ТРЕТЬЯКОВСКАЯ ГАЛЕРЕЯ

ウラジーミルの聖母 『ウラジーミルの聖母』(1100年頃)78×55cm
(モスクワ,トレチャコフ美術館の教会ミュージアム)

展示場所の入口は少し分かりにくいので、チケットを買ったら
すぐ職員さんに場所を たずね確かめた方がいいと思います。
 母のもつ愛と慈しみの面が強調されたこの聖母のイコンは,ギリシア語でエレウーサ,ロシア語でウミレーニエと呼ばれるタイプに属している。聖母マリアは来るべき運命を予知し,悲しげに顔を曇らせながらわが子に頬を寄せている。幼子イエスは,母の首に片方の手を掛け,もう一方の手でマリアの頭巾の端を持ち,無邪気に甘えるような仕草で母を見上げている。聖母の頭巾の中央と胸のあたりに,神の母のしるしの文様が飾られている。このイコンは数世紀にわたって加筆されてきたが,1918年12月に修復家キリロフがこの加筆された部分を取り除き,原初の状態に戻した。そのときにオリジナルの部分として残っていたのは,聖母とイエスの顔だけであった。聖母の顔には,くすんだオリーヴ色から明るいオリーヴへと微妙に移り変わる陰影法と,光の象徴である白が細い鼻筋に用いられている。このイコンは,12世紀の10年代にビザンティン帝国からキエフ・ルーシに贈られたといわれている。初めはヴィシゴロドにあったキエフ大公の館に安置されていたが,1153年(または1155年)にアンドレイ・ボゴリュープスキー公によってウラジーミルに運ばれ,以来《ウラジーミルの聖母》と呼ばれるようになった。1161年にウラジーミルのウスペンスキー聖堂に収められ,奇跡力をもつこのイコンの祀られた大聖堂への巡礼が盛んとなった。1185年のウスペンスキー聖堂の大火,1237年のタタールの戦禍を免れたたかどうかの論議も残っている。  (濱田康子)
小学館『世界美術大全集6』p424

とまあ、いきなり引用してしまうのだが、私はやっぱりトレチャコフ美術館(Третьяковская Галерея)はモスクワだけでなく、ロシアで最高の美術館ではないかと思う。(もちろん、サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館と比べようなんて思わない。その比較は成立の過程からして、根本的におかしいだろう。)

 雀が丘のあとの遅い昼食はロシアの水餃子「ペリメニ」を食べたのだが、トレチャコフ美術館が私を待っているので味もなにもなかった。食事中、現地ガイドのリューバさんとロシア美術の話ばかりしていた。

 食後、レーピン広場の前を歩いている間も19世紀の絵画について喋り倒した。レーピン像を見て、興奮しているのは私だけだった。添乗員さんには夕食をカットして一人閉館までいたい、ホテルには自分で帰ると言っておいた。
 美術館には三時間以上も居られればそれで満足だ。なぜなら作品に体力と命を吸い取られてしまうからだといっても過言ではないからだ。
 今回の目標は、自分の無知で前に見れなかった『ウラジーミルの聖母』に出会うこと、アンドレイ・ルブリョフ、フェオファン・グレーク、ディオニーシーその他のイコンや装飾品をじっくり見ること、トレチャコフ国立美術館の名前の由来であるパーヴェル・トレチャコフが惜しみなく援助した19世紀の美術、クラムスコイ作品だけでなく、ペローフやレーピン、ロセンコ、アルグノーフ、ボロヴィコーフスキイ、トロピニン、アレクセーエフ、シチェドリン、キプレンスキー、ブリュロフ、イワノフ、フェドートフ、プーキレフ、ヤロシェンコ、マコフスキー、サヴラーソフ、クインジ、ゲー、ヴェレシジャーギン、ポレノフ、クズネツォフ、レヴィターン、ネスターロフ、セロフ、そしてアイヴァゾフスキーとワシーリェフその他、目的の絵画を見ることだった。(館内は撮影禁止だったので画像は限られたものになります…。)
 上の『ウラジーミルの聖母』(以下『聖母』と記す)がある教会ミュージアムには → の『聖三位一体』の複製もある。ルブリョフの『聖三位一体』のオリジナルは博物館の方に厳重に安置されている。
 上の『聖母』はやはりロシア正教を信仰する人々や、イコン愛好家ぐらいしか見に来ないが、見に来ている人は一心不乱に『聖母』に祈りを捧げていた。『聖母』はもちろん厚い強化ガラスで覆われているのだが、ガラスの上から触れることはできる。正教徒でもない私だったが、ここは心を込めて『聖母』に触れさせてもらった。『聖母』は見れば見るほど不思議な光を放っていた。教会ミュージアムを一通り見てからも、『聖母』には幾度も近寄って見てみたくなるのだ。それは『聖母』が国家的なイコンという理由からだけではない。この『聖母』の美しさは、正教徒以外の人間をも心を動かせるものがあると思える。慈愛に満ちているもののどこか哀しげな聖母マリアの表情は、人間の心の憂いだけでなくこの世の憂いまでもを見透かしているような気がするのだ。
 『聖母』を最初に描いた人はどんな人だったのだろうか。私はひょっとして罪を犯してから、相当な苦悩にあえいだ人が描いたのではないかと想像している。

→ の『聖三位一体(トロイツァ)』は、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『アンドレイ・ルブリョフ』でもおなじみのА・ルブリョフ(1360〜70年頃−1430年1月29日(露暦))の手によるイコンである。このイコンも国家的イコンであるし、世界のイコンのなかでも最高傑作の一つだろう。

ルブリョフのイコンは、他にも10枚近く展示されている。 アンドレイ・ルブリョフ『聖三位一体』(1411/22〜27年)
142×114cm(モスクワ,トレチャコフ美術館)
 旧約聖書のなかで三人の天使が、ユダヤ人の始祖アブラハムとサラを訪れた話が、正教会では三位一体の顕現であると解釈されていて、だからこのイコンは「アブラハムの饗応」と呼ばれる。しかしイコンにはアブラハムは描かれていなく、父なる神(左)・子なる神キリスト(中央)・精霊(右)と、キリストが捧げた犠牲を意味する「聖杯」によってのみ神話的主題を表現している。いたってシンプルなので、なおさら見る者を思索へと導くのだと思える。
 イコンはタタールの襲来後に再建されたトロイツェ・セールギエワ大修道院の2代目修道院長ニーコンの命を受けたルブリョフが、創建者である聖セールギーのために制作したといわれている。
イコンは他にもたくさん ノヴゴロド派『ノヴゴロドの住民とスーズダリの住民
の闘い。聖母のイコンのしるし』(15世紀中頃)
(モスクワ,トレチャコフ美術館)

 ルブリョフのイコンは館内に『聖ヨハネ』『聖ペトロ』『大天使ミハイル』『救世主』などサイズが約160×110cmクラスのイコンも展示されている。他にも、数こそ少ないものの、ルブリョフに影響を与えたフェオファン・グレーク(ギリシヤ人テオファネスとも。1340頃−1410頃)の作品『キリストの変容』(14世紀末)や『ドンの聖母,聖母の眠り』(14世紀末)もあれば、ルブリョフの作品から熱心に学んだディオニーシー(1440頃−1503頃)の『モスクワ府主教アレクセイとその生涯』(1480〜90)もある。

 ノヴゴロドからモスクワにやってきたフェオファンは、14世紀末から15世紀初めにかけてモスクワのイコンに大きな影響を与えた。フェオファンをリーダーとするこのときの制作メンバーのなかに、ゴロジェツ出身の長老プロホール、その末尾にアンドレイ・ルブリョフの名があった。
 ルブリョフが制作活動を行なったのは、ちょうどモスクワがタタールとの戦いに初勝利を挙げた(1380年)後ぐらいで、民族意識と正教徒としての意識が最も高揚した時期でもある。ルブリョフは、フェオファンを通じて、ビザンティン世界について多くの知識を得たし、また、ビザンティン・イコンや壁画の伝統的な技法を学んだ。
 (話が前後するようでなんだが)14世紀半ばのロシア(ルーシ)は、まだモンゴルの支配時代にあたる。しかしノヴゴロドのイコンにあっては、ビザンティンの伝統から離れはじめた。フェオファンが1470年代にノヴゴロドに招かれたのはその時期である。その後の15世紀から16世紀のノヴゴロド派のイコンは、フェオファンのタッチからヒントを得つつ、明快な輪郭線、鮮やかな色彩と簡潔な表現へと向かい、斬新な作風を作り上げた。

 ↑ の作品もその典型的な特徴がもっともよく現われている作品だと思える。

 なにやら、ごちゃごちゃ書いてしまったが、ようするにタルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』に脇役で登場するフェオファンって本当はすごいイコン画家だったのだ!といいたいのだ(笑)

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 あと、食入るように鑑賞したのが、19世紀後半のロシア美術である。この時期の画家については多くを語ろうにも多すぎて語り尽くせない。私にとってはなにもかも最高だ…。

ううっ、やっぱりモスクワに来たからには、あなたに逢わなければ!!
И・クラムスコイ『見知らぬ女』(1883)75.5×99cm
(モスクワ,トレチャコフ美術館)

 今回は、И・クラムスコイのことを書いた本のほかに、19世紀ロシア移動美術展派にも属していたレアリスム絵画の巨匠レーピンの回想録『ヴォルガの舟ひき』(中公文庫,1991)を読み、19世紀前半・後半の美術を全般的に知ることができる本や、ネット上の情報を集めて行った。
 私にとって19世紀ロシア美術は、ドストエフスキーやレフ・トルストイ、プーシキンといった作家たちを読むうちに、いつしかはまりこんでしまう対象となった。たとえばドストエフスキーの詳しい年譜(全集の別巻など)を見ていても、19世紀後半のロシア画家の名前が多く出てくるし、作家たちと画家たちとは決して遠い付き合いではなかったことが、記録から知ることができるのだ。
 19世紀ロシア美術の特徴というか、ロシアの絵画全般にいえることかもしれないが、ロシアの絵画にはどこか抑えた色調という特徴が挙げられる。なんというか、私にはその色彩感覚がとても良く合うし、また19世紀の画家たちは後世の評価は別にして、自由を探し求めようとする気風と若さがほどばしりでているようで、でもモデルや風景に対して決してするどい観察力を失わないその描写力には毎度舌を巻くのだ。どの画家の絵も私に感動を呼び起こしたが、やっぱり『見知らぬ女』や『月の夜』『レフ・トルストイの肖像』『荒野のキリスト』などの傑作が展示されているクラムスコイの間に真っ先に足を運んでしまった。トレチャコフ美術館を訪れる機会があるなら、彼女と絶対に再会するのだ!という思いだった。

 楽しみにしていた画家の絵にФ・ワシーリェフ(1850−73)の絵画があった。この人のことは、上述の回想録『ヴォルガの舟ひき』(中公文庫)の中で、著者のレーピンが、いつもワシーリェフから絵画のことについて本当のこと≠言われいらだちつつ、羨望を覚えつつもその才能に敬意を表していたので気になっていた。1870年レーピンとワシーリェフらはヴォルガを旅した。その時のことを著したレーピンの回想録の中のワシーリェフは、とても生き生きと描かれている。
 彼は肺を病んで早い死を迎えてしまったが、私は彼の作品を見て、早世した分カンバスに自分の持っている才能と技量を余すところ無くぶつけたのだと思えた。彼の作品でとりわけ知られているのは、『雨上がりの草原』

近くで見ると、ただ筆を乱雑に押し付けただけにしか見えない~不思議だ…
Ф・ワシーリェフ『雨上がりの草原』(1872)70×114cm
(モスクワ,トレチャコフ美術館)

だろう(なお↑の本当の絵は、左にもう少し長い)。まるで雨雲が足早に流れていくように見えるのだ! 他にも『秋の森』などが展示されていた。
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ドストエフスキーは移動展派の美術を酷評したこともあるが… В・ペロフ『巡礼者』(1870)
88×54 cm
(モスクワ,トレチャコフ美術館)
 19世紀後期のロシア美術のなかには、批判的レアリスムというものもあり、その代表ともいえるのが、В・ペロフ(露暦で1834.12.23−1882.5.29)という画家で、彼は移動美術展協会の発起人の一人でもある。彼の作品で日本でおなじみのものは新潮文庫の表紙になっている「ドストエフスキーの肖像」(1872)だと思う。あの作品はドストエフスキーの物静かな体(てい)の中に潜む、大いなる苦悩が感じられる傑作である。もちろん「ドストエフスキーの肖像」もトレチャコフ美術館の「ペロフの間」に展示されている。(ちなみに「ドストエフスキーの肖像」はその依頼主のパーヴェル・トレチャコフが、600ルーブル払ってコレクションに入れた(1872年5月)。そののち、ドストエフスキーはペロフの家に招かれているし、二人はトレチャコフ画廊にも足を運んでいるようである(1872年10月)。肖像画の制作をきっかけにしてペロフとドストエフスキーに交流が生まれたといえるだろう。)
 左のペロフの筆による『巡礼者』(1870)は、その後のドストエフスキーが長編小説『未成年』(1875)を執筆し、そのなかで登場する巡礼者・老マカールの人物創造の上で、大きな影響を与えている可能性が高い作品である。ドストエフスキーは『未成年』のなかで「ロシアの民衆は一般に放浪性があるのです 」とまで書いているぐらいだから、作家がこの絵を見たとき、何かとてつもなく感じるものがあったのだろうと思える。
 『未成年』を偏愛する私がこの絵の存在を知ったのは、これまたマイナーな『新潮世界文学14 ドストエフスキーX「未成年」』という一巻本の解説を見たときだった(なお新潮世界文学14の解説にある分の写真は転写の際の問題で、反転になった状態で刷られているようです)。この絵はどこにあるのだろう、と気になっていたが、幸いにもトレチャコフ美術館にあった。絵はあまり人目を惹くことも無いのか、傑作『トロイカ』(1866)から作品を一つ挿んで左斜め上に掲げられてあった。私は絵をじっくり鑑賞しながら、この絵と出会ったときの作家の心境を想像してみた。私は、ひょっとして作家がこの絵を見てから、爾来、民衆や読者ともっとよく対話しようと漠然と決意したのではないかと勝手ながら想像している…。
 このページの参考図書は こちら画集は運ぶのに重いですが、ぜひ見ていただきたい!

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