Александро−Невская лавра

右にロシア正教の十字架が写っている
修道院内の墓地

 コンサート三昧だった夜が明けた。ツアーの方では、ペテルブルグの中心から西に船で30分のところにあるペトロドヴァレツのピョートル大帝の夏の宮殿に行くプログラムだったが、私は個人行動をすることにした。

 今日一日は大修道院とロシア美術館とプーシキンの家博物館で過ごそうと思っていた。朝食が済むと、昨日と同様にアレクサンドル・ネフスキー大修道院(Александро−Невская лавра)に足を運んだ。
 朝から雨が降っていたので、大修道院の前の広場にあるアレクサンドル・ネフスキーの像は少し離れた所から見ると雨に霞んでまるでシルエットが投影されているのかと思わせるふうに目に映った。
 修道院内までの通路の構内には、信仰の中心地ゆえよく物乞いの子供たちが敷物に座っているのだが、雨の日の午前から座っている子は一人も見かけなかった。私を追い越していく人、すれ違う人、みなロシア人であった。
 ↓の修道院内のトロイツキー聖堂の入口の前で傘をたたんでいると、聖堂を訪れる人、堂内から出てくる人の多くが入口の扉に向って、まず上下にそして右肩、次に左肩と十字を描き、頭を下げていた。
 ギリシア正教やロシア正教では一般的な上→下→右→左の十字の描き方は、上→下→左→右のカトリックやプロテスタントとは異なる。では上→下→右→左の十字の描き方は、どこからきたのか?
 上の写真の右方に写るロシア正教の十字架の墓標で分かると思うが、ロシア正教の十字架の足台は(キリストから見て)右上がりになっている。右上がりの足台の由来は、キリストが十字架にかけられたとき、キリストから見て右側の十字架にかけられていた盗賊が、罪の許しを乞うたことで天国に入ったことから来ているのだ。その右上がりの足台の由来、つまり天国を示す意味から、正教の信者が十字を描く際には、上下の次に先に右肩にふれることになっているそうである。

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雨でも訪れる人は多い
修道院内トロイツキー聖堂
_  昨日も来ているので、御馴染みの聖堂内という気分になったが、やっぱりあの堂内の雰囲気にはジーンとくる。
 堂内にてまず印象に残ったのは、堂内の暗さと僧の祈りの旋律の響きの美しさであった。祈りの旋律と書いたが、聖歌といっていいのだろう。ロシア正教の教会では、ミサの聖歌は天使の声の象徴であるという考えから必ず無伴奏で歌われ、教会での旋律はその場でしか耳にすることができないから、なおさらその場にいることが本当に貴重に思え、旋律の響きの美しさに心打たれるのある。
 私は手のひらサイズのイコンを幾種類か買い、さらに2回ロウソクを買って、ロウソクの少なかったイコンと、祭壇に捧げたりしていた。それから堂内に掲げてある多くの聖書の物語を描いた絵画や信者の人々を見て、改めて正教の儀式というものに対して、宗教文化の違いを認識するのであった。
 信仰の篤い人のなかには、祭壇に向かって床ギリギリまで体を屈めて頭を下げる婦人もいた。ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の第七編の四「ガリラヤのカナ」で、主人公のアレクセイが地面に身体を投げ出して《他界との接触を感じる》場面があるが、あれは本当だなと強烈に感じ、三日前のトレチャコフ美術館のイコンの展示室のルブリョフ『聖三位一体(トロイツァ)』の前でも、周囲に臆することなく祈りを捧げる婦人がいたことを思い出した。旧ソビエト体制で、国家と宗教の関係がこじれたなかでも、なお信仰心を保ちつづけた精神力の強さを垣間見た気がした。
 雨にもかかわらず訪れた信者の中には若い人も多くて、この場にあっては世代による信仰離れは実感できなかった。
 堂内ではいろんな光景を目にすることができたが、思わずに笑みを浮かべてしまったこともある。立派な髭をたくわえた僧が、祈り言葉を口にしながら乳香を振りまきつつ堂内を回っていたところ、信者たちが通路を塞いでいたことで立ち往生し困ったのだ。さすがに少し退いてと言うわけにはいかないので、それに気づいた傍の人が、イコンに祈っている婦人に諭したのであるが、私はやっぱり僧も人間なんだなぁと思ったりした。
 10時近くになったので、修道院内のチフヴィン墓地に行こうと堂内から出た。すると、聖堂の鐘楼の鐘が鳴り出し、その音の大きさに驚くと同時に荘厳な音色に何ともいえない感動を覚えた。まるで映画『アンドレイ・ルブフョフ』のラストで流れる鐘の響きのような感じだったのである。ひょっとして堂内で何かが始まるのではと思った私は、もう一度堂内に入った。
 堂内では典礼が始まるところだった。イコノスタス(聖障)の聖所への門が開き、そこで高位の僧が豊かな韻律でもって祈り始め、イコノスタスの前の私服の男性四人が、僧の歌声に合わせてアカペラの調子できれいな響きを堂内に轟かせた。信者たちは思い思いの場所に立ち、歌声に合わせて祈りをささげていた。私はとても貴重な儀式に立ち会っているのでは?と思いつつ、間断なくつづく儀式を見守っていた。

 後で知ったのだが、このネフスキー大修道院は、東京神田駿河台の「ニコライ堂」の名前で有名なロシア正教の宣教者ニコライ・ヤポンスキー(1836−1912)の主教叙任式(1880年3月30日)が執り行なわれたところでもあったのだ。主教への昇叙はニコライが望んでいたものかどうか分からないが、ニコライ自身は日本での財政難を何とか打開するためのペテルブルグとモスクワでの募金活動を行なう足がかりのつもりもあったのかもしれない。
 叙任式のため一時帰国していたとき、ニコライはモスクワでドストエフスキーの訪問を受けた。ニコライがドストエフスキーについて残した日記はほんのわずかなものだそうだが、日本とロシアとが正教と文芸作品でつながるような貴重なエピソードなので、私としてもとても興味を惹かれる。

 ネフスキー修道院内には墓地もあって、有名なのがラザレフ墓地とチフヴィン墓地である。なかでもチフヴィン墓地は音楽家や作家などが埋葬されていて、訪れる人が多いスポットだ。
 この日は雨だったので、訪れる人もまばらであったが、その分静かでゆっくり故人たちを詣でることができた。

 右の墓は『ロシア国家史』や小説『哀れなリーザ』などで有名なニコライ・カラムジン(1766−1826)の墓。カラムジンはプーシキンの生涯にも大きな影響を与えた。

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 おなじみドストエフスキーの墓。作家の墓に再会できて、また再びロシアに来られてよかったと思った。
 墓についての詳しい蘊蓄についてはこちら
 雨が降っていると、どうしてもフラッシュが反射してしまう……。
 「ロシア音楽の父」といわれる作曲家ミハイル・グリンカ(1804〜1857)とその姉か妹のシェスタコヴァの墓。グリンカはオペラ『イワン・スサーニン』で有名だが、その内容は17世紀の動乱時代を舞台に自らの命を犠牲にしてポーランド軍からミハイル・ロマノフ帝を救った英雄的な農民を描いた作品だそうだ。この作品は「皇帝に捧げし命」という題ももっていて、ニコライ1世は「皇帝の〜」の方の題を気に入っていた。グリンカがニコライ1世から題名を変えるようにと命じた説は、グリンカの回想録には無いそうだ。
 グリンカの作品は他にも、オペラ『ルスランとリュミドラ』、ロシア民謡に基づいた管弦楽曲『カマリンスカヤ』などがある。
 作曲家ミーリ・バラキエフ(1837−1918)の墓。名前とグリンカに作曲を学んだとかぐらいしか知らない…。

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