ジェロントロジー・高齢社会の人間学をテーマにしています    がんを生きる
                     
 (こころとからだ) 

2017年新緑
Top page  すばらしき人々  気をつけたい言葉と行動  活動内容

              四葉クローバー がんを生きる(こころとからだ)
              (最終回)


マーク   はじめに
    がんを告知されたのは81歳にあと1ヶ月と言う年齢でした。
  年齢のせいかあまり慌てずに冷静に受け止めることが出来ました。
  ドクターより、「余命半年か」顔を見て「元気そうだから1年か」「今のうちに
  外国旅行などしたい事があれば」と言われました。
   自分自身は、本能的にまだまだと感じていました。それからがん治療が始まり
  ました。化学療法を経て手術後3ヶ月半になり、順調ですが、何時再発するか
  転移するか多少の不安感はあります。前向きに前向きに考えています。
   治療前と手術後のこころの動きと身体の感じ方を述べてみます。
  癌を生きる1~3と重複するところもありますが・・・。   
  
  
マーク 1) こころ

イ) 告知をされる前のこころ

   2016年2月に「老いには夢を」を夫婦共作として出版し、3年6ヶ月
  連載していたシニア雑誌「ゴールデン ライフ」を12月に終了しました。
  これからは自由な自分の時間が持てると思っていたところ、
  2017年1月末より体調を崩し、血尿が出て、苦しみました。
   かかりつけ医に紹介状を頂き、神鋼記念病院にて検査が始まりました。
  この検査が最も嫌で苦しく検査を中止しようとさえ思いました。
  しかし、妻、その他町のかかりつけの先生などの励ましとこころを頂き検査を
  続けることができました。その結果が癌の告知でした。     
   
ロ) 告知とこころ

    告知される前から、ある程度想像していました。癌といわれることを。
   決して慌てたり、みっともないことはしないとこころに決めていました。
   私以上に妻が感じたことがたくさんあると思います。
   癌と言われて嬉しい人はいないと思います。表面的には平気というか自然な
   態度で聴きました。余命など。
   帰宅後、一人になり、感情が揺れ動きましたが、妻にも誰にも平気を
   装っていましたが、ベットルームではいろいろと考えました。
   先ず、相続のこと、子供がなくて、兄弟は兄3人妹4人弟1人、もし、
   私が、死亡しますと相続権のある者が多数あらわれます。また、兄弟姉妹が
   亡くなれば甥や姪に相続権が出てきます。そこで取りあえず住居だけでも
   妻に渡しておきたいと考えました。当然に遺言書は自筆ですが作成。
   ある程度準備ができたと思われるときに抗がん剤(化学療法)が始まりました。
   
ハ) 妻のこころ

   告知を妻と一緒に聴きましたが、私以上に妻はショックだったと思います。
  入院生活が始まると同時に住まいの全面改装も始まりました。
  これは、昨年11月に契約済のため、私が入院しても中止することが出来ず、
  リフォームの間の仮住まいに引っ越しなど女性一人で大変な事だったと思います。
  その上に毎日来院し、食事の補助食を持参してくれました。
  妻との会話とこの補助食で入院生活が続けられたようなものです。
  感謝あるのみ。
   癌で入院と言えば心配と興味で親族から、その他多くの方達より電話等々を
  失礼のないように対応してくれましたのも妻です。
   化学療法中は入退院を繰り返しました。1週間とか10日とか退院し家庭生活
  となりましたが、仮住まいでの生活、私に気を遣いながら・・・。
  いまさら、妻のこころ遣いと言うか、献身的な看護には頭が下がります。
  癌と言う難病の不安感を抱えながらの心意気は女性としての素晴らしさが
  私のこころに響きわたっています。
   
二) 入院生活 皆さまのこころ遣い

   入院生活は、高齢者の会話や気持ちを知るために4人部屋としましたが、
  癌と言う病気によるものか、こころの余裕がありませんでした。
  最後の手術の折りには個室としました。
   一番の感謝は、看護師の皆様の優しさでしょうか、ベットサイドに来て
  あまり、時間を気にせずにゆっくりと会話をしてくれることでした。
  これは、他の入院患者の皆様も同じように接していました。
  病室内に「有難う」の言葉で満ち溢れていました。素晴らしい光景です。
   主治医の先生にも感謝の気持ちで一杯です。日祭日でもベットサイドに
  来てくれました。ただ、日常的な会話のみのこともありましたが、
  それが病人にとってどれだけ嬉しい事か、また、安心感につながりました。
   入院中の見舞客はできるだけ断りました。点滴の薬剤袋をぶら下げて、
  尿管を入れ袋をぶら下げている姿をあまり見られたくありませんでした。
   
ホ) 手術前と手術中

   手術は、胃の3分の2と腎臓の片方を切除するということでした。
  外科の先生と泌尿器科の先生2人が担当してくれるとのこと。
  両先生とも心配しないようにと気遣いくださいました。
   妻が、一人では手術の間心配と言って弟夫婦と姪が妻に付き添ってくれました。
  手術室へは歩いて入室しました。
  横に看護師、後から4名がついてきました。何だか変な気持ちでした。
  痛くも、苦しくもなく、歩いてゆくのですから・・・。
   手術台に乗ると同時に全く意識が無く(09時頃)、気付けば17時でした。
  最初に妻の顔があり「うるさいおばさん」と言ったそうです。横に弟夫婦や
  医療スタッフがいたので照れくささがあったのでしょう。
  それが、この世に返ってきた最初の言葉と言うことです。妻には叱られる。

   その日は集中治療室で過ごしました。痛みと身体を動かすことが出来ない
  精神的な苦痛がありましたが、やはり、看護師さんの言葉遣いと気遣いで助かり
  ました。手術後次の日の10時過ぎに病室に帰りました。
   妻はすでに病室にて待ってくれていました。嬉しかったです。

へ) 手術後の病院生活

   病室に帰り、一番に聴いた言葉は看護師さんが「運動して下さい。病院の廊下
  歩いてください」でした。ええ格好しいの私のことその日に歩きだしました。
  点滴と尿管をいれたまま。少々恥ずかしい格好ですが、これが、復帰の第一歩と
  思って頑張りました。多少ふらつきましたが、看護師さん達が出会うごとに
  励ましてくれましたし、素晴らしい笑顔をプレゼントしてくれました。

   食事は、重湯。胃が3分の1となっているので当然でしょうが、美味しくない。
  手術のための入院は、個室を利用しました。トイレ、洗面台、冷蔵庫等があり、
  妻差し入れの食べものを充分に利用することができました。

   癌治療前は体重は74キロ、癌治療中に70キロ。手術後は、62キロと減少して
  おり、身体がふらつく感じでした。
  早く退院したいとの一念より、病院内を可能な限り歩きました。
  時々は、お身体がだるい、傷がいたいと言う時もありましたが、頑張りました。
  重湯から、お粥、普通食、おやつと差し入れの果物と食事らしい食事となり
  元気もでてきました。

ト) 退院後の生活

    胃がん手術後の食生活という本を妻が準備し勉強していてくれたのでしょう。
  消化の良いものから食べることとのこと。忠実に守っていましたが、
  ある日、入院前に私が主催していた「えんがわ」という高齢者の集まり会の、
  その中の一人の方が、朝8時半ころメロンを差し入れて下さり、突然のことで
  私はすでに食後であったのでもう食べられないところ、あまりの嬉しさで早速に
  食べてしまいました。
   しかし、大手術後のことですから胃のあたりがやはりおかしくなり、苦しみ
  だしました。妻の言葉を無視したことのお返しでした。
  その後は忠実に消化の良いものから食べるように心掛けています。

   1日に5回~6回の食事とドクターにも言われていましたし、よく噛むこと
  何回も何回も言われていました。横で妻が食事をしています。見られているようで
  しっかりと噛んで食べるのですが、冷や汗が出て食事がこれほど大変な事と始めて
  気づきました。

   どんどんと回復してくると言う実感が出てきました。現在は外来として
  病院での検査と診察があり、CT撮影などを行いましたが、現在までには異常は
  なく、ホッとしている毎日です。
  今後もし、転移が見られたらという不安感はどこかにあるようです。
  体重も65キロ前後とちょうど良い体重に回復しました。

   癌患者は、一人では生活できないとつくづく思いました。
  毎日毎日食事のこと、体調、私の動きなどに気遣いしてくれる妻が横にいて
  くれるお蔭で楽しく日々を過ごしています。感謝・感謝ですが、言葉にはでない。
  今後は、素直に言葉として表現したいと思っています。
 
   
マーク 2) からだ

イ) 筋肉

    体全体からくる「けだるさ」に退院当初は苦しみました。少しずつ体重も増え、
   筋肉に力がついてくるような実感が出てきました。それは、退院2週間くらい
   経過後でした。
   順調と思っていましたので買い物に妻と一緒しましたが、外気と店の温度差の
  激しい場合には、背筋が痛み、椅子を探して座ることも多々ありました。
  幸い足の筋肉の衰えはそれほど感じませんでした。しかし、背中、腕力の衰えは
  自分で考える以上に衰えていたようです。

   手術についての説明の折りに先生より、胃と腎臓と2ヵ所同時に手術すると
  体力の衰えが激しい説明はありました。それを乗り越えなければ病後の快復と
  言うことはできなと自分自身に言い聞かせています。可能な限り、食事と運動に
  注力を注ぎ元の体力とは言えないものの日常生活に不自由のない身体に復帰したく
  日常の計画を実行しています。協力を得ながら・・・。
   
ロ) 耐力

    重いものを持つ力、長時間の継続、階段の上り等などは手術前に比べて、
  目に見えて衰えているようです。これを可能限り回復するために歩くことより
  始めています。
   朝のゴミ出し、妻の後からついてスーパーへの買い物等々。近所の人々からは
  何時も一緒でいいですねと冷やかされますし、中に軽蔑の顔をした男性にも
  出会うことがあります。兎に角何時も一緒です。
  今では悔しかったらご一緒どうぞと言っています。。
  お金もかからず会話も増え運動にもなり、これほどいい運動はないと思います。

   手術後3ヶ月余り、元の体力の60%は快復したように考えています。
  手術前より、当然に年齢を重ねています。無理せず、年にあった耐える力を
  身につけたいと思っています。週刊誌やテレビで年をはるかに超えたような元気
  を求めていません。
   耐える力は、確かに必要でしょう。しかし、何時かは衰えるのが動物も人間も
  当然であり、無理のないように楽しく老いを迎え、老いを終了し、
  後には皆さんに素晴らしい想い出を残して人生を終了したいとも考えています。
   体力・耐力も当然に落ちてくることでしょう。受け入れるこころはできている
  つもりです。

ハ ) 瞬発力

   瞬発力は、確かにおちました。例えば、椅子に座っているときに名前を呼れると
  以前なら返事と同時に立ち上がっていましたが、現在は、返事後しばらくして
  立ちあがるなど一呼吸を入れなければ次の行動に移せません。

   交差点などで以前のように走ることが出来ないと言うか、走りたくない気分が
  先行して、交差点では、青信号が点滅していなくとも次の信号まで待つと言う動作
  が出てきます。本来体育系の人間で歩く速さや信号で走ってよく妻に注意された
  ことが度々ありました。

   病後のスポーツを考えるのですが、今考えることが出来るのは歩くことだけ
  のようです。歩くことは良いことですからそれはそれでいいのですが、
  やはり寂しい思いがします。年齢から来るとも思いますが、手術後特に動きが
  鈍いような気がします。それとも注意深くなったのでしょうか。
   この年になりますと、急激な動きを要求されることもなく、ゆっくりでいいと
  自分と会話をしています。

二) さぼり気

    退院後、ベットでのぶらぶらの生活が続き、これほど楽なことはなく、しかも
  病後ということで周りの人達も許してくれました。約1週間続いたでしょうか。
  そのような生活を続けていますと、身体のだるさに加えて思考能力まで無くなる
  のではないかと思えるようになりました。さぼり気一杯に日々。

   ベットでぶらぶらと寝てばかりいますとそれが本当に楽で普通になってしまう
  ような、それが楽であたりまえになっていました。
  食べては寝、食べては寝、フッと気づきますと回復のために楽な生活を送って
  いる心算が、こころも体も堕落してしまうことに気づきました。

   生活にはメリハリをつけることが本当に大切と気づき食後のべっド行きは中止。
  歩く、文章を書く、近隣の「えんがわ」(高齢者の集まり)を再開することとし、
  準備を始めました。歩きますと身体がすっきりとし、文章や話題を考えますと
  気分が停滞から動きと変化する様子が実感として判りだしました。
   有難いことに「成年後見制度」講演依頼も持ち込まれ、「えんがわ」と二つの
  準備をすることである程度、病気前の気分と体調が取り戻せたように思います
   
ホ) 温度差で痛みが

    手術後3ヶ月経過し、一泊泊りの外泊が出来るまでに回復しました。
  ホテルでの食事は、レストランでは、量とか食べる速さなどが気にかかり、
  バイキングを利用しています。歩いてもさほど苦にならなくなりました。

   現在最も困っていることは、外気と室内の温度差です。特に外気が暑く、
  室内の冷房がよく効いている場所に行きますと背中かより腰あたりの筋肉が痛む
  ことです。これからは、外気が寒く室内が暖かい環境ではどのようになるか
  心配と楽しみが入り混じっています。いずれにしても物事を悪く考えずに前向き
  に生きてゆきたいと思っています。

   外泊したり、外に出ることを計画し、行動に喜びを見つけ出したいと心して
  日々の生活を送りたいと考えます。

へ) 三人の主治医の有難さ

   有難いことに私には三人の医師が付いてくれています。全ての先生に感謝の
  気持ちで一杯です。
   その一人は、歩いて10分弱のところで開業されている40歳代後半の総合医の
  先生です。医師と患者の関係以上に私の体を気遣ってくれます。
   そして病院で治療に関わって下さり、手術を担当して下さった泌尿器科の先生。
  言葉は少ないのですが、こころ遣いは常にうれしく私を安心させてくれます。
   もう一人は、外科の先生で何時も勇気つけてくれます。
  「長生きコースに入りましたね」これは外科の先生の言葉です。
  その言葉を聴いて私は勿論ですが、妻が本当にうれしそうで
  こちらまで幸せな気持ちになりました。

   一般的には大病でしたが、素晴らしい先生方や妻その他親族に囲まれてこれほど
  幸せな病人はいないと感謝しています。

   81.5歳となり社会復帰の第一歩と考えています。これからの人生悔いのない
  皆様によかったねと言われる日々を送りたいと思います。
  がんなど吹き飛ばして!!
   


                        シニア ライフ アドバイザー
                               岡島 貞雄


                       Top page