Петеропавловская Крепость

雲と青空が入れ替わったらロシアの国旗
要塞監獄の外観なのか?

 ↑の写真は、帝政ロシア時代に政治犯などが収容されたペトロパヴロフスク要塞内の監獄の一つという説明を受けたので撮っておいたのだが、本当にそうなのか私自身は確信が持てないし、おそらく違うと思う。(写真自体は、青空と白い雲と建物の壁面の赤色が、三色旗みたいになっているので、個人的に気に入っている)
 現在、公開されている要塞監獄の場所については、私も詳しい方に教えていただきたい。(旅行ガイドにも要塞を上空から撮った写真があるので、判別はむつかしくないだろう。例えば監獄の一つアレクセイ半月堡は、上空からだと半月に見える建物だろうから)

 要塞監獄に入った有名人といえば、レーニンの兄ウリヤーノフや作家ドストエフスキー、チェルヌイシェフスキー(思想家・哲学者・作家・批評家など肩書きはたくさん)だろう。
 ニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌイシェフスキー(1828.7.12−1889.10.17)とは、19世紀ロシアの思想家(唯物論の普及者)で、今ではあまり顧みられないものの、時代背景からして彼の思想が及ぼした影響は大きく、ロシアで最大の思想家の一人だといえるだろう。彼の思想や論文は、19世紀ロシア画家たちに多大な影響を及ぼした。何せ彼の思想を一言で表すと「美とは実生活なり」と書けそうなくらいなのだから。また、画家たちだけでなくレーニンも彼の思想から大きな影響を受けている。
 チェルヌイシェフスキーの思想に脅威を覚えた政府は、1861年の農奴解放令が発布された翌年に彼を逮捕し、ペトロパヴロフスク要塞に監禁した。その後チェルヌイシェフスキーは市民権を剥奪され、シベリヤに送られた。
 彼の思想は、西欧派と対立したスラヴ派の思想と部分的に類似点こそあったが、彼の理想は共産主義的未来図をもつことで、それを宗教ではなく科学の力を信じるによって実現すると説いた。当然、ドストエフスキーらとは衝突することとなった。

 ドストエフスキーがどうして要塞監獄に入ったのかというと、彼は若い頃にペトラシェフスキー会という革命運動の秘密結社に身を投じたことがあったからだ。ドストエフスキーは会の教義の一つである、フランスのフーリエの空想的社会主義に心酔し、いつしか急進的な道へと突っ走っていた。
 そしてペトラシェフスキー会は、ニコライ1世の政治警察からマークされるようになる。1849年4月23日の早朝にドストエフスキーを含むペトラシェフスキー会のメンバーは逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞西部のワシリエフスキー門の前に増築されたアレクセイ半月堡に収容された。
 この後ドストエフスキーは尋問や裁判など精神的緊張を強いられ、刑罰は銃殺刑を宣告される。そして、とうとう死刑が執行されるというその直前に、ドストエフスキーは本当の刑罰である懲役を言い渡されるという、考えようによってはとても残酷な目に遭った。さらにひどいことに、これは時の皇帝ニコライ1世が巧みに仕組んだ刑劇だったのだ。皇帝としては政治犯に灸を据えたうえで「恩恵」を与えたつもりだったのだろうが、作家にとってこの体験は傷痕となり、徒刑後の人生や作品の中でもこの体験は大きな影となって残りつづけることになる。
 ドストエフスキーは要塞監獄に8ヶ月間監禁された。獄中で彼はシベリヤに移送させられる直前に、兄に宛てて感動的な手紙を書いている。

兄さん! ぼくは力も失わなかったし、気落ちもしていません。生活はどこにいっても生活です、生活はわれわれ自身の内にあるのであって、外にあるのではありません。ぼくのまわりにも人びとはいるでしょう、そして人びとの間にあって人間であること、そして永久に人間としてとどまること、いかなる不幸の中でも気力を失わぬこと──ここに生活があるのであり、ここに生活の課題があるのです。ぼくはそれを悟りました。この理念がぼくの血肉になりました。そうです! そのとおりです! 創作し、芸術の至高の生活を生きてきたあの頭、自覚し、精神の最高の要求に慣れてきたあの頭は、もうぼくの肩から斬り落とされたのです。残されたのは、記憶と創造されたが、まだ肉化されないもろもろの形象です。それらはぼくを傷だらけにするでしょう、それは本当です! しかしぼくには心が残りました、それからやはり愛することも、苦しむことも、憐れむことも、記憶していることもできる肉と血も、そしてこれも、やはり生活なのです。On voit le soreil!(人は太陽を見る!)ではさようなら、兄さん! ぼくのことを悲しまないでください!……

1849年12月22日

というわけで、ペトロパヴロフスク要塞は、皇帝一族の歴史だけでなく、いろいろな人間が踏んだ歴史の舞台でもあったわけである。
 ペトロパヴロフスク聖堂を出た後は、ネフスキー門をくぐって、ネヴァ川が見渡せる場所(司令官監視所)へ。
 ここでは右の写真のようにゆったりした至福を味わえるようなバンド演奏が行なわれていた。大きいベース?の奏者と話しているきれいな民族衣裳を着た女性は、バンドのCDを売っていた。
 アコーディオンとバラライカとベースで奏でられた生演奏のロシア民謡「ステンカ・ラージン」は、いい天気の気持ちよさに加えて、その場の雰囲気をとても観光日和にうってつけな心地よく和やかなものにしていた。
右に腰掛けているのは中東から来た旅行者?
 私はトランクの文字にあるとおり、写真を撮るのに1ドルを払った。ここでは多くの旅行者が、ネヴァ川と対岸の宮殿河岸通りの風景をたのしんでいた。
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黄金のドームは本当に目立つ
右の稜堡はナルイシュキン稜堡
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 上の写真、中央にエルミタージュ美術館、その右にイサク大聖堂の黄金のドームや海軍省の建物が見える。ここもペテルブルグが景勝の町であることを実感できる場所だ。
 右に写っている、人がたむろしている稜堡の向こう側には、なんとビーチ(水浴場)がある。ペトロパヴロフスク要塞は、要塞の機能だけでなく監獄、聖堂、ビーチまであるという、ある意味とてもおもしろい過去の軍事施設なのだ。

 バンドが映画『ドクトル・ジバゴ』のラーラのテーマ≠奏でたので、私はとても感激してしまった。『ドクトル・ジバゴ』の原作はソ連時代には政治的理由から物議をかもしたし、曲はフランス出身モーリス・ジャールによるものである。しかしながら、曲はいかにもロシアらしく聞こえたし、現在のロシアでは定番になっているようだった。曲はネヴァの風景にとても合っていた。

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雲が流れて行くのがわかる
要塞からトロイツキー橋を望む。橋の北側(写真では左)から始まる通
りが、プーシキンが決闘前に通ったカーメンナオストロフスキー大通り。
 新しい首都サンクト・ペテルブルグについて民衆がどんな噂をしているか、ピョートル一世が宮廷武官の道化バラキエフに尋ねた。「陛下」とバラキエフは答えた。
「民衆はこういっております。一方からいえば海(モーレ)、他方からいえば哀しみ(ゴーレ)、三つめは苔(モーフ)、四つめにох(オーフ:ああ、という嘆声)」
 ピョートルはひどく頭にきて、「身をよこたえろ」と叫び、バラキエフがいったモーレ、ゴーレ、モーフ、オーフの単語を宣告するかのように放ちながら、何度か棍棒でバラキエフを打った。
川崎挾『ロシアのユーモア』(講談社選書メチエ158)

 海港都市ペテルブルグは、バルト海制圧のためにもつくられた。建都の過程については前ページでもふれたが、もう少しくわしく書いておきたい。
 1703年に始まった都市建設は、1712年には首都になるまでになっていた。首都になる前の1709年には、全国から4万人の労働者がかり集められたが、その条件たるや、スコップとかつるはしなどの道具は自前、首都に到着するまでの旅費も自己負担、仕事中は食事こそ支給されるものの、給金はたった50カペイカというひどいものだった。
 1712年にはすべての廷臣、および領地内に30戸以上の農民を有する官僚は、新首都に家を建てて移住することが義務づけられた。なかでも700から1000戸の農民を有する者は石造の家を建てねばならぬという、いくら立地条件的に悪いといえども無茶苦茶な命令まで出されている。さらに1712〜16年までの間、首都建設は国家的義務とされ、地主貴族は領地内の農民35戸あたり一人の割合で労務者を提供するほか、その一人に対して8〜11ルーブルを支度金として、国家に納めることとされた……。また1714年以降、新都市以外の場所で石造の建造物を建てることが禁止され、ペテルブルグに出入りする御者は舗装用の石を3個、船長は切り出した石を30個、運び込むことが義務づけられた。さらにペテルブルグの食料の値段はモスクワの3倍もしたので、人民は移住をするのを嫌がった。
 こうして、この1712〜16年までの4年間に動員された労務者は15万人、徴収された税は100万ルーブルを越えたそうだ。しかも、劣悪苛酷な労働条件、陰鬱な気候、沼地特有の湿気などで、病気にかかる者も多くなり、また死んでいった者も少なくない。
 ペテルブルグは計画的につくられた都市で、人工的な美しさにみちている。だがそれに払った犠牲はあまりにも大きい。前ページではピョートルは憎めないところもあると書いたが、都市建設においてはやはり無慈悲なところが前面に出ていることは否定できない。ピョートル大帝が後世にとって評価が分かれてしまうのは、こういった理由もあるのだろう。

スケッチ
 何かを描いていた女の子。塁壁の模様のスケッチか、観光客のいる光景を描いているのだろうか。真剣な表情がとても印象的だった。
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説明の絵もユニーク
「要塞内の禁止事項」
 「集会やデモをするな」「勝手に商売をするな」「犬を散歩させるな」「稜堡に上がるな」「音楽を奏でるな」「泳ぐな」「スキーをするな」「ゴミを散らかすな」「焚き火をするな」「酔っ払うな」「自転車に乗るな」「釣りをするな」ってことだろうか。絵で大体わかる。
(関係ないが、看板にかかる木の緑や影の感じが、ゴッホの絵みたいに見えて仕方がない……。)
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 昼食は、青銅の騎士像の近くのレストランで摂った。レストランに向かう途中、結婚式を終えた新郎新婦や式の出席者らが青銅の騎士像にブーケを奉げにくる光景が見られ、なんともラッキーであった。
 昼食はスズキのフライを食べ、地元のビールも楽しんだ。昼食後はアレクサンドル・ネフスキー大修道院の傍のホテルにチェックイン。チェックインが済んだのはいいが、カード・キーのシステムがダウンして、ツアー参加者一人ひとりにキーが持てない状態でペテルブルグ初日を過ごすことになった。運が悪かったと思いたいが、どういうわけかロシアのホテルでは、こういうことがよく起こる…。
 添乗員さんは、やっぱり夜行列車の疲れを癒すように促した。私は夜の劇場のチケットを頼んで、夕方6時半にムソルグスキーオペラ・バレエ劇場で観覧希望者と待ち合わすように約束した。
記念館への目印になるだろう
ヴラジーミル広場と教会
触ることもできる
ドストエフスキー像
 ホテルにチェックインしたあと、フィルムをたくさん持って一人出掛けた。地下鉄のカッサで一枚7ルーブルのジェトン(ペテルブルグの地下鉄乗車のための専用コイン)を買い込み、ドストエフスカヤ駅で降りた。
 ドストエフスカヤ駅を地上に出たところには、ヴラジーミル広場と、ヴラジーミルスカヤ教会があって私の胸を躍らせた(左の写真)。(あとで調べてみると教会は1769年から1783年にかけて建てられたそうで、どうも目を惹くものがあると思った!)
 この広場の近くに、右の写真にあるドストエフスキーの像があって、まさにドストエフスカヤという感じである(右のドストエフスキーの像は、前回の旅行時に撮ったもの)。
 ドストエフスキーの像がお目見えしたのは1997年、その年の5月30日(ペテルブルグの誕生日にあたる)には、この像を取り囲むようにドストエフスキー記念の式典らしい催しが行われた写真がある(ドストエフスキー記念館の売店に販売しているパンフレットなど)。像は、Л.М.ホリーナとП.П.イグナチェフ、建築家В.Л.スピリドノフ、芸術家П.А.イグナチェフによるものだ。なお彫刻を施したのが、最初の二人、ホリーナとП.П.イグナチェフである。
 私はこの像に再会できたことをとてもうれしく思い、思いを込めて像に触れた。像は当地の人にとって見れば、珍しいものでも何でもないらしく、当然のように前を通り過ぎる。

 私はドストエフスキー記念博物館に向かった。時刻は午後の3時半を回った頃だった。


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