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芸術広場のあとは再びイサク広場に降り立ち、イサク大聖堂(Исаакиевский Собор)に入場した。ゆっくりと聖堂内を見学したのだが、世界最大級の聖堂というだけあって、内部は圧巻だった。画像を大きくしたとはいえ、そのことを差し引いても、左の写真ように聖堂の規模の大きさは理解してもらえるだろう。(左の場所は聖堂内の中央空間(ナオス)である。)
内装はモスクワのウスペンスキー大聖堂とはまた違って、より時代が進んだというか、西欧の宮殿の要素が入っているような感じがした。 ウスペンスキー大聖堂のときと同じように、魅せられた私は写真を撮るのに夢中になり、ガイドさんの説明はほとんど聞くことはなかった。よってあとから聖堂について、ネット上からヒントをもらったり、いろいろ調べることとなった。とりあえず、聖堂の特徴や形状(平面図)についての解説を引用したい。 ギリシア十字式 Greek-cross plan
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聞きなれない言葉もあって正直むつかしく思えるのだが、用語の解説を読むと、
ヴォールト:
アプシス:
とのことである。紹介する画像にも、きっと当てはまるものがあるだろうと、無責任なようだが思っている。 |
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ギリシア十字式の聖堂の平面図と、これらの画像とを照らし合わせることは、私にはできないけれども、とにかく驚くべきはその豪華さであった。ガイドブックによれば、聖堂にはイタリアのティウダ、シエナ、ジェノヴァ産の石と白大理石など数種類の石材が使用されているとある。これほどのものをイタリアから運ぶのに、どれだけの労力が必要だったことだろう。想像を絶するものがある。 |
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何かの石の上に描かれた有名なキリストの絵 |
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内装には400kg以上の金、1000t以上の銅が用いられ、内装芸術には22人の芸術家の手が加えられ、聖書の場面や聖人が150以上も描かれているそうだ。聖堂にはモザイク画が62点、聖堂を飾る300以上のレリーフや像、聖書の物語の細かい彫刻が施された重さ10tもの三つの扉、またドームに用いられている金は100kg以上、柱の表面や聖堂のディテールには、16tの孔雀石、500kg以上のアフガニスタン天藍石が用いられたりと、どうしてそこまでするのだろうか?と思ってしまうほどである。
ところで、イサク大聖堂はピョートル大帝の誕生を後世に伝えるために建てられたことがもとになっている。大帝の誕生日が5月30日、その日は偶然にも聖人イサーキー・ダルマーツキーを祀る日であることにちなんで、最初のイサク聖堂が建てられた。現在のイサク広場にある大聖堂が建つまでは、いろいろと波乱万丈なエピソードがあるのだが、アレクサンドル1世の親政になってニコライ1世の騎馬像も設計しているO・モンフェランに建設が委ねられた。最初の柱を打ち込む作業には、外国からの来賓も見物に来たという。面積が800平方メートルにもなる聖堂は、完成まで40年もの歳月を要した。 |
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ガイドブックによれば、この扉の奥が祭壇を安置する聖なる空間(内陣:ベーマ)ということになり、中央下にかすかに見えるのが祭壇なのだろうか。扉の周りは金メッキされたブロンズを彫像した天使や予言者、豪華なイコノスタス(聖画障)で飾られている。 |
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聖堂内でナオスと呼ばれる中央空間を見上げると、ドーム内部の壁画が見られる。この壁画を描いたのが、カルル・ブリュロフ(1799.12.23−1852.6.27)という画家である。(画家の健康上の理由からドームの作品は未完であったが、仕事はバーシンに引き継がれた。)
ブリュロフは古典主義とロマン主義を融合させた優れた画家で、プーシキンは彼の絵を絶賛し、詩にまで残したくらいである。 ブリュロフとプーシキンについては以下のようなエピソードもある。プーシキンが決闘する二日前、詩人は1837年1月25日にブリュロフのアトリエを訪ね、画家の水彩画と漫画を見て大いに喜び、涙が出るほど笑ったという。詩人はブリュロフが描いた素描画の「スミルナにおけるオーストリア大使主催舞踏会へ到着の図」を欲しいと懇願したが、画家は頑として聞き入れなかった。しかし、ブリュロフは詩人の肖像画を描いてやると約束した。第一回目にポーズをとる日は三日後と決まったが、その約束は果たされることはなかった…。 |
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イサク大聖堂はサンクト・ペテルブルグの観光名所である。それでも私が行った日(平日の午前の時間帯)にはそこまで混雑していなかった。
右の画像の左下に写っているのはお土産売り場で、そこにいたのは聖堂の関係者というよりは、たぶんアルバイトだろう、頭も覆っていない普通の若い女の子だった。私が絵葉書を見ていると、「ろくルーブル」とにこやかに日本語で話し掛けてきたので、私も思わず笑顔になってしまった。ということは、日本人観光客もいいお客さんなんだろうな。私は絵葉書を一枚買った。 |
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イサク大聖堂には展望台(クーポラの回廊)があって、金色のドームの下の柱のところまで上がることができる。私は上がらなくてもいいや、とチケット(展望台は別途100ルーブルかかる(2003年6月現在))は買わなかった。でも、疲れ気味?だった添乗員さんが私に展望台に上がった人の引率?を頼み、ただでチケットを譲ってくれたので、私は薄暗い螺旋の階段をひいこら言いながらのぼっていった。
展望台に上がってよかった。ここから360°見渡せるペテルブルグの絶景は、とてもすばらしいものだった。展望台ではクラシック音楽が常に流れていて、それが展望台の雰囲気や景勝ととても合っていた。 |
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朝に見た元老院の建物が中央下に、中央に芸術アカデミーが見える。左に見える橋はシュミット橋である。
この展望台は昔から上がれたらしく、モスクワの項でふれた画家レーピンも展望台のことを回想録に残している。レーピンがまだ若い頃、彼の周囲がチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』をボロボロになるまで読んでいた頃のことである。 もう一人、シェストーフと三人づれでイサーキエフスキー大寺院の上にのぼったとき、ムラーシコは鉄の手すりにしがみついたままうずくまって、昇降口のところから一歩も動けなかった。そこから展望台に出さえすれば、ピーテル全市が遠くまでぐるりと見わたせるというのに。
それから幾日後のことか分からないが、レーピンは夏の園で起こったカラコーゾフによるアレクサンドル2世狙撃事件のことを耳にする。当局による多くの学生の逮捕や禁書の焼き払いからほどなくして、レーピンは仲間たちとカラコーゾフの処刑を見に、現シュミット橋よりも西にあるスモーレンスコエの原まで出かけて行った。刑場にて、彼は泣き出しそうになる自分を必死に抑えていたという。 |
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中央に海軍省の建物で目立つ72メートルの尖塔が見える。中央右の緑色の宮殿はエルミタージュ美術館の元々の建物である「冬宮」。 使像の後姿。 |
大聖堂を出たあと、聖堂傍の露店でペテルブルグの日本語ガイドブックを買ったが、中の1ページに装丁時についたと思われる折り目があったことを、バスの中で気づくハメになってしまった。いくら他のツアー参加者がいるといえども、少しくらい余裕があるならば、購入するその場で中身が大丈夫かどうか、さらっと確認したいものだ。 |
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