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【更新履歴】
■ 第十七回 片想い      『Narita / Riot』              アメリカ合衆国       2019/04/14
■ 第十七回 時代 『Nice and Greasy / Atomic Rooster』  グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 2019/04/12
■ 第十六回 ジョーク     『Practical Jokers / The Swingers』     ニュージーランド王国     2019/04/11
■ 第十五回 亡霊神輿     『Believe / Trilok Gurtu's Crazy Saints』   インド共和国          2019/04/09
■ 第十四回 ママから姐ちゃんおばあちゃんまで 『Les Meilleurs Succes de Franky Vincent』 グアドループ 2019/04/08
■ 第十三回 泡沫の日々    『Bubbling Over / Dolly Parton』       アメリカ合衆国       2019/04/07
■ 第十二回 阿呆のバトン(下)『Jacob F. Desvarieux / Georges Decimius』 小アンティル諸島       2019/04/06
■ 第十一回 阿呆のバトン(上)『Live on Tour in Europe / The Billy Cobham-George Duke Band』 アメリカ合衆国  同上  

このページはかつて
管理者のケンイチが
@nifty の音楽サイト
『moocs』にて
連載していた
コンテンツ
『世界のいいジャケ
10000選』
の加筆修正版です。
 
いい食物




第1回~第10回  第11回~第20回



第十八回

片想い

Narita / Riot

アメリカ合衆国

2018年の日本人出国者数(延べ人数)の、総人口に対する割合は、たったの14.9%なのだそうだ。
これは、年に2度3度出国する人を含めての割合なので、ユニーク数にすると10人に1人を割るのではなか
ろうか。

さらに、かのアメリカ合衆国ともなると、実に10%前後になるらしい。
ちなみに先進諸国中、これらはダントツの最下位とベベ2だそうだ。
(ちなみに台湾は66%、韓国はなんと108%とか!)

というわけで、よその国に興味の無いことでは比類のない2つの国家の、ある惨憺たる出会いのヒトコマが、
このLPジャケットである。

本作はこれでも、アメリカンハードの雄・RIOTの代表的名盤として、つとに知られる重要作である。
『ヘビーメタル入門』みたいな本には、わりと必掲の一枚なのである。

この爆品が、アメリカの音楽市場に投下された、70年代半ば頃。
わが国はグレート・アメリカ文化の勤勉なる生徒として、ロックンロールやディズニー、プロレスやマクドや
原子力発電を真摯に研究し、摂取していた。
一途な思慕の念をつのらせていたのである。

しかし相手は違った。
『フジヤマ・ゲイシャ』に『カミカゼ』『サムライ』『ヨコヅナ』あたりが加わるのが関の山、というくらいの
興味しかなかったのだ。

本作品は、当時の日本の三里塚闘争をテレビか新聞で知って、「お、それってRIOTじゃん」と思ったバンドが、
知ってる日本としての『フジヤマ』と『ヨコヅナ』を総動員し、それなりに真面目に作り上げた世界観であり、
決してわが国の社会問題を揶揄するような意図はなかったもの、と筆者は感じている。

あと、ハード&メタルに知識のない方の理解の助けとして付け加えたいのは、このアザラシ人間なるモチーフは
バンドの前作にしてデビュー作の『Riot City』にすでに登場している、定番のマスコットキャラであるという
点だ。(今回に限り、太らされているが)

このような半獣半人キャラは、インコ人間をマスコットにしたBUDGIE なるハードロック・バンドの登場から
今に連綿と続く伝統的なメタルしぐさであり、決して大相撲を愚弄する意思はなかったと、筆者は感じている。

・・・・ていうか、アメリカ人って、こんなもんなんでしょ。

というわけでアザラシ男の『シャケみたいな肌色』とか『ジェット機の正面顔』とか、指摘したい点が山積する
今回のジャケであるが、そもそも他国に関心を持たない世界第2位の我が国に、苦言を呈するような資格はない。

現地に存在しない天津飯やビーフカレーを食いながら、「海外では変な寿司が出回っており、素晴らしい日本
文化が歪曲されている。日本政府は抗議すべき」とか言ってる夜郎自大ぶりは、ちょうどグレート・アメリカ
文化の良き継承者とはいえるのかもしれないが。

さて最後に、この問題になぜ筆者は、ここまで冷徹なのか。
平素から、本邦マスコミが日夜発信してくる、『通天閣』と『ヒョウ柄主婦』で構成された NANIWA という
ジャケ写に、日常的にウンザリさせられているからなのである。


第十七回

時代


Nice and Greasy / Atomic Rooster


グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

冒頭にもありますように、本コンテンツは「ケンイチが@nifty の音楽サイト『moocs』にて連載していた
コンテンツ『世界のいいジャケ10000選』の加筆修正版」であります。(第一回~十五回分まで)

当時ご依頼くださったサイトの運営者は、いたって洒落のわかる、ロックスピリットあふれる皆さんだった
のですが、私が提出した連載プランを眺めて唯一、「これは勘弁して」と仰ったのが本作でした。

この時の判断に関しては、提案した自分が言うのもなんですが、正解だったと思います。
いくら何でもこれはないだろうと思うし、いくら何でもこれはないだろうと、もう一回思うほどです。

実際のところ「それじゃあ、評論どうぞ」と言われたとしても、何の言葉もなかったろうと思うし。
「働く気ないです」って言ってる人に相応しい仕事を見つけてあげる、みたいな話なのだと思う。

あと、作品のクオリティが妙に高いのが、ハラ立ちますよね。
割とクールなポジション取りと言うか。
「やってしまっても良かった時代」の空気を感じると言うか。
逆にHIPとか言われてそうな気配と言うのか。

ちなみに本作ジャケは、さすがに発禁となっております。
今回は完全な『出オチ』ですので、この辺で。


第十六回

ジョーク


Practical Jokers / The Swingers


ニュージーランド王国

英和辞典によると、タイトルの Practical Jokers は『悪ふざけをする人たち』という意味のようだが、
かの地ニュージーランドでは本当に、このような所業も『Joke』の一種でいいのだろうか。

例えば自分が今から、『語学留学』と称してニュージーランドに赴き、ホームステイ先の息子さん相手に
このような狼藉に及んでも、『あはは、ケンイチ。冗談はよしなさい』と笑って済まされるのだろうか。

この写真はまさに、タイトルの『Practical Jokers』を表現するために撮影されたものと思われる。

それゆえにコーヒーをぶっかけてる側も、そしてかけられてる側も、すでに『きっちりと笑って』いる。
双方の合意の気分をどこかで表現しておかなくては、純然たる暴力としか映らないからである。

あと右下のリーゼント男もまた、「これがオフザケであること」を顔面の全体で訴求しようとしている。
メガネに丸縁を選んでいるところにも、演出の慎重さがうかがえる。

しかしそれでもまことに遺憾なのは、『冗談』を受けている側の、あまりのセーターの純白である。
これがどうにも痛々しく、「いやいいんだよ、冗談だから」を意味するコーヒーの下の笑顔を、いよいよ
物悲しくしている。

このジャケ写の演出は多分、失敗している。
あんまし失敗するはずのない素材であるはずなのに、失敗している。
勢いで発生してしまうはずの光景を、Ready ? Go! でやってるからかもしれない。

しかしその無理が逆に、このジャケに『いいジャケ』的奥行きを与えている。
私の様な好事家は、何分見てても飽きないくらいである。

しかし繰り返しになるが、これはニュージーランドでは『Joke』なのか。
『フリとオチ』とか『緊張と弛緩』とかいう、我々日本人の『冗句』とはずいぶんと違うようだが。

まあ、助走なしに垂直にジャンプして、やっぱりあまり飛べなかった、脚もちょっと挫いた、みたいな成績
といえよう。


第十五回

亡霊神輿


Believe / Trilok Gurtu's Crazy Saints


インド共和国

いかなる人生にも、災厄の火の粉は、卒然として降りそそぐ。
そのとき人はその受難に敢然と立ち向かうか、あるいは目を伏せやり過ごすかの二者択一を迫られるのだ。

「世界のいいジャケ1000選」15回は、R・タウナーのOREGONへの参加でも知られる、インド屈指の
ジャズ・パーカッショニスト、TRIOK GURTUさんのご紹介です。

さて当たり前を言うわけだが、人はいつでも『状況』に生きている。
喜ぶ人は、喜びあふれる状況に笑い、悲しむ人は悲しみに覆われた状況で泣くであろう。

しかしである。
目に見えぬ何かを畏れるあまり、両手に固く印をむすび身も世もなく取り乱す、上掲写真のトリロク氏の
背景には、どう贔屓目に見ても何ものも存在しない。

乳白色のバック紙に四囲を閉ざされ、時の流れ澱み、かすかな物音ひとつ響かせぬ、そこはもはや、久遠
の涅槃のようだ。(行ったことないけど)

つまりこのジャケが抱えるタチの悪い理解不能性の一端は、身悶えるトリロクさん本人が、自身を苦しめる
社会の諸条件から完全にトリミングされている点に由来する。

いうなればこれは、亡霊の青年団に担ぎ上げられ、市中をひとりでに練り歩くお神輿がそうであるような、
説明責任の欠如なのである。

そしてさらに、当ジャケが我々を惑乱させる今ひとつの原因がある。
それは、世界から人為的に切り取られ、これ以上ない確度で、いわば濃縮還元100%のクドさでもって、
我らにきっちりと提示される、トリロクさんの変なアクションの多義性だ。

トリロクさんの人生にも、災厄の火の粉は、卒然として降るのであろう。
トリロクさんはその時、この受難に敢然と立ち向かうのか、あるいは目を伏せやり過ごすのか、二者択一を
迫られるであろう・・・・

そう、二者択一を迫られるのであるが、トリロクさんなぜか、敢然と立ち向かうテンションでもって目を伏せ
首をすくめ、運命に忍従しようとしている。

このエモーショナルな降参と呼ぶべき、どないやねんなボディーランゲージは、これを眺める者すべてに対し、
錯乱のメッセージを放ってやまない。

状況説明無き、アグレッシブな降伏・・・・・

ここにある理解不能性は、これまで私が紹介してきた「いいジャケ」中最大のものであり、この謎を解き、
本稿を投ずるまでにこの私が費やした時間はまさに、75時間を超える。
おそるべき難物であった。
そしてその毒は私の体を徐々に蝕み、このたび生まれてはじめての整骨院通いを2回せざるをえなかったほど
であった。ああ、節々痛い。

恐るべきはインドの遠さ。インドの広さである。
しかし、いしいひさいちかよ。


第十四回

ママから姐ちゃんおばあちゃんまで

『Les Meilleurs Succes de Franky Vincent』

グアドループ

あなたは、とある国のミュージシャンである。
歌手であり、作曲家であり、プロデューサーでもある。
Wikipediaにだって記事のある、いわば国民的なスター・・・・

その貴方は、芸能生活の10周年を祝し、初のベストアルバムをリリースする。
音楽人生における重要な区切りであり、ひとつの集大成だ。

さて、かようにもメモリアルな作品のジャケ写において、はたして貴方は乳を揉むか?
鋭く手首を捻って乳を揉みながら、笑うであろうか?

「世界のいいジャケ1000選」、グアドループが生んだズークの肉食系男子、FRANKY VINCENTさん
のご紹介です。
え、特に紹介されたくない?

それにしてもである。このたびのジャケ。
語るべきテーマが無際限に氾濫し、ほとんど取りつくシマもないほどが、それでも今回もっとも語るに値
するポイントといえば「彼はなぜ揉むのか」ではなく、「何を笑っているのか」にあるのではないか。

そう。
彼はこんな状況下、いったい何を笑っているのか・・・・

平均的日本人である我々は通常、以下のような通念というか、漠たる常識をかかえている。
ひとかどの社会人が、カメラやビデオなどの撮影機器を前に、みだりに女性の乳房あるいはそれに類する
ものを弄ぶ行為は、そのみずからの将来にロクな影響をもたらさない、という常識を。

一般に「敷居を跨いだ男には、七人の敵がいる」と言われる。
かように無思慮な写真を残す行いは、そんな仇敵たちに対し、かっこうの攻撃材料を提供するに等しい。

「さあ、これで俺をユスれ」
「しかるべきタイミングで社会的に抹殺してみろ」
と、あまねく、公募をかけるようなパンク行為なのだ。

かてて加えて、そのリリース直後に、おのれが頓死したらどうなるか?
まちがいなくこの乳揉み画像が、アーチストとしての遺影となるだろう。

新聞の追悼記事に、乳揉む笑顔。
当然、墓前に、乳揉む笑顔。
ミンナの心にひとつずつ、乳揉む笑顔。
「乳揉む」以上の問題が、この「笑顔」なのである。

・・・・・・・・・・・・・・・

なんて、もっともらしいことツラツラと書き連ねましたが、以上はあくまでもカマトト国・日本における
世の常識。
世間の相互監視的な視線に汲々としながら、品行方正な自己を不必要なまでに装いつづける、どこまでも
体面気になるニッポン人の、常識なのであります。

当該ジャケから立ちのぼる無思慮な感じ。
「乳揉んでそれだけ」的日常感覚。
これほどまでにユルみきった笑顔が、はなから反社会的なアティテュードであろうはずがありません。
このフランキー氏は全然社会人ではなく、恐れる七人の敵なんかもないのであります。

それでは、彼は何者なのか?
そのまま、乳を揉む人なのです。

幼少の頃にオレを可愛がってくれた愛しのママから、今俺が可愛がってやってるお姐ちゃんたち、そして
おそらく死ぬまで俺のことを可愛がり続けるだろうオバアチャンまで・・・・。

このフランキー氏は生まれてこのかた、ただ世界中のオンナとの関係性だけに生きた、そしてこれからも
生き続ける永遠の男子なのでしょう。

ご覧ください。
このどこまでも無方向な笑顔。
そこにあるのは社会への挑戦などではなく、女性が居るこの世界への限りない信頼。
すなわち「おかあさんといっしょ」の安心感。

そこに乳があれば、とりあえずは揉む。
これもまたひとつの幸せのかたちなのであります。


第十三回

泡沫の日々

『Bubbling Over / Dolly Parton』

アメリカ合衆国

 さて、みなさま。
 進行方向より、右手をご覧くださいませ。
 眼前にせまる白い泡沫は、偉大なるわがアメリカ合衆国におきましても、有数のパワースポットと呼ばれる
 "神秘の泉″でございます。

 カメラをお持ちの方は、これを機会に一枚おおさめになることを、お勧めします。
 こちらは、湧き上がる噴水がしばしばカントリーミュージックの女神、ドリー・パートンの笑顔を顕現する
 という現代科学ではとうてい解釈不能な、聖なる泉なのですから・・・・

 あっあっ、皆さま、何でございましょうか?
 え?
 噴水の後側に・・・・
 ドリー・パートンの・・・・
 本人がいる?

 ああ、アレですね。

 あれは単なる、イタいファンでございます。
 ウケ狙いで、毎日来やがるんでございます。

 はい、ただのバカです。
 目障りですか?
 そうですね、近い内にシメちゃいますね・・・・

というわけで、「世界のいいジャケ1000選」第十四回は、米・カントリー・ミュージック界の女王 DOLLY
PARTONの1973年作です。

さて、このドリーおば様といえば、持ち前の豊かなバストとヤンキー好きのする笑顔をトレード・マークに、
デビューから今日まで、つねに業界の一線を駆け続けた大変な大御所。
そしてこのジャケこそは、輝かしきスター街道を今しも駆け上がらんとする、若き日の昇竜の勢いをあらわした
作品と想像されます。

しかしです。
だとすれば、ナンなんでしょう、このていたらく!

噴水の発生源が一切表現されぬまま、ただ漫然と噴きあがる顔面泡沫。
その雑漠とした写真合成のやっつけ感。
神秘的というにはほど遠い、そのあまりの忌まわしさに、南部のWASP親父も思わず壁掛けライフルを乱射
してしまう事でしょう。

70年代アメリカのショービズ界という生き馬の目を抜く業界において、どうしてまた、これほどにゆるい
ジャケが許されたのか。
俄かに信じることも困難な、だけど爽快なくらいに野放図な、いいジャケであります。


第十二回

阿呆のバトン(下)

『Jacob F. Desvarieux / Georges Decimius』

小アンティル諸島

                         (承前)

はるか地平線の彼方より、あらたなる日の出を寿ぐ、巨大なカリビアン顔面ふたつ。

嗚呼、旭日に心洗われる思いは、洋の東西を問わないものなのですね

なんて、思わぬカリビアン情緒にウットリしていると、アレッ?
ふたりの目線が、何か変です。
太陽なんか、全然見てないですよね?

どちらかといえば、そのひとつこちら側、左右の砂丘の交差するあたり。
朝日に照らしだされた画面中央の、真白い丘を見つめているではありませんか。

あ、しかもコイツら!
第十回の「ゾンビーな時間」で、イヤらしくこちらへ淫靡テーションしてたガチムチ。
そう、あのKASSAV′の三人中、左右両はじのオヤジ達ではないですか!

しかもよう見たらコレ、砂の丘陵ではなくて、横たわる女性の下半身です。
要するに、このオヤジふたりして凝視しているのは、何と「オンナのアソコ」であったという・・・・

ううう、なんてショウモナイ仕込み。
思いついてから、10分で作ったみたいな思慮の無さ。

実はこのジャケ。
前回、第十一回のジャケに対する、ある種のアンサーソング的作品なのです。
ジャケ上部のアーチスト名クレジットをご覧ください。

前者の「THE BILLY COBHAM-GEORGE DUKE BAND」 に対し、後者は「JACOB F. DESVARIEUX
/ GEORGES DECIMUS」。

ある種のパロディというか、オマージュ的表現なんですね。
意外とちゃんと、考えてはるは、はるようで。

それにしても北米大陸からスタートし、メキシコ湾を横断。
最後は中米・アンティル諸島において、見知らぬ第二走者へと手渡された、この阿呆のバトン。

私的にかなりの美談です。
やはり、アホは国境を越えるのであります。
役不足ではありますが、極東ではこの私めがしかと、受けとりたいと思います。
涙の出そうな話ではないですか。

それから最後になりますが、KASSAV’のガチムチさんって、普通に女性好きだったんですね。
前回色々と、あることないこと言ってスミマセン。
まあ、別にコレ読んでないだろうけど。

                          (完)


第十一回

阿呆のバトン(上)

『Live on Tour in Europe /
The Billy Cobham-George Duke Band』


アメリカ合衆国

「なあジョージ。俺らがやってるジャズはよ、21世紀にゃあシャレオツ音楽って扱いになるらしいぜ」

「ほえ~、そいつあ本当かい、ビリー。それじゃあこれからは、ちゃんと風呂入らねえとな」

「ああ、そうさ。臭えとオンナに嫌われるらしいぜ。Funkyはもうダメだとよ」

「何だ、Funkyはダメなのか?」

「Funky調 はいいそうだ。それから、煙草もやめろって話だ」

「そいつあ、悪い冗談だな。ジャズに煙草はつきものだろう」

「周囲に迷惑がかかるそうだ」

「情けねえ・・・・・」

「ジミ・ヘンとかジャマイカの音楽だって、禁煙ルームで聴くらしい」

「それじゃあ、俺たちもこんなバカなカッコしてちゃあ、ダメだな?」

「いや、心配ねえ。いつの時代にもバカはいるさ・・・・」

というわけで、「世界のいいジャケ1000選」。
今回の一枚は、21世紀の小粋なクラブのインテリアとしては、もっぱら黙殺の方向のビリー・コブハム-
ジョージ・デューク・バンド、76年の名ライブ盤のご紹介です。

核兵器の応酬により、見晴るかす廃墟と化した、最終戦争後の暗黒世界。
その荒野をサバイバルしながら、はや異形の怪物となりはてたかつての天才ドラマーと、天才ピアニストの
奇跡の邂逅。

四肢と胴体を失いながら、それでも「おたがい手のひらあるじゃん!」「工夫次第で合奏できるじゃん!」と、
いたってポジティブ・シンキング。
逆上がりの要領ヒョイとひと跳ね、空中でハイタッチして「ヒー!ハー!」叫ぶ、どこまでも陽気なヤンキー
たちであった・・・・・

とまあ、実際にはこんなコンセプトあろうはずもなく、単にダリの世界観を拝借しフザケてみただけの一枚か
と思われますが、それゆえに本作は、その内臓的とでも呼びたい生理的でヤニついた色彩感覚と、執拗に細部
を描きこむ画風のクドさ、トータルな品のなさにおいて圧倒的であり、まさに北米ジャズ史に染みついた特大
の汚点とすべき、永遠の問題作なのであります。

しかしこのテの「ダリ・ジャケ」は、実は世界中に散見されるもので、今回は特にもう一枚、カリブを代表する、
『いいダリ・ジャケ』をご紹介することといたしましょう。

                       (第12回に続く)


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