МУЗЕЙ Ф.М.ДОСТОЕВСКОГО

正装でバッチリ
フョードル・ドストエフスキーの肖像
(記念館の「食堂の部屋」に掲げられていた写真)
_
_
建物が斜めに写ってしまった……
ドストエフスキー記念館
 作家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821.10.30−1881.1.28)の作品は、私にとって読書やロシア文学への関心を寄せるきっかけになった。ロシア文学への関心といっても、19世紀の主だった作家の作品ばかりで好みに偏りがあるが、その中でもドストエフスキー作品は私に大きな影響を与えていると思うし、彼の作品を読んでロシアを旅行してみたいと思ったのは誇張でもなんでもない。
 ドストエフスキー縁の地はモスクワ、ペテルブルグほか、ペテルブルグの郊外やシベリヤなどが挙げられる。(ロシア以外の国となるとドイツやフランス、スイス、イタリア、イギリスとたくさんある。ロシア以外の国で作家の足跡を感じるとすれば、ドイツのドレスデンかスイスのバーゼルだろうと個人的には思う)
 このうちのロシア二大都市には、作家の生家(モスクワ)や小説のキャラクターが実際に住んだとされる家、作家が亡くなった家、お墓、そして自筆原稿や写真などが展示されている文学博物館など、観光ガイドには大きく扱われないものの、読者にとってはぜひとも足を運んでみたくなる衝動に駆られるような作家縁の地がある。
 左の建物は、1878年の10月初め、ドストエフスキーが晩年に移り住んだペテルブルグの家である。当時の住所でいう、ヤムスカヤ通り=クズネチヌイ横町角五−二番地、クリンコストレム持家だ(現在の番地では、ドストエフスキー通り二番地、クズネチヌイ横町五番地)。移った部屋は建物の二階の10号室(六部屋)であった。(ちなみに作家は、1846年初めより5月まで、この家の九号室に住んだことがある)
 この家にてドストエフスキーは最後の作品『カラマーゾフの兄弟』を執筆し、それからまもなくして、その59歳と3ヵ月の生涯を終えた。
 現在の建物は、作家の記念博物館となっている。中は作家が当時住んでいた部屋と、作家の生涯を紹介した博物館からなっている。(開館は11:00から18:00(入館は17:30まで)、入館料は60ルーブル、写真撮影は20ルーブルだった(2003年6月現在))
_
帽子と鏡がある
玄関
友人たちの肖像写真
応接間
 ドストエフスキーはたとえ家庭内でも服装に気を遣い、おしゃれで綺麗好きな人であった。カバーがかけられている帽子は、作家が外出のときに使用した。  応接間の壁にはドストエフスキー家とつきあいのあった人たちの写真がかけられている。
絵を近寄って見たかった
応接間を別角度から写
解説書にあるとおりの配置
書斎
 左の写真は、応接間を別角度から撮ったもの。掲げてある絵については調べ中(判明はいつになるか分からない(笑))。見づらいが、机の上にフタの開いた缶が置いてあり、それはドストエフスキーが愛用した巻きタバコのケース、もしくはタバコの銘柄の《ЛАФЕРМ》の缶とその中身である。
 右の写真はドストエフスキーの書斎。この机で最晩年の仕事を行なった。その仕事のなかには『カラマーゾフの兄弟』の執筆もある。机の上には自筆原稿のコピーや作家が使用したペン、燭台、コップなどが置かれている。右端の書斎の時計は、ドストエフスキーが亡くなった時刻である、1881年1月28日午後8時38分で止まっている(フラッシュに反射してしまっているのが、少し残念…)。部屋の中のほとんどが当時のままであるとのことだ。
 作家は二本の燭台の明りで仕事をした。仕事中はさかんに煙草をふかし、時々濃いお茶を飲んだ。
 ドストエフスキーは整頓好きで、書斎の壁際にすべてが並べてあって、いつも同じ場所になければならなかった。友達が訪ねてきて椅子やソファの位置をずらすと、彼は客がかえったあとで、自分でもとの位置に返しておいた。新聞、煙草入、手紙、書物は、彼が置いたところにその通りに置いてある必要があり、ほんのすこし乱れていても苛立った。ドストエフスキーの妻アンナ夫人は夫の書斎の整頓に常に気を配って、夫を苛立たせないようにしていた。
作家はシスティナのマドンナを愛した
書斎を別角度から写
「14ヨハネ、イエスをとどめて言いけるは、われこそ汝より洗礼を受くべきなるに、なんぞ汝のわれに来れるや? 15されどイエス、答えて彼に言う。今はとどむるなかれ、けだしわれら……」
 妻のアンナがつづけて読もうとするのを、ドストエフスキーは目顔で制した。「今はとどむるなかれ、つまり、わたしは死ぬということだ」……
江川卓著『ドストエフスキー』
 この部屋のソファでドストエフスキーはその生涯を終えた。
 ソファの上の壁には作家が敬虔の目で仰いだラファエロの「サン・シストの聖母(マドンナ)」の複製画がかかっている。ペテルブルグの最晩年の家に移る前のペテルブルグ郊外のスターラヤ・ルッサの家でも、書斎のソファの上に「サン・シストの聖母」がかかっていたという。几帳面な性格だったドストエフスキーは、スターラヤ・ルッサからペテルブルグに移ってきたときも、前の住居と同じような部屋の感じにしたのだろうか。もしそうなら、作家は「サン・シストの聖母」に見守られつつ亡くなったといえるのかもしれない。
 ドストエフスキーは世を去る十三時間ほど前、アンナ夫人と「聖書占い」を行ない、作家の衰弱した手は、1823年版のロシア語訳新約聖書の「マタイ福音書」の3章の終りから4章を繰ることになった。その時の作家と夫人のやりとりが、上に引用したエピソードである。
食堂1
食堂
食堂2
食堂(奥に小さくサモワールが写っている)
 ドストエフスキーの日課は几帳面に規則正しく遂行された。深夜仕事をするたちで朝の四時か五時まで書き、それから書斎の寝椅子の上で寝た。十一時頃に起きると体操をし、ついで化粧室へ行き、石鹸とオー・デ・コロンを使って念入りに体を洗った。書斎にもどってこれまた念入りに身支度をした。祈祷がすむと食堂へ行き濃いお茶を二杯飲み、子供たちと話をし、三杯目は書斎に持っていき仕事をしながら飲んだ、という。上の書斎の写真にも、書斎机の上に小さく濃いお茶が写っている。
 食堂の一方から外が見渡せる。食堂にも絵画がかかっていたが、写真には写っていなかった。

ドストエフスキー記念館IIにつづく】     【もくじ】     【Contact