネーミングもまた投げやり気味で素敵だ。パブでこんな音楽やるかよ! さしずめ裏インクレディブル・ストリング・バンドってやつだな |
この秋、スラップ・ハッピーwithファウストといういかにも切り札的な企画でドイツのフェスに出演するそうだが、こいつは「危機・こわれもの完全再現ライヴ」なんかよりはよっぽど楽しめそうだ。1パイントのスタウトなんか飲みながらね。 若かりしアンソニー・ムーア、カッコイイよな |
酷暑の7月に夏向けのジャケを。ホークスつながりでニック・ターナーズ・スフィンクスを右大臣とすればこちらは左大臣にあたるロバート・カルヴァート1975年の傑作セカンド。いちばん冴えてた時期のイーノがプロデュース、VCS3、音響トリートメント担当、エンジニアはコニー・プランクを凌ぐ名匠レット・デイビス Rhett Daviesとくれば、もう内容は保証されたようなもの。
さしずめ裏タイガー・マウンテンってやつだな |
ニック・ターナーズ・スフィンクス。
ニック・ターナーをサポートするスティーヴ・ヒレッジ、という友情物語は |
1985年から86年にかけて一年ほど、西成の街に住んでいたのだ。ちょうどハレルヤズの録音をしていた頃だ。毎晩のようにあちこち飲み歩くうち、いつしか通うようになったのが「縄のれん 田中屋」だった。
長い間お疲れさまでした。
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「こんなひどい録音のレコード出すのやめようぜって、さんざん抗議したんだよ。なにしろ録音のひどさ。なんていうの、オレが込めてる力加減とか、そういうのが表現されてないわけ。全部平らにされちゃって。録音自体がすげえつまんなかったんだよね。(中略)村八分の一番くだらない部分だよ」(山口冨士夫「村八分」 K&Bパブリッシャー 2005年発行より) とにかく彼は生涯このレコードのことを執拗に批判し続けた。強権バンマスのチャー坊によってエレックとの契約内容はメンバーに伏せられロイヤリティーの配分も不透明だったことも、この批判の背景にあったようである。 だがしかし、このアルバムほど記録され世に出たという事実そのものに意義がある作品はないだろう。 1973年、自分は行きつけの「ハシガミレコード店」でこのレコードを手にとって小1時間ほど逡巡した挙句に結局買わなかったという苦い思い出がある。それはなぜかというと当時愛読していたヤング・ギターで「ロックをわかっていない迫力のない録音etc」などとボロカスに書かれていたからだ。 まあ、ある意味正しい意見なのだが、あの記事で買うのを止めたヒト、他にも結構いたんじゃないかな。 「全部平ら」っていうのは確かで、言うなればノン・プロデュースで録りっぱなし。せっかくマルチで録ったのにミックスはギター2本をLRに振り分けただけ、あとは最後までフェーダーいじらず、という寂しいスタジオが目に浮かぶ。ところが、このどこまでもフラットな、突き放したミックスが意外といいのだ。 下手に雰囲気を作ろうとしていない分、逆に聞き手の想像力を惹起させて解散寸前のバンドの生々しさが伝わってくるという結果的にパンク的な?ミックスとなったのは「フォークのエレック」ならではだった、という皮肉な結末。 村八分との契約は間違いなく社長決裁による英断であっただろうと推測するが、ロック・スター気取り(本気)の超生意気なバンマスとの契約交渉、商業主義を敵視する京大西部講堂管理団体との折衝、麻薬取締法違反の前科者がいるバンドの面倒を見るハイリスク…。 まさに気が遠くなるようなプロジェクトである。 プロデューサーとしてクレジットされているエレックの浅沼専務としては、レコーディングが完了した時点で精根尽き果ててしまったのではないだろうか? 今から思えば、このとんでもないプロジェクトが成就されオフィシャルリリースにこぎつけただけでも値千金だ。 What if もしこれがチャー坊の野望通りにプロデュースとA&Rはピンク・フロイドの石坂敬一、レコーディングはグラムロック全盛のロンドン、発売は天下の東芝音工洋楽部からとトントン拍子に行っていれば、それはそれでチグハグな代物が出来上がっていたんじゃないかという気もする。 プロデューサー判断で弱いリズムセクションはクビ、チャー坊と冨士夫の2人だけ渡英させて現地調達で二流のセッションマンあてがったりしてね。 チャー坊が加藤和彦ほどの自己プロデュース能力に長けていれば、もっと違う結果も有りえたのかも知れないが…。 いずれにせよ、彼らの音楽を知るよすがとしてこのレコードだけでも残されたことはまことに幸いなことだった。
収録は昭和48年5月5日、こどもの日 |
この48年前の、なんとも香ばしい馥郁たる歌声の倍音成分は、いまなお私を魅了して止まないのだ。 この際言っておくがリンダ・パーハックスなんか目じゃないからね。数日前とてもショッキングなことがありダメージからまだ立ち直れないでいる自分がふと思い出すのは、輝く愛と未来への可能性をカモメの飛跡のように軽々と歌い綴る48年前のジョニ・ミッチェルなのだった。 もう新世界へは行かない。
彼女は当時25歳 |
地球空洞説です。なんとなく憎めないヤツ、それはFar East ファミリー Band。 「静寂にして甘美なコズミックな時の世界を創る6人の魂!!全世界を震撼させた東洋の感性。ついに21世紀の道は開かれたり。11台のキーボードが織り成す無限の世界!見よ、この快挙!日本人初の世界同時発売!」内容を凌駕せんとする勢いのタタキ文句が小気味良い。 この辺のイメージを平成Jサイケ的に再構築して成功した輸出産業ロックとの本質的な違いはといえば、彼等はあくまで本気でコズミックを目指していた点であろう。日本在住なのにFar Eastなんだから、これはもう昭和五十年の時点ですでにグローバル?な意識をしていたということなのかもしれない。 しかし「快挙」というならむしろ次作「多元宇宙への旅」だな。なんせプロデュースはクラウス・シュルツェ、レコーディングはマナー・スタジオだぜ。40年後の近未来Now、スーパー・デラックス・エディションを出すならツェッペリンじゃなくて「多元宇宙への旅」だろうが! …その昔「多元宇宙への旅」発売直前の時期だったか、NHK「若いこだま」に芹沢のえが出演したことがあった。 彼女はイチオシとして「地球空洞説」を紹介した。ホストの渋谷陽一は「いや〜ボクはこういうドベッとした典型的な日本のロックはもう古いと思いますね、なんか70年頃の日比谷野音みたいで。やっぱりこれからはクイーンとか感覚的に突き抜けたアーティストの時代なんじゃないかな」と無遠慮に批判した。 それに対して芹沢のえは「…あんたバカなんじゃない?」と軽くいなしたのだった。 よく放送されたものだと今更にして思うが、きっと両者どちらの言い分も間違ってはいないのだ。 昭和五十年。 この、あくまで抜けの悪い、ぶきっちょなジャップ・ロックは決してクールなどではなかっただろうが勘違いはしていなかったように思う。
全世界を震撼させた東洋の感性 |
「〜その頃、日本語の歌で『なんとかなんです』とか、あれがすごいイヤで、もう、あれだけは嫌悪してたから。『ですます』じゃやっぱりロックは歌えないと思ったよね。要するに全然速度が違うんだよ、サウンドの速度と」(ロック画報2003年11号森園勝敏インタビューより)。 流石モップスとダイナマイツの生演奏に薫陶を受け「一触即発」を作った男の言うことは直裁にして磊落、けだし名言である。 無論、速度とはBPMではなく意識のことを指す。意識とは即ち世界との距離感であるから「ロックを歌う」ということは、音の中と外で自分を対象化し見つめるということなのだ。 叙情にも抽象にも徹することを拒んで揺れ動く野放図な歌詞が彼の意識を援護した。 GSとピンク・フロイドとキャプテン・ビヨンドの黄金の三角池帯がこのアルバムだ。 国産の卓で録音されたという、薄青い膜に包まれたような中域が印象的なサウンドの速度は宿命として短命だったが、それは彼等の青春そのものの投影でもあったにちがいない。
これと黒船のサウンドはリアルタイムで衝撃だった |
ある意味ナゾのレコード、そっくりモグラの毛語録。ロバート・フリップのプロデュースというのが唐突というか奇妙な人選である。 ビル・マコーミック曰く、 「フリップをプロデューサーに使ったのは大失敗だった。少なくとも彼のおかげでフィル・ミラーは指も動かせないくらいブルッちまったんだからな」 「俺たちが使いたいと思ったテイクがフリップが承諾しなくて使えなかったとか、そんなことにまでなった」(マイケル・キング著「ロング・ムーヴメンツ」より) …だから言わんこっちゃない。 ゲスト参加したイーノがGloria GloomのイントロにくっつけたシンセとSEのテープ・コラージュが、翌年に出る「Lark’s Tongues in Aspic Part 1」のイントロによく似た構成なのは、きっと偶然ではないだろう。プロデューサーはギタリストを威圧しただけで帰ったわけではなく、しっかりとお土産も手にしていたのだ。 前作のウェットな雰囲気とはうってかわって即物的で乾いた音像はフリップの嗜好を反映しているが、それがバンドにとってどれほどメリットがあったのかは微妙で、やや強権発動に過ぎる感もある。 古巣を追われたワイアットが自身のグループでやろうとしたのは、作曲と即興と演奏とが不可分に溶け合った純度の高い音塊の再提示だった。つまり最初期のソフト・マシーンがすでに成し遂げていた語義通りの「自由な音楽」の奪還である。 だからこそ彼はあえて再度ソフト・マシーン (Machine Molle) の名前を冠したのだ。このことは67年のソフト・マシーンを捉えた秀逸なCD「Middle Earth Masters」を聴けばよくわかる。 67年のソフト・マシーンは後のファウストやディス・ヒートの萌芽と考えて差し支えない。 おそらくワイアットは作曲と即興の境を自在に行き来する69年のオリジナル・クリムゾンのライブを体験したことがあって、そこにかつてのソフト・マシーンの残像を垣間見たのだろう。 彼がグループのステップアップにフリップの手助けが有効だと考えたのだとすれば、この人選は決して唐突ではなかったことになる。 ジャズという共通言語がキング・クリムゾンとソフト・マシーンのリンクを可能にし、その先に新しい何かが生まれる可能性があったのだ。 たまさかこれがフルセットのドラムを叩いたワイアットの最後のアルバムとなってしまったことは残念だが、不幸なことではない。 マッチング・モールとオーヴァリー・ロッジの交配は「太陽と戦慄」を生み、一方で「白日夢」が生まれ、ロックの幸福な時代を彩ったのだから。
スネアの響き線を取っ払ったドラミングの冴えはすごい |
What if の話をしよう。 もしシド・バレットが重度の薬物依存を回避できるメンタルを持ち合わせていれば、ピンク・フロイドの2ndアルバム「神秘」は「S.F.Sorrow」を軽く上回る色鮮やかなグラマラス・ロックに仕上がっていた。 面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「モア」は存在せず、3rdアルバムとなる「ウマグマ」は各メンバーの緩慢なソロ録音とライブの抱き合わせではなくツェッペリンの成功を意識したシド一流のファズギター・オリエンテッドなハード・ロックになるはずだった。 いかんせん4小節毎のフィルインばかりに拘るドラマーと左手がスローなベーシストのせいでなんともバランスの悪いヘヴィー・サイケにとどまり人気に陰りが出るも、後年になって一部のマニアから「Think Pink」を凌ぐUKサイケの名盤との再評価を受ける。 そこで「オーケストラとの共演?そんなクソ退屈な仕事はナイスやパープルみたいな退屈な連中にまかせておけばいい」と制作した「原子心母」は、ハード・ロック路線に見切りをつけたシドが気晴らしに聞いていたザ・バンドやフライング・ブリトー・ブラザーズに影響されて初期の看板だったスライドギターをペダルスチールに持ち替えた気楽なカントリー・ロックだった。 シドにしてみれば「ナッシュヴィル・スカイラインに対する英国からの回答」のつもりだったが、これはさすがにファンとメディアの双方から総スカンを食らう。 そうこうしているうちにボウイ、Tレックス、ロキシー・ミュージックの台頭に焦ったシドは元祖グラムのプライドをかけて初心に戻り「サイケデリックの新鋭」を次世代型にアップグレードしたパワー・ポップの会心作「おせっかい」を発表する。 「おせっかい」からはジーン・ジニーやイージー・アクションと共にUKチャートの上位を競う艶やかでギラついたシングル「タコに捧ぐ詩」を切って一躍スターダムの頂点に。 依然として面倒臭い映画音楽の仕事なんかは受けないので「雲の影」は存在せず、期待のニューアルバム「狂気」では「グラムはもはや過去の遺物さ。ボクは今ソウル・ミュージックに夢中なんだ」と早々とグラム・ロックからの離脱を宣言したシドがボウイに先駆けてスティービー・ワンダーやオハイオ・プレイヤーズ等を畸形的に解釈した16ビートのファンク・ロックに挑戦。 しかし16ビートに全く対応できないニック・メイソンは解雇され代わりにアンディ・ニューマークの起用が検討されるが、ここでシドの独裁体制に不満を募らせていたロジャー・ウォーターズがメイソンと共に脱退。 ウォーターズは「アローン・トゥゲザー」発表後レーベルとの契約トラブルで低迷していたデイヴ・メイソンに声をかけ新バンド「スターズ」を結成し、米国南部への憧憬を胸にレイドバックしたUKスワンプを追求していく(余談になるがスターズがマイナーレーベルに残した2枚のアルバムは今ではマイティ・ベイビーやアーニー・グレアムの諸作と並ぶUKスワンプの名盤とされ、オリジナル盤は200ポンド超えのコレクターズアイテムとして取引されている。現在ウォーターズはスコットランドで鮭の養殖業を営み悠々自適の余生だという)。 もとより黒人音楽に関心のなかったリック・ライトはスタジオから失踪、「狂気」の制作は暗礁に乗り上げる。 そこでシドは未知のカテゴリーに活路を見出すべく旧知のジョー・ボイド経由でクリス・ブラックウェルにコンタクトを取った。噂に聞いていた大物、ジャマイカのウェイラーズをマーリー、トッシュ、ウェイラー抜きで「狂気」のバックバンドに起用を依頼するという荒技に出たのだ。 新しい強靭なリズム「レガエ・ミュージック」とシドの華やかなメロディーは最高の相性だったはずだ。 しかしブラックウェルはウェイラーズのメジャーデビューとなる「キャッチ・ア・ファイアー」制作に腐心していたためシドのオファーを拒否。 レコーディングもライブツァーもできない窮地に陥ったシドは再び薬物に手を出してしまうのだった…。もはやシドに忠告する者はいなかった。 「狂気」は「ライフハウス」「スマイル」と並んでロック史最大の未完成アルバムとして伝説化することになった。 失意の隠遁生活の後、ふと忘れ物を思い出したように一人でスタジオ入りしたシドは、息も絶え絶えに最後の弾き語りソロアルバム「ピンク・ムーン」を録り終えると「オーヴァーダブはいらないよ。このアルバムにアレンジは必要ないんだ」とだけ言い残し去っていったという…… あれ? なんか間違ったなオレ。
You can say the sun is shining if you really want to |
自分の中では何といってもこれが最高位のレコードだった。グラム時代からFMで流れるシングル曲にはリアルタイムで接していたが、リアルな表現者として彼を意識したのはLowが初めてだった。 だらしない自分の記憶力だが1977年当時、阿木譲が近畿放送のAM番組ファズ・ボックス・インで 「もうボウイみたいなね、あんなに知的なロックミュージシャンでさえパンク・ロックっていうものに対してね、もう無視できなくなっているっていう状況だよね。新作(Lowのこと)ではいち早くパンク的な要素っていうか、例えばああいったパンク・ロック的な、荒いドラムのサウンドなんか(A面のこと)を取り入れてたでしょ? そういった点だけをとってもね、やっぱりホントに彼はしたたかだし、確かな人だな、とボクは思います。はいじゃあ次は、ヴォイドイズの新しいシングルを紹介します」 といった感じで、あの陰鬱だが自信に満ちた低い声で訥々と語っていたことは高校3年当時の鬱屈した日常の気分とラフミックスされたまま、いまだに、やけに生々しく覚えているのだった。
A New Career in Heaven |
イギリス南部の港町ボーンマスのマイナーバンドだったジャイルズ・ジャイルズ&フリップの小市民的な鄙びたポップスをプログレッシヴ・ロックの真紅の大輪へと一気に跳躍させたのはピート・シンフィールドの絢爛たる詩世界だけの所為ではなく、もとより彼のプロデューサーとしての野心と才覚あってのことだった。 単なる詩人気取りのヒッピーではロバート・フリップと互角にソングライティングチームを組んで4枚の作品を上梓させることなど到底できなかっただろう。 しかも、まず選び抜かれた言葉で編まれた精緻な歌詞があり、音楽がイマジネーションの翼を補完し昇華させるというビートルズとは真逆の成り立ち方で。 初期クリムゾンは常に詞先だった(後期クリムゾンがインストゥルメント主体の音楽へシフトしたのはフリップの自我の目覚めがこの束縛を断ち切らせたからである)。 バンドの命名者でありながらグループを追われた後もその印象が薄れることなく改名はありえなかった、という点でピート・シンフィールドはシド・バレットと同じ立ち位置にいた。 初期クリムゾン4作に通底する、あの透徹した時空間の感触はミックス段階での大胆なリバーブ・エコーON/OFFとパンニングの緻密なコントロール、そして始終神経質なフェーダーの上げ下げに負うところが大きかった。 それはフリップというよりもシンフィールドの嗜好であったことを裏付けるように、Lark’s Tongues〜以降の作風は殊更に生音を強調した閉塞感の強いミックスに取って代わり、リバーブ・エコー処理は常に最小限に抑えられている。 またライブ演奏時に於いても、ミキサー卓を操作してドラムの音をVCS3に入力しPAの出音に暴力的なノイズ・トリートメントを施すという荒技を披露したシンフィールドのオペレーションは、間違いなく初期ロキシー・ミュージックに於けるイーノの手法に大きく影響を与えている。 そして、クリムゾンのオーディションに現れて「エピタフ」を(間違いなくあの唱法で堂々と)歌ったブライアン・フェリーの異能に着目したシンフィールドがロキシー・ミュージックのデビューに尽力したのはプロデューサーとしての慧眼であり必然であった。 フリップ&イーノもこの流れから派生した。まさにChance Meetingだ。
The original Roxy was in a sense Re-Maked/Re-Modeled Crimson If There Is Somethingのライブバージョンは完全に初期クリムゾン |