Русский музей

聖ゲオルギウスのイコンは他にも
『聖ゲオルギウスの龍退治』
ノヴゴロド派(15世紀末−16世紀初頭)
 入館まで手間どったが、館内では充実した時間を過ごせたと思う。
 サンクト・ペテルブルグのロシア美術館は、こちらでもふれた通り、もとはアンピール様式のミハイロフ宮殿である。実際に中に入ってみると、正面階段や食堂の間や白の間という名の部屋や、宮殿の設計者ロッシの手によるオリジナルの家具などなど宮殿そのままであった。
 だが、エルミタージュ美術館とは全然雰囲気が異なっていた。私個人は、エルミタージュは百科全書っぽく豪奢で訪れる人を魅了するが、同時にごちゃごちゃした感じを覚えるのに対し、ロシア美術館はいかにも宮殿なのにシンプルで空間が贅沢に使用されていて居心地がよいという印象を持った。これは美術館としての機能の問題かもしれない。私はロシアの美術館で、その機能をフルに生かしているのは、やはりモスクワのトレチャコフ美術館が一番で、その次にペテルブルグのロシア美術館、その次がエルミタージュだと思っている。

 ロシア美術館は、1895年にニコライ2世がミハイロフ宮殿を「アレクサンドル3世ロシア皇室美術館」として国有財産として提供すると決めたことから始まる。先帝アレクサンドル3世は「私はしばしば、そして真剣にペテルブルグにロシア美術の美術館を建設する必要性を考える。モスクワには、たとえ私営だとしてもすばらしいトレチャコフ美術館が存在する。それが街を完成させたと聞いた。我が街にはなにもない」と語ったそうで、その意向をニコライ2世が引き継いだ形になるのかもしれない。だが、トレチャコフ美術館の対抗馬として運営が始まったというより、専制政治が揺らぎ始めた時代の最中だから、民衆に対して皇帝自らロシア民族主義的なものをアピールする必要があったともとれる。民衆の心をつかむのに皇帝の威光と芸術の力を活用したと私は考えている。
 ロシア美術館の展示品は、もともとのコレクションに加え、エルミタージュにあったロシア絵画、テニショーヴァ公妃のコレクションや、史学者で収集家リハチョーフのコレクション、美術アカデミー、アニチコフ宮殿、ガッチンスキー宮殿、マーブル宮殿などにあった作品が、公の力でもって集められた。ロシア革命後はロシア・アヴァンギャルドの作品が補充・拡大された。美術館は第二次大戦で爆撃に遭ったが、エルミタージュ同様、展示品・収蔵品は保護された。大戦後、館の修復は続き現在に至っている。

『大天使ガブリエル(黄金の髪の天使)』
キエフ派、12世紀、板、テンペラ、49×38.8cm
 ロシア美術館のイコンの展示室に足を踏み入れた時は、不勉強なこともあったし、展示されている作品となんらかの強烈なつながりを見出せるイメージ(たとえば映画『アンドレイ・ルブリョフ』や、歴史的動乱に巻き込まれたエピソード)などがなかったので、館内のイコンに対して強烈なイメージは得られなかった。
 しかし、そのおかげでかえって冷静になって作品を見れたと思う。たとえば左の『天使ガブリエル』のイコンなど、歴史的には『ウラジーミルの聖母』と近いころに制作されたのに、顔全体がイコンにしては素描に近いし、とくに独特の目の形や髪の毛に至っては立体的に描かれている。イコンは天国と地上の窓を象徴するものであっても、作品によっては多様性を見出せると思うのだ。
 館内にはアンドレイ・ルブリョフの作品も数点展示されていた。対になっている『使徒ペテロ』と『使徒パウロ』(ともに縦3m以上・横1m以上)もあり、聖堂の高いところからでも見えることを目的に制作したことなども窺える。
 ボリスとグレープはロシアで初めての聖人で、いまも信仰を集める対象となっている。
 時は11世紀初頭、ロシアにキリスト教を導入したキエフ大公ウラジーミル1世には11人もの息子があり、ウラジーミル1世の死後、長子スヴャトポルクが後継者として一切の支配権を握ろうとした。そのためスヴャトポルクは多くの兄弟を亡き者にしようとし、最初の犠牲者として20歳にも満たないロフトフ公ボリスを選んだ。
 ボリスは強い武将であり高い評判も得ていたが、反抗することはせず、1015年従容として死についた。ボリスの死から数日後に同じように無抵抗主義を守って弟のムーロム公グレープも犠牲になったとされている。ボリスとグレープの死については、おかしなところもいくつかあるのだが、そこはあえて問わないことにして、暴力より死を選んだ非暴力と尊い受難の精神は、彼らを1020年ロシア最初の聖人に押し上げた。彼らは当初軍神としても崇められ、また慈悲と自己卑下の象徴としてロシア国民の精神に根ざしている。
 私がこの聖人伝から思い浮かべてしまうのは、やはりドストエフスキーの『罪と罰』のソーニャやドゥーニャ、プーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』のタチヤナといったような登場人物たちであった。
『聖ボリスと聖グレープ』
15世紀中頃、モスクワ派
 イコンについてはページの一番上にあるような『聖ゲオルギウスの龍退治』や、「パナギアの聖母(ズナメーニエの聖母)」、ビザンティンの職人が作り上げた豪奢な十字架などが展示されていた。
 ロシア美術館はペテルブルグにあるだけあって、展示内容にペテルブルグを思わせるものが多かったように思う。
 たとえば、ペテルブルグの風景画は、アレクセイ・ズボフ(1682(83?)−1751)の海軍の栄光の版画や、Ф・アレクセーエフ(1753−1824)画のペトロパヴロフスク要塞からの眺めたペテルブルグの風景などが幾作品か展示されていた。
 戦争画や肖像画で印象に残るものも、ペテルブルグと関係の深いものが多い。タンナウエルの『ポルタヴァ会戦のピョートル1世』(1724(25?)年)や(ピョートル1世の息子の)『アレクセイ・ペトロヴィチ皇太子の肖像』(1711)、イワン・ニキーチンの『死の床のピョートル1世』(1725)、オブソフ画の『ピョートル2世の肖像』(1727)などは、いかにもペテルブルグの美術館の展示品らしく映る。
 18世紀前半の王族や貴族の肖像画は他にアンドレイ・マトヴェーエフ、アントン・ロセンコ、イワン・ビシュニャーコフ、イワン・アルグノフ、ドミトリー・レヴィツキー、ウラジーミル・ボロヴィコフスキーらの筆による作品が多く、どれもピョートル1世が急いだロシアの西欧化の色が見てとれた。軍事や技術や行政システムの西欧化だけではなく、こと美術に関してもその急速な西欧化は推進されたのだ。
 しかし、西欧に学ぶといえども、完全な西欧化は実現されることはなくて、中世の絵画の影響がかすかに残っていたりする。そんななかで自国でも優秀な画家の輩出をとペテルブルグに美術アカデミーをつくったりした。つまり、西欧の技術の輸入とロシアの個性が混交したのが18世紀前半から中期だったのだ。
 ということは乱暴な言い方をすると、西欧の美術の潮流に対して後手後手に学んでいく遅れた位相の伝統は、18世紀の「西欧化」に端を発しているといえるのかもしれない。しかし、これは、かえって後々のロシア美術の独自色を決定付けたといえると考えられないだろうか。一旦すべてを受け容れた上で、それを自国内で(否定?しつつ)消化し、独自の作品に昇華させたような、いかにもロシア美術といえるような作品を後世は生み出していったように私は感じる。
 19世紀のロシア美術のセクションに入ると、オレスト・キプレンスキー(1782−1836)や、シルヴェーストル・シチェドリーン(1791−1830)、カルル・ブリュロフ(1799−1852)、パーヴェル・フェドートフ(1815−1852)など、ビッグネームの作品がならんでいた。
 私にとってキプレンスキーの絵はトレチャコフ美術館にある『プーシキンの肖像』(1827)が最も印象に残っているが、ロシア美術館にも『E.S.アヴドゥリナの肖像』(1822〜23年頃)という綺麗な婦人の肖像画があって目を惹いた。イタリアで腕を磨いたシチェドリーンのナポリの港の風景画もよかった。なかでも夜の港を描いた『月夜のナポリ』(1829)の光る月と、月光に照らし出されている雲の美しさには、画面を凝視させるほどのものがあった。勝手ながら、クインジの『ドニエプル川の上の月』の出現を予見する作品ではないかと思ったほどである。
К・ブリュロフ『ポンペイ最後の日』(1830〜33年)456.5×651cm
 イタリアで学んだ有名なロシアの画家に、アレクサンドル・イワノフとカルル・ブリュロフ(1799−1852)がいる。とくにブリュロフの傑作はロシア美術館で最も存在感がある一枚といっていい。その作品の名は『ポンペイ最後の日』、ブリュロフがその構想を練っている時、イタリアの考古学者がポンペイの遺跡を発掘して、彼は一気に作品への情熱を燃やした。
 イワノフの『民衆の前に現れたキリスト』(トレチャコフ美術館蔵)とともに、19世紀のロシア美術を語る上でブリュロフの『ポンペイ最後の日』は欠かせない。
 尤もロシア美術館を訪れるまで、私は『ポンペイ最後の日』についてそんなに思い入れはなかった。画集に載っている分では実感が湧かなかったと言っていい。だが、この絵を見たとき、まさに「ひょええー!」という感じで感嘆符しか出てこなかった。画面の右上の立像が傾き、今にも落ちそうなというより落ち始めた瞬間や、画面全体に降り注ぐ火山灰に対して、人間がいかに無力な存在か思い知らされる気分になるのだ。また展示室の壁の一面がこの一枚だけだという、『民衆の前に現れたキリスト』に匹敵する画面の大きさにも圧倒されるだろう。大作の周囲には、作品の完成に漕ぎ着けるまでのエスキス(下絵や素描)やエチュード(試作・習作)が展示されていて、それはそれで興味深い。また同じ部屋にイワノフの『民衆の前に現れたキリスト』のエチュードもあったりするので、『ポンペイ最後の日』のある部屋は、まるで大作が完成にいたるまでの過程までもを知ることが出来る、充実した間となっていた。
 この『ポンペイ最後の日』と『民衆の前に現れたキリスト』は後世のロシア美術に決定的な影響を与えた。のちの批判的レアリスムのなかの移動展派の画家たちは、率先してブリュロフとイワノフから学び、二人の功績を称えつつ、自分たち独自の画風を模索し確立しようとした。このあたりの苦悩についてはクラムスコイやレーピンも例外ではなく、レーピン著『ヴォルガの舟ひき』の「師クラムスコイの回想」にもその辺の話が出てくるので、機会があればぜひ一読されたい。

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