Пл. Дворцовая

 宮殿広場Пл. Дворцоваяから海軍省大通りの方角に目を移すと、イサク大聖堂と海軍省の凱旋門・尖塔が見える。
 ペテルブルグは海軍や通商上の拠点としての町でもあったから、船に関連する建物も多くて歴史を偲ばせる。時間があれば海軍省河岸通りもバスで通るだけでなく、ゆっくり歩いて見たかったところだ。
 広場には馬車も待機していて、馭者が観光客に声をかける光景も見られる。18・19世紀の気分を味わえる贅沢なタクシーといったところだろう。
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 エルミタージュに圧倒されたと同時に体力を吸い取られた私は美術館を出て、南の方角へ宮殿広場の方に足を運んだ。館の南側正面に出るまでの中庭は工事が進行中で、一服できる感じではなくて少し残念だった。
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 中庭から宮殿広場に出るまでの冬の宮殿(冬宮)の通路と柱。天井には見事な装飾が施されている。
 エイゼンシュテインの映画『十月』の場面の一つは、ここでも撮られている。巡洋艦オーロラが革命の合図を送ったあと、民衆が冬宮におしかける場面があるが、その中で一人の男が鉄の門を這いあがり門を越えて内側から門を開け、門に殺到していた民衆が冬宮へと一気に解き放たれる名場面だ。写真に写っている黒い鉄の門は、当時のものかどうか分からないが、映画にあるものとよく似ている。今度、映画を観て確認したいものだ。
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冬宮の南側ファザード
 ピョートル大帝は1697〜1698年にかけてヨーロッパを訪問して、あらゆる分野において西欧諸国の経験に学んだ。ロシアに戻った大帝は、ロシア人を官費を使って西欧に留学させたり、外国から建築家を招いたりして、ペテルブルグを中心に一気にロシアの西欧化に踏み出した。
 そのピョートルの権勢が冷めあがらぬ頃ころに、冬宮は建設されていった。設計したのはロシアの宮廷建築家フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリ(1700〜1771)で、彼は1716年にピョートル大帝の招きで父親のカルロ・バルトロメオ・ラストレッリと共に、ペテルブルグにやって来た。彼はピョートルのプランの申し子といえるだろう。
 彼はピョートルのプランの下で外国の建築に学び、以後ロシアの宮廷建築家として働くようになるが、アンナ女帝、エリザヴェータ女帝に至るころ彼の才能は開花する。彼は帝国の権力を示すロシア・バロック建築の最大の建築家になった。冬宮、ペテルゴフの大宮殿(ピョートル宮)、ツァールスコエ・セロー(プーシキン市)のエカテリーナ宮殿スモーリヌイ修道院など、これらはラストレッリ絶頂期の大傑作で、現在でもロシアを訪れる観光客を魅了しつづけている。
 ちなみに冬宮は1754年にエリザヴェータ女帝の治世に着工され、1762年エカテリーナ2世の治世に完成した。
アレクサンドルの円柱の台座
宮殿広場のアレクサンドルの円柱
 宮殿広場にそびえるアレクサンドルの円柱は、イサク大聖堂の再建にも腕を振るったO・モンフェランによって1834年に立てられた。頂にはБ.И.オルロフスキー作の蛇を退治する天使の彫刻が載せられている。
 円柱の名前になっているアレクサンドルとは、アレクサンドル1世(在位1801〜1825年)のことで、1812年の6月から12月まで続いた対ナポレオン戦争に勝利したことで国際的な評価が高まった皇帝である。この戦争は時期を見越してモスクワを放棄し、モスクワの大部分を焼き尽くすことまでして、まさに肉を切らして骨を断つ方式で得た勝利だったが、この戦はロシアに栄光をもたらした。この対ナポレオン戦争のことをロシアでは祖国戦争というが、戦はロシアという国の特質をよく表しているように思われる。
 1812年の祖国戦争のナポレオン率いるフランス軍は悪の権化とされ、戦争終結後、その勝利を記念してアレクサンドルの円柱は立てられた。上の台座の彫刻はいかにもロシアにとっての聖戦をイメージさせるし、円柱の頂にある彫刻は、蛇(ナポレオン軍を表す)が天使によって退治された意であることからも窺い知れる。
 ところで、単純に考えて、ロシアという国は侵略が苦手で、防衛するとなると物凄い力を発揮する国だと思う。空位期間(1610〜1613年)のポーランドに対する国民軍結成、対ナポレオン戦争、1941年から始まった対ドイツ戦争(ロシアでは大祖国戦争)、どれもこれも国の重要拠点を失いながら、巻き返して勝った戦である。ロシアの国民性というものを考えるうえでは、これらの戦争に対するロシア国民の感覚を理解するのも大きなポイントだそうだ。
 宮殿広場は1905年1月9日の「血の日曜日事件」の舞台の一つである。この事件は、十字架、イコン、皇帝の肖像を掲げた労働者やその家族が、憲法制定会議の召集、政治的自由、法の前の平等、団結権、8時間労働日などを、皇帝ニコライ2世に嘆願するため冬宮に行進したところ、軍隊が発砲し、100人前後の死者を出した事件である。この事件がもたらした皇帝崇拝の減衰は、第一次革命の発端になり、1917年のロシア革命を成立させ、そして結果的にニコライ2世とその家族を処刑する大儀というか論拠を生み出してしまった。
 確かに19世紀末となると、テロによる皇帝殺害もあったし、政策的な矛盾が噴出してきて帝国内は混迷を極めていた。そんな中、二十代半ばで皇帝の座につかざるを得なくなったニコライ2世に同情の声もあるにはあるが、私個人は、やっぱり「血の日曜日事件」は皇帝の失策としてあまりに大きかったと思う。

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