Санкт Петербург

右に見えるはトロイツキー橋
朝のネヴァ河とペトロパヴロフスク要塞

 ネヴァ河の夏の夜空があかるくすんで、かがみのような、しずかな水のおもてが月のすがたを宿さぬころに、わたしはオネーギンとともに、いかにしばしば、すぎさった年々のロマンスを思いうかべ、むかしの恋を思いうかべたことだろう。いかにしばしば、あたたかい心をとりもどし、憂いを忘れ、ものおだやかな夜のいぶきに、ことばなく、身をゆだねたことだろう。さながら夢見るとらわれ人が、ひとやから緑の森へつれ去られるように、わたしたちも空想のみちびくままに、青春の思いのなかに運ばれた。(『エヴゲーニイ・オネーギン』第1章47)
 年甲斐も無いのは承知しているが、いやっほぉーう!って感じだ!! 私はやっぱりサンクト・ペテルブルグはロシアで最高に美しい都市だと思う。私はこの町が大好きだ。見よ! 黎明のネヴァのほとりと、ペトロパヴロフスク聖堂の尖塔を!(笑)
 この都市こそ、ピョートル大帝がフィンランド湾に注ぐネヴァ河口のデルタを占領したことで、1703年5月16日に都市建設を始め、1712年にはロシアの首都に制定され、今でもロシア第二の都市でありつづけるサンクト・ペテルブルグなのだ。
 18世紀から20世紀初頭までロシアの首都だったサンクト・ペテルブルグは、18世紀以降の皇帝や、私の好きな19世紀のロシアの作家たちが活躍し、幾度も作品に詠われ、ときに小説の登場人物が「歩き回った」町でもあり、ロシアの画家たちも大いに活躍した町でもある。個人的思いからすれば、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』などでロシアの栄光や郷愁、国民感情を詠った詩人プーシキンが決闘に臨んでしまい亡くなった町であり、ドストエフスキーが借金に追われつづけた町であり、アレクサンドル2世がテロに遭遇して爆殺された町であり、クラムスコイの『見知らぬ女』の背景になっているネフスキー大通りのアニチコフ宮殿の前の被写体がある町でもあるのが、サンクト・ペテルブルグなのだ!

 朝の五時半にモスクワ駅に着いた我々は、早速、ペテルブルグの主な観光地を巡った。朝だからスイスイ周れて何よりだった。

 サンクト・ペテルブルグ名物の一つロストラの灯台柱(円柱)。「ロストラ円柱」とは、古代ギリシア・ローマにおいて海戦勝利の誇りとして拿捕(だほ)した敵艦船の船首「ロストラ」を切り取り、それを柱に装飾として固定したものを意味するそうだ。
 この円柱は海戦勝利記念柱でもあり、傍には海軍中央博物館がある。円柱の高さは32mで、ペテルブルグに来賓があったり催し物があるとき天辺に炎が燈される。

 この辺りはワシリエフスキー島岬で広大なネヴァ川が、《ストレルカ(砂嘴(さし))》によって大ネヴァと小ネヴァに分かれるところでもある。1805−16年にかけて、ロストラの灯台柱も含めこの辺りは建築家トマ・ド・トモンの設計によって整備された。

ロストラの灯台柱
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エイゼンシュテインの『十月』では荒らされていたイメージが…
 円柱は2本あり、花崗岩でできた台座にはロシアの四つの川、ヴォルガ、ネヴァ、ヴォルホフ(彫刻家ゼアン・チボウ)とドニエプル(彫刻家カンベルラン)を擬人化した石像が据えられている。
 この辺りは旧取引所広場でもあり、右に少しだけ写っている露店は白夜をたのしむ人のためだろう、朝でも営業していた。
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奥にはクンストカーメラが
 ロシアの大衆車ラーダ。ロストラ灯台柱の傍は昼になると恐らくレッカー移動されるだろう。右に見える黄土色の建物は動物学博物館、奥に見える塔は通称クンストカーメラ(人類学博物館)である。ピョートル大帝は自然の気紛れを証明する生物を集めて珍種の博物館をつくったが、その博物館がクンストカーメラである。
 放水車が道路をきれいにしながら、北に向かって走って行った(右の青い車)。
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ピョートル1世と元老院
 デカブリスト広場(元老院広場)にあるピョートル1世(大帝)の騎馬像は別名「青銅の騎士像:Медный Всадник」とも呼ばれるが、後者の呼び名の方がより有名だろう。後ろの黄色いきれいな建物は広場の西側に建つ元老院の建物。
 ロシアの歴代皇帝のなかで、ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ(ピョートル1世(大帝)とも呼ばれる,1672月5月30日−1725年1月28日)ほど魅力的で、ロシア国民に認知されている人物は居ないのではないかと思う。大帝のやる事なす事は良き結果にしろ悪い結果を招いたにしろ、とてもスケールが大きく段違いである。それに人間的魅力も大いに備えていて、憎めないところも多い。
 ピョートル大帝は列強するヨーロッパの国々に対抗するため、ロシアの西欧化(近代化)に着手した皇帝で知られる。近代化を促そうとするのと並行して、戦いで大勝したりこっぴどく大敗したり、戦の采配・結果も半端じゃないのだが、一旦国内の近代化を計ろうと決意した後の行動力は旺盛であった。
 大帝は歴代ロシアの皇帝のなかで、軍事遠征以外で初めて外国を訪問した皇帝でもあるのだ。その証拠にサンクト・ペテルブルグの建都が始まる前、数百人にもなる大使節団が結成され、モスクワ→プスコフ→リガ→ケーニスベルク→ベルリン→アムステルダム→ロンドン→アムステルダム→ウィーン→ラワ→モスクワの各都市を、外交も兼ねて約1年半かけて周っている。
 大帝はピョートル・ミハイロフの偽名を使い、友人のフランソワ・ルフォールを大使節団の名目上の責任者としたが、身長が2m03cm(身長も半端ではない!)もある大帝はすぐに正体がバレてしまい、はっきりいって御忍びの旅にはならなかった。そんなこともあって、大使節団は訪問する先々で手厚いもてなしを受けた。滞在したところでは、身長に見合う?分だけの大いに飲み食いをし、イギリスでは使節団員と共に邸宅で暴れ倒した記録もある。その被害状況といえば、被害額は350ポンド以上で、割られたガラスが300枚、破損した絵画が21点にのぼり、キッチンの床は爆破され、庭でバカ騒ぎをしたせいでヒイラギの生垣がめちゃめちゃになっていたという。粗暴といえば粗暴だが、果敢な行動力を支えるには、旺盛な食欲と有り余る体力も付随しなければならないってことか…。
 ただ大帝の偉いところは、もてなされるだけでなく、長い旅の中であらゆることを旺盛に学び、例えばアムステルダムに到着する前に当時の造船業の中心地で自ら泊り込んで働き、造船のノウハウを消化したりしている。その他、思想・学問も積み重ね、帰国するときには大量の武器や製図機器、工作機械、ワニの剥製などを詰めた大箱260個をたずさえていた。また多くの軍事専門家や専門技術者も連れて戻り、ロシア人にその技能を伝授させることもやってのける。
 大帝はあらゆることで並外れていたが、拡大した領地も半端ではない。それは1721年以降のピョートル1世の正式な称号が物語っている。「ピョートルT世,神の恩寵をうけた全ロシア,モスクワ,キエフ,ウラジーミルおよびノブゴロドの皇帝にして専制君主。カザンのツァーリ,プスコフの君主,スモレンスクの大公,エストニア,エヴォニア,カレリヤ,トベリ,ウグラ,ペルミ,ビャトカ,ブルガールその他諸公国の公。ニジニ・ノブゴロド,チェルニゴフ,リャザン,ロストフ,ヤロスラブリ,ベロオーゼロ,ウドリア,オブドリア,コンディアの君主にしてグルジアのツァーリ。カバルダ,チェルケスおよび山岳地域諸公の世襲君主ならびに宗主」。ピョートルの後継者は、この称号にフィンランド大公(1809年)と、ポーランドのツァーリ(1815年)を加えている。
 ピョートル大帝については他にもぶっ飛ぶエピソードがたくさんあるので、ページを追うごとに紹介していきたい。
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__← 青銅の騎士像の台座の文字。

__ピョートル1世へ
__エカテリーナ2世より
__ 1782年

__とある。
__この文字の向こう側にはラテン語で
__同じことが記されている。

 この騎馬像を作らせたのはヴォルテールとも仲の良かった「祖国の賢母」の称号をもつエカテリーナ2世(大帝)である。どうして像を作らせたのか?その理由として、エカテリーナ2世はドイツ出身の身で女帝になったので、自らをピョートル大帝の後継者であることを民に示さなければならなかったことが挙げられる。
 この像の台座の石は、フィンランド産の巨大な花崗岩なのだが、この巨岩を石切り場からサンクト・ペテルブルグに運ばせるのに約二年かかったとか。
 騎馬像が象徴するものについては、こちらなどのサイトを参照されたい。像の彫刻はフランスの彫刻家エティエンヌ・モーリス・ファルコネ(1716−91)の手によるものだが、彼が作業環境によく不平をもらしたことに怒ったエカテリーナ2世は、すでに帰国していたファルコネを除幕式に招待しなかった…。
後記:台座のラテン語表記は、

PETRO PRIMO
CATHARINA SECUNDA
MDCCLXXXII

 ピョートル1世の騎馬像はロシアの国民詩人プーシキンの物語詩『青銅の騎士』(1833年10〜11月に執筆,1837年公刊)によって、さらに有名になり、現在では「青銅の騎士像」として名を轟かせている。ちなみに私もこの騎馬像の存在を、物語詩とドストエフスキーの『分身』で知った。ピョートルの都を讃美しつつ、都市建設の犠牲者の意志と町との反目を描いた『青銅の騎士』はプーシキンの物語詩のなかでは一番だと私は思っている。なぜなら物語詩もプーシキンの自らの生涯や運命を、みごとに予兆・表現しているからだ。(しかし何たる皮肉か、プーシキンも思想面で関わっていたとされる、1825年12月14日の憲法制定を要求し起こった「デカブリストの乱」の地に、今も専制政治の象徴たるピョートル大帝の像が立っているとは…)
 物語詩のなかで、主人公エヴゲーニイが1824年の大洪水の際、とある大邸宅の守りの獅子像に跨って難を逃れる場面がある。私はその獅子像がどこにあるのか知りたくなり探したが、広場周辺に獅子像は見当たらず、また「さる邸宅の見上げるばかりの表階段」は見つけきれなかった。(一応、「獅子像」は海軍省通りのネヴァ川のほとりにあるが、その獅子像の位置から騎馬像は広場に茂る木々が遮って見えない。)現在のデカブリスト広場はよく整備されているし、やっぱり作品の書かれた当時のままの状態で像を眺めれるわけではなかった。
 夜行列車による疲れもあったが、この巨大な像を見るとピョートル大帝にまつわる何もかもが圧巻であることを思い知らされ、疲れも忘れるほどである。

 この騎馬像を見にロシア国内はもちろん、海外からも多くの人がやってくるようだ。朝であるにもかかわらず、私の他に像の傍で写真を撮っているロシア人の三人の家族連れに出会った。このとき、ロシア人から初めて「シャッター押してください」と頼まれて、なんだか嬉しかった。私のカメラで一緒に写ってくれるよう頼むと、快く了解してくれて、とてもいい思い出になった。

像は北を、スウェーデンを向いている…
青銅の騎士像
後記:
のちに調べた結果、『青銅の騎士』の主人公エヴゲーニイが跨って洪水をやりすごした獅子像とその邸宅は、

ДОМ СО ЛЬВАМИ
(ДОМ А.Я.ЛОБАНОВА−РОСТВСКОГО).
1817−1820гг.,арх.О.Монферран;скульп.П.Трискорни
Адмиралтейский просп.,12

の所在地に現存している可能性が高いです。場所はイサク広場とヴォズネセンスキー大通りと海軍省大通りが囲んでいるブロック、地図上ではイサク大聖堂の右にある海軍省大通りに面した建物(海軍省大通り12番地)です。
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うしろに見えるはイサク大聖堂
 花束が青銅の騎士像の前に捧げられている。これはペテルブルグで結婚式を挙げた新郎新婦が、教会を出た後に、青銅の騎士像にブーケを捧げに来る習慣がいつしか定着したものだそうだ。ということはペテルブルグでは、花嫁が高いところや後ろを向いて未婚女性の集団に向かってブーケを投げるようなことは無い????
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