ТРЕТЬЯКОВСКАЯ ГАЛЕРЕЯ

 現地ガイドのリューバさんから団体チケットの半券を渡してもらい、おかげでトイレに不自由することもなく、一人閉館間際まで居ることができた。館を出る前にもう一度イコンと19世紀美術のセクションを訪れた。
 館内の売店は充実していたが、欲しい絵葉書はほとんど売り切れていた。画集は、アイヴァゾフスキー、レーピン、ペロフ、クラムスコイの分を一冊ずつ買った。内容の充実度の割に、日本で売っている一般的な画集よりも安価だった。館を出た後はカメラをもって美術館のまわりをうろついていた。

 ここで簡単に美術館の先駆けとなった画廊をつくったパーヴェル(1832.12.27−1898.12.16)と、弟セルゲイ(1832−1892)のトレチャコフ兄弟や美術館について書いておきたい。
 パーヴェルは亜麻布商の富豪の子として生まれたが、彼が美術に開眼するきっかけは、結婚であったに違いないといわれている。彼が19歳のとき結婚した相手であるヴェラ・マーモントヴァは聡明な女性で、彼は彼女を通じて彼女の伯父の実業家サーヴァ・マーモントフと親しくなる。実はこのサーヴァ・マーモントフは芸術コロニーの創設者だったのだ。ただ、その後の芸術の擁護や美術品収集にあたっては、トレチャコフ、マーモントフ各々の個性で行なっているようだ。
 19歳のパーヴェルがモスクワ市内に大きな屋敷を構えたとき、インテリア・デザインを整えなければという使命≠ノかられたようだ。パーヴェルは壁面をイコノスタシス(※)の雰囲気を損なわせること無く、ロシアの画家の筆による絵画で飾っていった。

パーヴェル・トレチャコフ像
イコノスタシスとは、宗教をベースにしたイコンを部屋の壁面に掛けるという、ロシア建築の内部空間で支配的な象徴のこと。)
 ちなみにこの頃の権威ある価値観では、西欧の古典的な巨匠の作品が尊重され、ロシアの現代美術は収集すべき価値を認められてはいなかった。最初の頃、パーヴェルは当時の収集家がよくやるようにオランダ絵画を集めていたが、次第に彼がリアルタイムで関わった19世紀後半の移動美術展派の画家たちを援助し、彼らの作品を積極的に購入した。また時評で評論家の評価が分かれたロシア美術作品をも分け隔てなく買い入れた。そんな彼の姿勢は、のちに収集家としての大きな功績つくり、多大な評価を生み出すことになる。

建物の外装の設計は画家ヴィクトル・ワズネツォーフ(1848−1926)
トレチャコフ美術館の正面玄関。民族風で個性的な正面玄関である。

「私は……国民のためのギャラリー(美術館)として残したいのです。……絵画を讃美し熱烈なるその愛好者である私にとって、すべての人びとが利用でき、楽しむことのできる、公共の所有になる、広く開かれた美術品の保管施設を設立すること以上の望みはありません」
パーヴェル・トレチャコフの言葉(“The Tretyakov Gallery”,Moscow,1976)

 たった二点の作品の購入から始まった画廊は、国や市の協力を得て後に美術館に姿を変え増改築もほどこされ、他の美術館の作品も吸収し、現在は七万点に及ぶロシア美術の大コレクションを大切に保管する美術館になった。七万点に及ぶ作品の内、トレチャコフ兄弟の原コレクションの寄贈作品は、ロシア美術に限れば約千八百点だったそうだ。兄弟亡きあとは、美術館の発展と並行して、中世のイコンやソビエト美術の充実が図られた。
 生前、トレチャコフは集めた作品が民間のコレクションであることの誇りをもっていたようで、美術館を設計したヴァスネツォーフは、彼のことを「芸術の保護者ではなくて、公益を目指すまじめな労働者だ」と繰り返し主張していた。また、美術館開館直後、美術館を見学した皇帝ニコライ2世は、ロシアの歴史を尊重し、民衆と芸術を近づける美術館の試みとコレクションの哲学に感服し、弟セルゲイ・トレチャコフに爵位を与えようとしたが、トレチャコフはそれを丁重に断り、「私は一人の商人として生まれましたので、一人の商人のまま死んでいきたいと存じます」と言ったという。
美術館の前の通りは、ラヴルシンスキー通り
美術館の前での一枚。ロシア人には馴染みの場所であるようだ。
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 美術館を出ると、青空に雨雲がかかるというとても印象的な空模様になっていた。ときどき雨がパラついたが、運河を渡ったところにあるレーピン広場を散歩した。広場はどちらかというと公園なのだが、よく整備されていて、ベンチではロシア人のカップルが互いを厚く抱擁しあっている姿がほほえましかった。

中央左にピョートル大帝が乗った帆船の船尾が見える
ヴァダーオトゥヴォドゥニィ運河の橋から南西の方向の眺め。

イリヤー・レーピンはロシアレアリスム絵画の最大の巨匠。 レーピン広場はとてもゆったりした広場だった。
 近代・現代のロシア出身の画家で世界的に有名なのは、シャガール(白ロシア・現ベラルーシ共和国出身)とカンディンスキー(モスクワ出身)だろう。しかし、ロシアで最も尊敬されているのは、日本ではあまり知られていないイリヤー・レーピン(1844.8.5−1930.9.29)であるといっても過言ではない。レーピンはロシアのレンブラントといわれるほどの巨匠で、ロシアでは最大の画家の一人といっていい。レーピンの絵のために、トレチャコフ美術館では広い「レーピンの間」が二部屋、サンクト・ペテルブルグのロシア美術館では三部屋以上設けられ、ペテルブルグの芸術アカデミーは現在、国立レーピン絵画彫刻建築大学という名前になっているぐらいだ。
 彼は移動美術展派に参加して、多くのレアリスム絵画や大作だけでなく、肖像画もすぐれたものをたくさん描いた。またアカデミーなどで後進の画家たちへの教育に携わり、さらに膨大な書簡や回想記『遠くて近いこと』なども残していて、文筆力でもその才能をいかんなく発揮した。
 彼の描いた肖像画のなかには、『ムソルグスキーの肖像』(1881)、『パーヴェル・トレチャコフの肖像』(1883)、数枚の『トルストイの肖像』といった作品もあって、なかでも『ムソルグスキーの肖像』は作曲家が逝去する約10日前に画家が病院を訪ねて描いたエピソードでも有名である。レーピンの絵は卓越した写実力をもちつつも、誇張がなく、まるでモデルが目の前に居て息遣いが感じられるようである。(『世界美術大全集21』(小学館)などに図版は所収されている)
 そんな彼を記念して↑の広場は「レーピン広場」と名づけられたのだろう。左手にパレットとその上に数本の絵筆を乗せたレーピンの像は勇壮で知的な雰囲気をかもしだしていた。

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