見出しのСОБОРとは大聖堂≠フ意味である。 写真はクレムリン内サボールナヤ広場(寺院広場)とウスペンスキー大聖堂。かつて皇帝(ツァーリ)が戴冠式に臨んだ。あのイワン4世(雷帝)もピョートル大帝も、戴冠のため聖堂を訪れた。 イワン4世戴冠の際は、マカリー府主教がイワン4世の頭に油を注いで、帝冠を授け、イワン4世の頭に金貨を浴びせたそうである。これはロシアの富がツァーリのものであることを示す儀式なのだそうだが、下に落ちた金貨はお付きの者が拾いまくっていたらしい。 現ウスペンスキー大聖堂は厳密にはイワン3世が、かつて同じ場所にあった聖堂の再建を命じたものである。再建する聖堂は、ウラジーミルにあるウスペンスキー聖堂をモデルに建立せよと、イワン3世が命じた。 1474年には一旦建設された大聖堂だったが、1474年に何と地震によって全壊してしまい、再建のためイタリア、ボローニャのアリストーテリ・フィオラヴァンティを招くことになった。現在のウスペンスキー大聖堂は、このフィオラヴァンティの設計によるもので、完成は1479年である。どうしてイタリア人が招かれたのか、こじつけっぽく聞こえるだろうが、私はビザンティン滅亡後のローマ、コンスタンティノポリスに続くモスクワこそ第3のローマ≠ニいうスローガンを実現させるため、本場のイタリア人が必要だったからという見方をしている。 ところで、ロシア特有のタマネギ型の屋根(ドーム)の歴史は古く、「タタールのくびき」よりも古い年代のものもあるようだ。どうしてこの形が考案されたのか、一説には冬の積雪の重みにドームが耐えられるようにするためだったのかもしれないと述べている書物もある。 |
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左は、アルハンゲルスキー聖堂で、アレヴィズ・ノーヴィの設計によるが、ちなみに彼もイタリア人。聖堂は歴代皇帝や貴族の遺体安置に利用されていて、埋葬されている有名な人物はイワン3世やイワン4世やその遺児ドミトリー、そしてロマノフ王朝初期の大公など。遺体は聖堂内部の壁の中に埋葬されている。
右は、イワン3世(大帝)の鐘楼と呼ばれる鐘楼で、これはイワン3世がこれまたイタリア人ボン・フリャージンに命じて建てさせた。鐘楼の上層はペトロク・マルイが設計し、ボリス・ゴドゥノフの時代に完成をみている。鐘楼は81mにもなるが、もちろん当時はこれ以上の高い建物を建てることは許されなかった。
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……たたかいは終わった。勝利は ロシヤの皇帝のもの!
高慢なフランス人は 逃げしりぞいていく。 けれども 力強い戦場の勇者を 天なる神は 最後の光で 飾られたのである。 白髪をいただいた将軍が かれをうち負かしたのは、この場所ではなかった、 おお ボロジノの血にいろどられた原頭よ! きみは 狂暴と高慢をおさえる境界とはならなかった! なんたること! クレムリンの塔に かのフランス人がのぼるとは……
モスクワの村々よ 生まれ故郷の土地よ、
いずこに消えたか 堂塔そびえるモスクワの美しさは、
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さて、ウスペンスキー大聖堂の中だが、写真を撮るのに夢中で、現地での説明は、ほとんど聞いていなかった。覚えていることといえば、聖堂は祈りを捧げるための場所なので、普通、ロウソクやイコンなどのカッサ(売り場)を除いて、聖堂の中では椅子など置いていないのだが、ウスペンスキー大聖堂は完全に観光地と化しているので、融通を利かして長椅子を数脚置いているのだということぐらい。私もその椅子に座ってフィルム交換をしてやかましい音をたてたりした。実際、聖堂はほんとうに多くの外国人でにぎやかだった…。 |
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左上、大聖堂内の売店。ロウソクを売っているというよりも、はっきりいって土産店。ただマトリョーシカとかは、あまり売られていない印象だった。
右上、聖堂内のイコンの描かれた壁「イコノスタス(聖障)」や柱。イコノスタスは来世とこの世の接点を意味していて、すなわち、聖堂を入って正面に見える宝座と呼ばれる祭壇のある至聖所と、信者たちのための会衆席である聖所とを隔てる壁である。至聖所に入れるのは聖職者のみ。
左下、このシャンデリアは、右上のシャンデリアとともに、ナポレオン軍が敗退したとき盗み出した300kgの金と5tの銀を奪い返して作ったとされる。 右下、イコノスタスやイコンは旧約・新約聖書に関連している物語や聖者などを描いている。物語を絵でもって描くことは、当時のほとんどが文盲であった民衆の信者を獲得するという重要な使命をも帯びている。 |
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左は聖母とキリストで、右は聖者とその生涯を表す。色使いは本当に素晴らしい。
イコンは現在も聖像画本(写本)を手本とし、それにしたがって描くこととされている場合がほとんどなので、構図や人物配置などはほぼ一定である。 イコンが平面画なのは偶像崇拝の否定と当然かかわっているが、むしろロシア正教では、イコンは地上と天国の窓であり、神の国を映す鏡にひとしいと考えられてきたからであろう。 |
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ウスペンスキー大聖堂を出た後、どういうわけか、プーシキンとデカブリストの乱(1825年12月14日)の話題で盛り上がった…。私は熱弁を振るってしまった。 |
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