Петеропавловская Крепость

人の身長と塁壁の高さ(12m)を比べてみると…
ペトロパヴロフスク要塞の塁壁と稜堡(りょうほ)。300≠ヘペテルブルグ建都300年を意味する。

 朝から続いていたバスツアーは、何度もネヴァ川を渡っていた。宮殿橋もシュミット橋もビルジェヴォイ橋もトロイツキー橋もリティヌイ橋も通ったことになる。
 イサク大聖堂を見学し終わってもホテルのチェックインのみならず、昼食の予定時刻までの時間さえ余っていた。そこで、再度、宮殿橋を渡り、予定には無かったペトロパヴロフスク要塞(Петеропавловская Крепость)の見学が、添乗員さんからのサービス(尤も旅行社からポケットマネーにもなるような予備費が出ているのだろうが、その心意気や気持ちは嬉しいものだ!)で実現することになった。
 要塞に向かう途中で、大砲の音が聞こえてきた。要塞の稜堡に設置されている正午を知らせる大砲の空砲の音であった。要塞はペテルブルグ建都300年記念までに急がれた修復もほとんど完了していて、きれいな姿になっていた。
_
 ペテルブルグの町を紹介するうえでは最初に触れるべきことだったかもしれないが、ここらでペテルブルグ建都の歴史や功罪についてふれてみたい。
 こちらで紹介したピョートル1世はスウェーデンを相手にしたナルバの戦いで大敗を喫した。ピョートルは、その後海軍の近代化を計り、1703年ネヴァ川のデルタ河口域を占領し、すかさずスウェーデンをけん制するため要塞を築き始めたのだ。その日が1703年5月16日でペテルブルグが産声をあげた日である。
 この地は湿地帯だったらしく、そんな場所に要塞など建てるとは無茶にもほどがあるものだが、ピョートルは持ち前の意欲と強権でもって、要塞と都市の建設に乗り出した。建設には農奴や戦争捕虜や犯罪者が徴用されたが、病気や栄養失調によって何万人もの死者が出た…。むごいなあと思えど、要塞建設にはピョートル自身が自ら小屋に泊まりこみ、工事道具を揮って建設を進めたりしたので、これがピョートルを完全に憎みきれない一つの理由になっているような気が……。
 都市建設の過程については次のページでもふれたい。
昔の汽車の先頭車両みたい
横からのショット
ペトロパヴロフスク聖堂の外観
 いつかネット上で、ペトロパヴロフスク要塞は、要塞の中に聖堂がある妙なところだという感想をもらい、面白い見方だなぁと思ったことがあった。「要塞の中に聖堂がある妙なところ」という意見に対し、軍事上の拠点であり1703年6月29日ペテロとパウロの祝日に聖堂の建築が開始されたから仕方がないという答えは、たしかにその通りだが、少々味気ないような気もする。
 「要塞の中に聖堂がある妙なところ」を、私はペテルブルグの性格とロシア的な矛盾の包括の象徴として捉えてみたい。

どうして人間が(それも、ロシア人が特にそうらしいが)自分の魂の中に至高の理想と限りなく醜悪な卑劣さとを、しかもまったく誠実に、同居させることができるのか、わたしには常に謎であったし、もう幾度となくあきれさせられたことである。これはロシア人のもつ度量の広さで、大をなさしめるものなのか、それともただ卑劣さにすぎないのか──これが問題である!

ドストエフスキー『未成年』

といったふうに。
 聖堂自体は最初木造だったが、1712年7月8日には石造教会の建設が着手された。現在の形の聖堂は1732年6月27日にピョートル大帝の死後に完成した。
 ↑の聖堂の鐘楼の高さは122.5メートル。ドイツとスカンティナビアの様式を踏襲した鐘楼(尖塔)の天辺まで何とか写っている画像はこちら
 聖堂の設計はスイス人ドメニコ・トレッツィーニ(1670頃〜1734)によるもので、堂内は中世ロシアのギリシア十字式ではなく、バシリカ型プランの3廊式になっているそうだ。用語解説によれば、

バシリカ式 basilican plan 古代ローマの集会堂建築であるバシリカをモデルに考案された,聖堂の建築様式。長方形のプランの東側にアプシスをもち,本堂部分は屋根の高い身廊と,その両脇の屋根の低い側廊に区別される。身廊と側廊は,ふつう列柱のアーケードによって分かたれる。南北に各一つの側廊を有する三廊式のバシリカが一般的であるが,各二つの側廊をもつ五廊式の大型バシリカも存在する。ビザンティン世界では,9世紀以降ギリシア十字式の聖堂が優勢になるまで,聖堂建築の典型的プランであった。(益田朋幸)(『世界美術大全集6』(小学館)p434)

やっぱり混雑していた
ペトロパヴロフスク聖堂内部
という。
 初期のペテルブルグ建都に大いに関わったトレッツィーニは、ピョートル大帝が住んだ夏宮や、貴族の館と1階建ての職人の家のモデルまで設計している。彼は当時設置された都市事務局(1723年からは建設局に改名)とともに中央行政機関「12参議会」(1722〜42)を設計した。

___
赤いのがアレクサンドル2世の墓 ← 皇帝たちの棺をビデオに収める外国人旅行者の姿。

 ペトロパヴロフスク聖堂はピョートル大帝の時代からの歴代皇帝の霊廟でもある。
 赤い棺は現スパス・ナ・クラヴィー聖堂のある場所で爆殺されたアレクサンドル2世の墓。ヤーシマという石が使用されている。色はまさに血の色を連想させる。
 誰がどの棺なのかよくわからないが、エルミタージュ美術館の事実上の創始者であるエカテリーナ2世の棺も確認できた。

_
→ 顔の像が据えられているのが、ピョートル大帝の墓。その手前にピョートルの二番目の妻エカテリーナ1世、写っていないが、さらに左手前には二人の娘のエリザヴェータ女帝の棺がある。左奥の囲いにはアンナ女帝の棺を示す表示が見られる。ここが最も混雑するセクション。

 イサク大聖堂とは異なり、やっぱり皇帝の墓やペテルブルグの発祥の地だからか、聖堂内はエルミタージュ美術館以上に混雑しているように思える。

素材には贅をつくしているがいたってシンプル
_
名前が加わったのはごく最近の話だ  左はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の墓と、その家族と召使いたちの碑文。
 皇帝一家は1917年のロシア革命後、ウラル地方のエカテリンブルクに移送された。新暦1918年7月17日の早朝、ヤコフ・ユロフスキー率いるボリシェヴィキの銃殺執行隊は、モスクワのソビエト政府の最高レベルから命令を受けて、皇帝一家全員と医師、三人の召使いを射殺し、彼らの遺体は森に運ばれ、エカテリンブルクの北西約12キロの鉱山の竪穴に投げこまれた。
 遺骨は1979年、郷土史研究家のアレクサンドル・アヴドーニンによって発見されたが、遺骨がペトロパヴロフスク聖堂に埋葬されたのは1998年7月17日、本当にごく最近のことなのである。
_
プレートには花が捧げられていた
王族たちの墓
 ロシア革命後も皇帝一族で生き残った人はいた。そんな皇帝の一族たちの碑文がここにある。たとえば、最後の皇帝ニコライ2世の実のいとこキリル大公の碑文などがある。
 キリル大公は1876年ツァールスコエ・セローで生まれ、1938年パリで死去、同年ドイツのコーブルクで埋葬されたが、1995年に聖堂に改葬されたのだ。この略歴でも、革命後の皇帝一族がどのような運命をたどったか、うかがい知れよう。
_
 ペトロパヴロフスク聖堂は、ロシア帝国の歴史や運命を凝縮したようなところだ。皇帝一族の歴史に詳しい人なら、何度でも思いを馳せることができるのではないだろうか。

監獄と水の都建設史につづく】     【もくじ】     【Contact