Русский музей

波の色と太陽の光の色の変化が絶妙!
イワン・アイヴァゾフスキー『第九の波涛』(1850)221×332cm
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 私がロシア美術館で楽しみにしていた絵の一つに、日本ではあまり知られていないものの、ロシアでは大変人気がある海洋画家イワン・アイヴァゾフスキー(1817−1900)の傑作があった。古今東西の美術で、港や海岸線を描いた作品は数多いが、海の深さや大きさ、そして天気によるあらゆる海の表情までもを描き出した画家は、アイヴァゾフスキーしか私は知らない。
二隻のトルコ軍艦を撃破して、ロシア艦隊と合流する帆船マーキュリー号』(1848)123.5cm×190cm
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 画家は生涯で6000点以上の絵を仕上げたが、彼は好んで嵐や難破船や死に瀕する航海者などを海を主題に描いた。なかでもロシア美術館には上の『第九の波涛』や『クリミアの月夜』、『二隻のトルコ軍艦を撃破して、ロシア艦隊と合流する帆船マーキュリー号』(1848)、『オデッサの月夜の眺め』(1846)、『月光に照らされたコンスタンチノーブルの眺め』(1846)などの傑作がはちきれんばかりに展示されていて、ロシア本国での評価と人気の高さがうかがえる。
 画家の生涯は、あまり波乱に満ちたエピソードがないので、そんなに取り上げられない。よって、彼こそ、画家は作品でのみ評価されればそれでよい、といった主張の好例になるのかもと思わされる。
 ところで、アイヴァゾフスキーの絵は、海の静謐から怒涛までいろんな表情を描いているし、また怒涛を描いた絵画では船員が海に投げ出されている場面の作品があるが、あまり悲惨な感じがしない。人間と恐ろしい自然力との戦いであることに間違いはないのに、『第九の波涛』などでは、こちらから海や雲や太陽に飛び込んで行きたくなるようなものを、作品から感じるのは私だけだろうか。もちろん、絵画の話だから気楽な想像というか憧憬なのかもしれないが。
アイヴァゾフスキー『クリミアの月夜』(1859)56.4×76cm
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 19世紀の社会の第三階層と呼ばれた軍人や役人、町の人々の生活を描いた芸術家には、作家にゴーゴリやドストエフスキーが、画家にはパーヴェル・フェドートフ(1815−1852)がいる。フェドートフの絵画でとりわけ秀逸なのが、ロシア美術館だけでなくトレチャコフ美術館にもある『少佐の結婚申し込み』(1851)という作品で、それは社会身分を上げたい金持ちの商人の娘に、破産した貴族や将校が結婚を申し込んでいる軽い皮肉を込めた作品である。この作品は19世紀のロシア文学ともリンクし、後々のチェーホフ劇の登場を予感させるものがあっておもしろい。フェドートフは諷刺が入った作品以外にも、ピアノを弾いている第三階層の娘の絵も描いていて、当時の町の世相や社会の移り変わりを敏感に捉えていたことを鑑賞者に伝えている。
イワン・クラムスコイ『娘ソーフィヤの肖像』(1882)
119.5×70cm,油彩,カンバス
 私は19世紀ロシア移動展派の巨頭イワン・クラムスコイ(1837−1887)の作品が好きで、ロシア美術館でも最も楽しみにしていた。クラムスコイの作品の代表作・傑作は、ほとんどモスクワのトレチャコフ美術館(『自画像』『荒野のキリスト』『最後の詩のネクラーソフ』『ゴンチャロフの肖像』『クインジの肖像』『レーピンの肖像』『読書・妻ソーフィヤの肖像』『ルサルカ』『森番』『レフ・トルストイの肖像』『慰め難き悲しみ』『月夜』『見知らぬ女』など)にあるのは少し残念だが、ロシア美術館にある『ミーナ・モイセーエフ』(1882)、『舞台に立つラヴローフスカヤ』(1878)、『シーシキンの肖像』(1880)、『スヴォーリンの肖像』(1881)、『ペローフの肖像』(1881)、『娘ソーフィヤの肖像』(1882)などの作品もクラムスコイ好きの人には満足がいくと思う。挙げたなかで、アレクセイ・スヴォーリン(1834−1912)の肖像は、当時のロシアのメディア王として、ツァーリ権力と結びつき、また作家(とくにチェーホフと)や画家たちと親交が厚かった人物であるから、19世紀後半のロシアのメディア史に興味がある人ならば、一見の価値があるように思える。
 私がぜひとも見たいと思っていたのは、クラムスコイが自分の娘を描いた『娘ソーフィヤの肖像』(1882)である。この作品は、クラムスコイ自身が一家の長や父親として、また移動展派の巨頭の一人として、そして芸術家として苦境に立ち、彼の芸術家生命の凋落が始まっていたころの作品なのだ。
 私は、クラムスコイは急進的ではあるが信念が強く、かつ行動的な人物で、何かと気苦労が多かった人物だったと思っている。
 クラムスコイの1880年以降は、移動展派の組織の内部の問題が浮上し始め、クラムスコイは最愛の子供を二人喪い、そのせいで妻が病に倒れ、いつしか彼の体は病魔が襲い始めていた。そんな中、自分の弟子たちの作品が世間で評判を取るようになり、それでも彼自身の長年の構想による大作『嘲笑。喜べ、ユダヤの王よ』の制作は進められていた。
 だが、1882年、クラムスコイは『嘲笑。喜べ、ユダヤの王よ』の筆を折ってしまう。そのときの失意は大きなダメージとして彼を襲ったことだろう。ひどい言い方だが、このとき初めて彼は肖像画家というレッテルを自覚し、昔の新進気鋭だったころのペテルブルグ画家共同組合への追憶に心を締め付けられた反動で、保守的な人格へと転向したように思える。
 この哀しい時期に描かれた作品の一つが『娘ソーフィヤの肖像』で、じかに見てみるとクラムスコイの特徴である筆づかいのきめ細かさ以上に、より丁寧に描こうとしていたことが感じられた。もちろん自分の娘なのだから感情移入するのは至極当然といえばそれまでなのかもしれないが、私にはせめて今の時間を忘れよう、もう一度若さと情熱と誇りを、そして安らぎを得ようとした、あがきだったように思える。
 その後、代表作『見知らぬ女』(1883)と『慰め難き悲しみ』(1884)を描いたクラムスコイだったが、この頃にはもう彼はある種の限界に達していたのかもしれない。1887年、クラムスコイは医師ラーウフスの肖像画を制作中、医師の方を向いたまま亡くなった。彼は絵筆を握ったまま、この世を去ったのだった。
 移動展派に名を連ねた画家の一人にニコライ・ゲー(1831−1894)がいる。彼の絵はトレチャコフ美術館の『息子アレクセイを詰問するピョートル1世』や『ゴルゴダ』が有名だが、ロシア美術館にも『最後の晩餐』(1863)やもう一つの『息子アレクセイを詰問するピョートル1世』(1872)といった名作がある。ゲーの作品をドストエフスキーは『作家の日記』のなかで酷評しているが、私はけっこう好きである。館内にはゲーによる『書斎のレフ・トルストイの肖像』(1884)もある。またレーピンも『レフ・トルストイの肖像』を残していて、二人の作品を見比べるのもおもしろかった。
 あと、ヴァシリー・ペロフ(1834−1882)の『ツルゲーネフの肖像』(1872)に思わずニヤリとしてしまった。ツルゲーネフはドストエフスキーと衝突して、晩年まで犬猿の仲だったのだ。ペロフは『ドストエフスキーの肖像』(トレチャコフ美術館蔵)も描いていて、それも1872年の作品である。両作家の肖像画がモスクワとペテルブルグに分けられて展示されているとは、単なる偶然としてもおもしろい。
 アレクセイ・サヴラーソフ(1830−1897)の作品はカラスを描く十八番をここでも発揮していたし、早世したフョードル・ワシーリェフ(1850−1873)の作品『朝』(1872/73)、『風の強い日の河』(1869)、『ヴォルガの眺め・木造貨物船』(1870)、『雪解け』(1871)、『山と海』(1872)などは、画家の才能をいまなお伝えているように感じられた。
 ニコライ・ヤロシェンコ(1846−1898)の『クラムスコイの肖像』(1876)は、トレチャコフ美術館にあるレーピンの『クラムスコイの肖像』を思い出させたり、歴史画の巨匠ヴァシーリー・スリコフの『雪町取り合戦』(1891)、『エルマークのシベリア遠征』(1899)、『1799年のスヴォローフ将軍のアルプス越え』(1899)、『スチェパン・ラージン』(1907)などにはただ圧倒された。ちょっと見方を変えれば、おいおいと制止したくなるようなゲンリフ・セミラードスキー(1843−1902)の『ポセイドンのエレウシス祭典のフリーナ』(1889)の色使いは明るくてとてもよかった。
 あと、イワン・シーシュキン(1832−1898)の『冬』(1890)、『造船用材の林』(1898)も忘れてはなるまい。ワシリー・ポレーノフ(1844−1927)の『キリストと姦淫の女』(1888)は、クラムスコイが筆を折った『嘲笑。喜べ、ユダヤの王よ』の後を引き継いだように思えた。グリゴーリー・ミャソエードフ(1834−1911)の『刈り手』(1887)は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』でレーヴィンが農民たちと農作業に精を出す姿を髣髴とさせた。
 アルヒープ・クインジ(1842?−1910)の『ドニエプル川の上の月』(1880)はトレチャコフにつづいてこちらにもあった。


『ドニエプル川の上の月』(1880)105×144cm

クインジのほかの作品は『秋の岐路』(1872)、『虹』(1900−1905)などがあって、飛びぬけ(というより、ある種の異質?)ていて、改めて驚愕したのだった。
 なんともはや、早足で作者と作品の名前だけを羅列してしまった。他にもロシア美術ならではの個性のある作品で埋め尽くされていたが、一つひとつの作品はトレチャコフ美術館の作品とも関連してくるので到底書ききれるものではない。(ほかに20世紀絵画ではカンディンスキーやシャガールの作品もあるのだ!)
イリヤー・レーピン『ヴォルガの舟曳き』(1870−73)131.5×281cm
 あなたが芸術家に仕事への意識的な態度を要求なさるのは正しい。けれどもあなたは、問題の解決と問題の正しい提起とを混同なさっておられる。芸術家に必要なのは後者だけです。『アンナ・カレーニナ』や『オネーギン』の中では、問題は一つも解決されていない。それなのにああいう作品が完全にあなたを満足させるのは、あらゆる問題が正しく提起されているからに他なりません。裁判所は問題を正しく提起せねばならない。解決するのは、一人ひとり自分の趣味を持った陪審員たちです。
A・S・スヴォーリン宛て(1888年10月27日、モスクワ)のチェーホフの書簡(池田健太郎訳)

 どうしようかと迷ったが、やはりロシア美術館を訪れたなら、イリヤー・レーピン(1844−1930)の話題に触れざるを得ない。
 私は旅行直前まで、有名な『ヴォルガの舟曳き』などを描いたレーピンは、クラムスコイらと行動を共にしたことがあったから、若い頃のクラムスコイの思想を受け継いだものと思い込んでいた。しかし、事実はそうでもなく、レーピン個人の思想・信念と彼の数々の作品とを結びつけようとする考え方は慎むべきだと思う。なぜなら、レーピンはいろんなところから作品の構想を得ていて、また政官財と交友関係も広く、絵の師匠や作家トルストイなど深く尊敬していた人物も少なくないからだ。
 レーピンの周囲にはいろいろな人間がいたわけであるが、彼は誰よりも何事においても冷静だった。彼の作品と、彼個人の性格が唯一むすびつくところは、テーマの多様性だと思える。冷静だったからこそ、あらゆるテーマを扱え、特定に方法に固執せず、被写体のありのままを鋭く観察し、優れた技巧でその内面をも表現しえたのだろう。だからレーピンの大作にドラマチックな芝居がかったものは殆どない。彼の大作からは上に引用したチェーホフの主張のようなものが感じ取れ、作品の解釈はすべてを鑑賞者に委ねているのだ。レーピンの偉大さはそこにあるのだ。
 だから上の『ヴォルガの舟曳き』も、公開当初はあらゆる意見が飛び出た。ロシア革命を正当化したい旧ソ連の論壇は、「抑圧された下層民の姿による社会問題の告発を狙った作品」という一方的な解釈を世界中に伝播したが、やはり他方では異なる解釈も(旧ソ連内で)目立たぬまでも存在しつづけていた。
 この作品は今でも人気があるが、ロシア美術館で展示されている中のレーピンの最高傑作かと、もし問われたら、私はそうではないと思う。新約聖書の「マルコによる福音書」の第5章35節以降のタリタ・クミの場面を描いたと思われる『イアイラの娘の復活』(1871)、ロシアの伝説で有名な「サトコ」の海底の場面を描いた『サトコ』(1876)、『芝生でおおわれたベンチ』(1876)、『トルコ王に手紙を書くザポロージェ・コサック』(1880−1891)、『創立100周年記念1901年5月7日国家評議会会議(参議院)』(1901−1903)、『1905年10年17日』(1907−1911)などなど、日本ではあまり紹介されない傑作群のなかから最高傑作を選び出すのは困難を極める。さらに肖像画もたくさん展示されている。

 私は絵は描けないが、今でもクラムスコイの作品が好きだし、クラムスコイの生涯に少し共感するところがあって、それも私をロシアへと惹きつけているものなのだが、レーピンの絵画芸術から受けた衝撃は、クラムスコイの同じくらい、いやそれ以上かもしれない。上のチェーホフの主張も含めて、レーピンの絵からはいろいろ考えさせられ、素直にいい体験が出来たと思う。トレチャコフ美術館にある作品の分も含めて、これから改めて見直そうと思う。


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