Органный вечер

 雨が降っていたので、そんな夜に町を歩くよりはコンサートの方がいいと思った私は、開演2時間前のチケットを求めて芸術広場まで歩いて行った。昨日のムソルグスキー・オペラ・バレエ劇場(マールイ劇場)とは反対側にあるコンサートホール、国立フィルハーモニー(ボリショイ・ホール)では国際的に評価の高い奏者によるオルガンの夕べ(Органный вечер)があり、ぜひとも生オルガンの音色を聴きたいと思ったのである。
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ここでもロシア人観光客がおとずれる
ゴーゴリの像
_  凱旋門をくぐって、大モルスカヤ通りを左折し、ネフスキー大通りに出た。左手に文学カフェが見えたので、一度目の旅行のあわただしさを思い出しつつモイカ運河を渡った。ネフスキー大通りを左折して、小コニュシェンナヤ通りに入ると作家ゴーゴリの像があったので、駆け寄らずにはいられなかった。
 ゴーゴリの作品もペテルブルグの町と関係が深い。『肖像画』『鼻』『外套』『狂人日記』そして『ネフスキー大通り』と、のちのちドストエフスキーがパロディに用いる代表的な秀逸な短編は、ペテルブルグを舞台としている。
 この中でも私個人とても夢想したくなるのが『ネフスキー大通り』である。

 ネフスキー大通りよりりっぱなものは、少なくともペテルブルグにはなにひとつない。この都にとってこの大通りはいっさいをなしているのだ。都の花というべきこの通りに輝かしくないものなどがあるだろうか? この都に住む目だたぬ人間たちにしても、また高い位をもったお役人たちにしても、だれ一人としてこのネフスキー大通りを、どんな幸福をもってしても、とりかえようなどとしないだろうことを、わたしは知っている。(〜中略〜)ネフスキー大通りにはいるかはいらないうちに、もう散歩気分になってしまうのだ。なにか必要な、しなければならなぬ仕事をもっていても、いったんここへ足を踏みこむと、もうかならず、どんな仕事でも忘れてしまうだろう。ここは人々が必要にせまられてやってきたり、用件だとか、またペテルブルグ全体を覆うている、あの商売上の利益とかに追いたてられてやってくるようなことのないただひとつの場所なのだ。

『ネフスキー大通り』

ゴーゴリの描写を読むと、ぜひ当地に行ってみたくなるのだ。

 このゴーゴリの像は、まさにネフスキー大通りに面する場所に置いてある。上の短編が書かれたのはゴーゴリが二十代半ばの頃なので、この場所に作家の若き日の姿の像が置いてあるのは、場所柄にふさわしい。しかしながら像自体は比較的新しく、1997年にこの場所にお目見えした。彫刻はВ.М.ベロフ、建築はВ.С.ヴァシリコフスキーの手による。

 像を見つめた後は、小コニュシェンナヤ通りからチェボスク横町に入り、グリバエードフ運河に出た。運河にかかるイターリヤンスキー橋の上では、エレキギターで「ホテル・カリフォルニア」を弾いているミュージシャンがいた。彼の横を通って、私は芸術広場に向かった。

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カッサの入口が見える
国立フィルハーモニー(ショスタコーヴィチ記念フィルハーモニー・大ホール)
 オペラやバレエ、コンサートに関する情報については、最近では出発前にインターネットを利用して把握・予約するのが手っ取り早いようだが、やはり現地の情報の方があてになる。現地での情報は、観光客が宿泊するようなホテルのサービス・ピューローや街角のカッサ(チケット売場)・案内板、そして直接劇場の窓口で得るのが一番だ。(とかいいつつ私は、遅い昼食時に添乗員さんからこの日のエンターテイメント情報を教えてもらって、行きたいと思ったコンサートの情報を得たのだが。)
 昨日のオペラチック・ヴァリアントのヴェルディ『レクイエム』は、ホテルのサービス・ビューローを通したおかげでロシア独特?の外国人料金での観賞となり、(日本で観るよりは安いのだろうが)予想外にお金を費やした。でも今日にあっては、ぜひともロシア人の料金で入りたく思ったので、ボリショイ・ホールのカッサまで足を運んだわけである。
 ロシア人の料金でチケットを買うには、売場で並んでいるロシア人に声をかけて、
Купите мне 1 билет на сегодня.(クピーチェ・ムニエ・アジーン・ビュリェート・ナ・スィヴォードニャ:今日の分のチケットを私に一枚買って)
と言うなり、紙に書くなりして「お願い:パジャールスタ」とつけ加えることを忘れずに、というおすすめに従い、私の後ろに並んでいたロシア人の若いご婦人に頼んでみた。
 ところがやっぱりそう上手くはいかないものである。ご婦人は今夜のチケットを買いに来たのではなく、明日か来週の催しのチケットを買いに来たのであって、私の意図は通じたものの、細かいことが通じなかったのだ。私はご婦人もオルガンの夕べを前提にしていると思い込んでいて、それを自覚するまで3分以上?時間がかかり、それに私の発音のまずさもあった。カッサの窓口の人から「オルガノ?」と何度もいわれて、結局私が「ダー」と返事することになった。もちろんお金は私が払ったのだが、チケットとつり銭は窓口からご婦人を経由して私に渡ったので、晴れてロシア人の料金でチケットを買うことが出来た。料金は80ルーブル! 昨日の『レクイエム』の1200ルーブルとは大違いだ! 私は小声で、ご婦人に「バリショーエ・スパシーバ」と感激してお礼を言った。ご婦人もにっこり「パジャールスタ」と返事してくれた。この顛末を横目に見ていた警備員は眉をひそめていた。
 私一人でも、ロシア人料金で買えたのかもしれないが、一目見てアジア系だと判るし、やっぱりパスポートのコピーの提示を求められる可能性はあるので、こういった場合は駄目で元々でロシア人に頼んでみるべきかもしれない。

 お金の節約のため、またせっかくのホテルのディナー・チケットを使用していなかったので、私は夕食と荷物を置くため一度ホテルに戻ることにした。カッサの傍では、昨日のヴェルディの『レクイエム』からの帰り同様、ラッパ吹きは立派な音を奏で、身内たちと盛り上がっていた。
 地下鉄のネフスキー・プロスペクト駅に行く途中、えっ!?あの娘だ!と思わぬ邂逅に、彼女の姿を振り向きざまに確認しつつ驚いた。そうだ、確かに一回目の旅行の際、ネフスキー大通りにて写真を撮らせてもらったヴァイオリンの彼女だった。前回とほとんど同じ場所で、でも以前のような単純な旋律を何度も繰り返すのでなく、ビートルズのイエスタデイをなだらかに弾いていた。

 ホテルに帰り、空腹な胃袋をウォッカとバイキング料理で一気に満たした。外で食べてもよかったが、ここはお金を節約すべきと思った。夕食を手早く終わらせて、再び地下鉄に乗り、コンサートホールに着くと開演10分前だった。荷物を預けさせられたが、外国人料金が浮いた分を考えるとクロークルームのお金は大した事ないなどと思ってしまった。
 国立フィルハーモニーでの、それもオルガンのみのコンサートは初めてだったので、ただの客であるにもかかわらず少し緊張気味だった。でも、いざ中に入ってみるとなんら仰々しいことはなく、気軽な服装で来ている人もけっこういて、それでいて皆、品があったように思う。開演前や休憩の独特の騒がしさも、どこか心地よいものがあった。尤も周囲はほとんどロシア人なので、話し声の内容など私には理解できないのであったが。
 演奏曲はアンコールも含めて全6曲で、バッハの「トッカータ・アダージョとフーガBWV564」、メンデルスゾーンの「ソナタNo2」で前半、休憩をはさんで、後半はラインベルガーの「アダージョ」で始まり、フランクの「アンダンチーノ」、ジグーの「メヌエット」、アンコール曲で閉められた。
 バッハとメンデルスゾーンの名前くらいしか知らないし、どれも聞いたことのない曲ばかりだったが、オルガンの音色や迫力といい、奏者の卓越した技巧といい、集中して黙々と弾きつづける奏者の後姿といい、いまでも脳裏に焼き付いている。
 奏者はダニエル・ザリェツキー(右の写真の髭を生やした人)で、プログラムにはロシアのみならずヨーロッパでの数多くの実績が載っていた。ぜひ日本にも来て欲しいとか思っているが、日本だったら1F椅子席80ルーブル(大体320円)どころじゃないだろうな……。


ストロガノフ宮殿

 コンサートホールを出た後は、ぜひとも文学カフェ(КАФЕ “ЛИТЕРАТУРНОЕ”)に行きたくなり、ネフスキー大通りをモイカ運河の方へ歩いた。
 途中に日本で妙に名前が知られているストロガノフ宮殿の建物(現在は外資のレストランが入っているらしい)があったので、撮っておいた。一度目の旅行の時は、修復中であったが、現在はきれいなものだ。
 「ストロガノフ」をネットで検索すれば、外交官G.A.ストローガノフ伯爵(1770−1857)にまつわる料理の話があまりにも数多く出てくるので、ここは天邪鬼になって率直な疑問を書きたいと思う。
 ロシアで名を馳せているストロガノフ家は、製塩業などで財を成し16世紀にシベリヤに進出した商人ストロガノフなのか、国庫が空だったことに困ったミハイル・ロマノフ帝から1613年に借金を申しいれられた裕福なストローガノフ一族なのか、それらストロガノフ家とG.A.ストローガノフとの関係(直系?)については、ネットでもよく分からないままなのだ。きっと関係は深いと思っているが…。

 古い旅行ガイドにあった文学カフェの入口にて追い返されたという記述がふと脳裏をよぎったが、文学カフェの入口から2階の席まで案内してくれた髭を生やした男性は親切だったし、とても感じがよかった。
 席に着きさらっと周囲を見回すと、まさに良質な雰囲気というもので満ちている感じがした。このカフェは1835年の開店時は「ヴリフとベランジェの菓子店」といい、1837年プーシキンが決闘の前に介添人ダンザスと落ち合いレモネードを飲んだとか、パナエフ、ベリンスキー、ドストエフスキー、サルティコフ、シチェドリン、チェルヌイシェフスキーなども足を運んだとか、朝から腹の調子が悪かったチャイコフスキーがカフェの生水を飲んでコレラにかかり、その四日後に亡くなったとか、いろんな歴史的な逸話で溢れ、加えて現在の「文学カフェ」というネーミング自体、旅行前の彷徨をもよおさせるものがある。
 しかし、ここを訪れた人がカフェを賞賛する理由は、ロシア人だけでなくいろんな国の人がいる良質な雰囲気に加え、席に着いている人々の話し声に閑静と適度な喧騒が混ざり合っていること、生演奏のピアノと歌姫のマダムが常に客を楽しませ、また客も自ら楽しもうとしていること、そして何より演奏や歌声が客たちの会話にとって障るようなものでないことに、いたく感動・感心するからではないだろうかと、思い返してみて分かったようなことを考えてしまう。

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Лай−лай−ла−лай−ла−ла…
文学カフェの2階(文学の夕べ≠フためのカフェサロン)
緑の笠のランプを支えるのは、勝利の女神ニケ。ちなみに「緑の
ランプ」は、1820年ごろプーシキンが出入りしていた総勢二十名
ばかりの文学の集いである。会では秘密を守り合うことを誓い合
い、会員は緑のランプを型どった指輪をはめていた。文学カフェ
の2階は「緑のランプ」の部屋をモチーフにしているのだろうか。

 それにしても、上の写真のピアノに肱をかけている歌姫のマダムとピアノ奏者のすごいことすごいこと! オペラの名曲からロシア民謡・愛唱歌どんどん飛び出してきて、マダムの休憩中のピアノではクラシック曲のジャズ風のアレンジのオンパレードが炸裂するのだ。ロシア民謡や愛唱歌のレパートリー「黒い瞳(Очи чёрные)」「長い道(Дорогой длинною)」「モスクワは涙を信じない」などに入ると、カフェ中から手拍子が起こり、ノリのよい「カリンカ(Калинка)」「カチューシャ(Катюша)」などが歌われたら、客の中のロシア人が腕を組んで踊りだしたりして、客たちの手拍子も一段と早く大きくなってさらに盛り上がるのだ。実を言うと、レパートリーの最後の方で私もマダムの腕に引かれてピアノの前まで連れていかれ、ロシア式ダンスに興じたのだったが、音程がつかめず足があたふた遅れてお粗末なダンスを披露してしまった。私の遅れた調子はおかしかったみたいで笑い声が起こったが、少し恥かしかったものの演奏が一段落し客たちに向かってマダムと共に一礼すると拍手が起こり、適度に破目を外して楽しむという、いい体験ができたように思えてとてもよかった。それに一度好感をもたれると、マダムに一緒に写真に写ってくださいと頼むにしろ、シャッターを押してくださいと他の客に頼むにしろ、気持ち的に随分と楽になるもので、また私の席のとなりのテーブルにいたドイツ系の旅行者の御夫妻からも気軽に話し掛けてきてくれて、さらにいい体験ができたのだった。話し掛けてくれたいい表情をしたご夫妻は、工業国ルクセンブルク(こういうときこそ、テストのためにしか用いられないような国名について、よくぞ微かな記憶が残っていてくれたと感謝したくなるものだ!)からの旅行者で、お互いたどたどしい英語ながら一生懸命話すと、ご夫妻もロシアや文学カフェを楽しみにしていたことなどいろいろ通じるものであった。
 そんなこんなで、とても刺激的で貴重な体験をしたわけであったが、カフェの中にいた間の半分以上の時間は、絵ハガキを綴りつつ歌に手拍子を送りつつして過ごした。あぁ、あの雰囲気の中でテーブルに肱をつき、気ままに想いにふけり文学カフェで思わぬネタができたと腹の底で喜びながら絵ハガキを書いたり、カフェ内が19世紀の頃だったらどんな感じだったのだろうかと周りに視線を移しつつ思いを馳せたり、何という至福の時だったろう! あの時の緑のランプの光や、紅茶二杯とチョコナッツクリームの味や、歌姫のマダムやルクセンブルクからの旅行者のご夫妻の表情、壁にかけられていた19世紀の風景の版画やア・ベズリュードヌイ作の1830年の「プーシキンの肖像」(摸写?)、流れていた歌声や曲の数々、絵ハガキ、なにかしら物思いに耽ったという記憶……。劇場のレクイエム同様、この日のオルガンの夕べと文学カフェでの印象は、私にとっていつか聴いたヴァントゥイユのソナタになるのかもしれない。
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