Александро−Невская лавра

右からモデスト・ムソルグスキー(1839−1881)、アレクサンドル・ボロディン(1833−1887)、ツェーザリ・キュイ(1835−1918)、左にチャイコフスキーの墓。写っていないが写真の右方にはリムスキー=コルサコフの墓がある。彼らはみな作曲家である。
 チフヴィン墓地には、ロシアの作曲家「五人組」グリンカ、ボロディン、ムソルグスキー、バラキエフ、キュイが仲良く埋葬されているのだ。ムソルグスキーはオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』、ピアノ曲『展覧会の絵』、歌曲『蚤の歌』を残し、ドビュッシーに大きな影響を与えた。ボロディンは化学者と作曲家といった特異な才能の持ち主で、「五人組」を結成に一役買った。作品には未完ではあるがオペラ『イーゴリ公』がある。
 左はロシアが世界に誇る大作曲家ピョートル・チャイコフスキー(1840−1893)の墓。墓地内で最も目立つ墓碑である。墓碑は1897年彫刻家カメンスキーによる。
 チャイコフスキーはグリンカを敬愛していたが、「五人組」とは一線を画していた。チャイコフスキーの業績は、バレエ『白鳥の湖』、バレエ『眠りの森の美女』、バレエ『くるみ割り人形』、オペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』、オペラ『スペードの女王』、交響曲第6番ロ短調『悲愴』などなど、数多い。

 右は、ピアノ奏者・作曲家アントン・ルビンシテイン(1829−1894)の墓。ユダヤ人の子として生れ、1840年にはパリでリストに師事し、演奏活動で名を馳せた。当然、「五人組」やチャイコフスキーとも交流が厚く、また画家のクラムスコイとも交流があった。1862年ペテルブルグ音楽院を創設して、ロシア音楽界の水準を高めるために貢献した。なお、弟のニコライ(1835−1881)もピアノ奏者で、1866年にモスクワ音楽院を創設し、門下にザウアーやシロティがいる。

_  左はイワン・クラムスコイ(1837−1887)の墓、右はアレクサンドル・イワノフ(1806−1858)墓で、二人とも19世紀のロシアを代表する画家だといっていい。
 クラムスコイについてはロシア美術館の頁でふれたい。
 イワノフはイタリアへ留学し、ほぼそこで芸術創造にすべてを打ち込んだ。イタリアでは作家のゴーゴリとも親交があり、ゴーゴリとは男色関係にあった可能性があるそうだ。イワノフはゴーゴリをトレチャコフ美術館にて存在感を誇る540×750cmのカンヴァスの傑作『民衆の前に現われたキリスト』(1837〜57)のなかでも登場させている。イワノフは『民衆の前に現われたキリスト』にすべてを注ぎ込んだといっていいかもしれない。まるでプルーストの『失われた時を求めて』の制作を過程みたいに。
 『民衆の前に現われたキリスト』やイワノフの存在は、帝政ロシアの役人たちを焦らせ、また後のロシア美術界に大きな影響を及ぼした。政府は作品のキリストを皇帝にとって代わるものとして、帝政ロシアを打倒するプロパガンダを見出したので、必要以上に危険視したのである。後世のロシアの画家たちは批判的レアリスムを開花させる起爆剤的なものを、『民衆の前に現われたキリスト』に見出した。
 左に風景画家イワン・シーシュキン(1832−1898)の墓、右に風景画家アルキップ・クインジ(1842(?)−1910)の墓。
 シーシュキンは風景でもとりわけ森林の美しさや力強さ、そして静けさを描いた画家で、ロシアでも大きな人気がある。私が好きな作品はトレチャコフ美術館蔵の『ライ麦畑』(1879)、『日に照らされた松の木』(1886)、『森の朝』(1889)である。『ライ麦畑』は映画『誓いの休暇』の田舎の場面みたいで印象に強く残っている。彼は移動展派で活躍した一人でもあり、クラムスコイたちとともに活躍した。
 クインジの風景画はロマンに充ちている。もしロシアの美術館に足を運ぶ機会があれば、この人の絵は一見すべきといってもいい。ペテルブルグのロシア美術館蔵『ドニエプル川の上の月』(1880)(この絵は同じもの(習作?)がトレチャコフ美術館にもある)、『秋の岐路』(1872)、『虹』(1900−1905)や、モスクワのトレチャコフ美術館蔵の『ウクライナの夜』(1876)、『ドニエプルの朝』(1881)、『白樺林』(1879)、『雨上がり』(1879)で、特に『ドニエプル川の上の月』は人間業とは思えない本当に驚愕する。
 クインジは海洋画家アイヴァゾフスキーを敬愛し、クラムスコイやレーピンらからも影響を受けた。ただ、移動展派からは一線を画していたようで、絶頂期に自分の絵を展覧会に出すことをためらったりしている。
 画家の墓については、『少佐の結婚申し込み』(1848)で有名なパーヴェル・フェドートフ(1815−1852)の墓もあったが、画像がぼやけてしまったので載せられなかった。

 私の関心を惹いた人物の墓は、プーシキンの姉オルガ・パヴリスチェヴァの墓だった。尤も関心を覚えたのは、プーシキンの姉だからというミーハー根性が多かったからかもしれない。オルガは弟について回想録も残しているそうだ。
 そのオルガの墓が右の写真だと思うのだが、自信がない。(もし正真正銘のオルガの墓をご存知の方、お知らせください。)

 チフヴィン墓地内にざっと1時間居た。普通こんなにじっくり居ることはできないと思う。ほとんどの人は、チャイコフスキーとドストエフスキーの墓を見れば、すぐに墓地を後にする。
 雨が降っていたので、写真日よりではなかったし、訪れていた人も少なかったが、人気(ひとけ)のない雨の日の墓地だからこそ、いろいろと思いを馳せることができたと思う。
 あと帰国してから思ったのだが、墓地にいく目的は偉人たちを詣でるだけでなく、墓碑のデザインを楽しみに行くという要素もあるような気がする。偉人たちの生前の業績を偲ばせる墓碑や、業績のことを意識せずにいたってシンプルな墓碑など、さまざまである。墓碑もやっぱり芸術作品なのだと感じるのである。

 チフヴィン墓地を後にして、地下鉄の駅に向かった。昼になってもネフスキー修道院の門に物乞いの子供たちはいなかった。
ファザードの2頭の白い獅子像が特徴
ロシア美術館
 芸術広場に着いた。雨の日ではさすがのプーシキン像の前でも訪れる人はまばらであった。さっそくロシア美術館に入ったが、入場料があと3ルーブル足りなかったので、広場の南側の両替所にて少し悪いレートで両替をしなければならなかった。
 入場料は外国人料金240ルーブル(2003年6月現在)だった。入場券一枚くださいと言ったの発音がおかしかったのか、カッサのマダムがにこやかに「スコーリカ・ストーイト・フハドノーィ・ビリェート」と鸚鵡返しに私に返事したので、私も少し照れた気分になった。大きめのお札と端数分のお札を渡して、「おつりくださいな」と頼むと、ちょっぴりお茶目なマダムが「ごめんなさい、お釣は出せません」とイタズラっぽい笑みを絶やすことなく言うので、私も思わず噴いて笑ってしまった。おお!マダム!私はロシア人から冗談を言われたのは生まれて初めてだ! なんか嬉しいではないか! このカッサでのことは、私のロシア美術館に対して覚えた良き印象に一役も二役も買っている。
 ЭКСПОЗИЦИЯ(展示室)というロシア語の意味が分からず、ロビーに居たロシア人の若い子の言われるままに一旦外に出たりしてしまったが、なんとか展示室への階段が分かった。(よく見ればЭКСПОЗИЦИЯの表示の向かいに、EXHIBITION ROOMの文字があったのだが……)

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