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ネフスキー大通りに面するカザン聖堂。右の像はバルクライ・デ・トーリィ元帥(1761−1818)。 |
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イワン雷帝がカザンを襲撃した際に獲得した『聖母マリア』のイコンに因んで名づけられたカザン聖堂。建立を命じたのは、皇太子の頃にローマを訪れていたパーヴェル1世(1754.9.20−1801.3.12)である。それにしても、建物自体どこかで見たことあるなぁと思ったかたもいると思う。そう、カザン聖堂はローマのサン・ピエトロ大聖堂や広場を、ローマ・バロック建築をモデルにしているのだ。
起工式は1801年8月、建設には10年もかかったので、ミハイル城で殺害(暗殺?)されてしまったパーヴェル1世が聖堂を目にすることはなかった。 カザン聖堂の設計は、芸術アカデミーの総裁ストロガノフ伯の協力により、建築家A・ヴォロニーヒンが手がけた。聖堂の構造は、各列に24本の石灰岩造りの柱が並ぶ半円形回廊の壮大なスケールで強調されている。聖堂の正面中央には六柱のポーティコ(前廊)があり、その上方のペディメント(三角形の飾り壁)には神の目≠象徴した金メッキの浮彫りがあるという、質素に見えるようでかなり凝った聖堂である。 |
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バルクライ・デ・トーリィ元帥(バルクライ将軍とも)とは、ロシアで英雄視されている軍人で、1812年のナポレオンのロシア進攻の際、時の皇帝アレクサンドル1世から軍の指揮を委ねられ、ナポレオンに対し攻勢に出るまでの準備期間を稼ぎ出した知将である。尤もバルクライ将軍は先祖がスコットランド人であったことから、宮廷や軍から疑いの目で見られたこともあった。また軍の指揮においてはその慎重な性格から、自軍をうまく撤退させる重要な作戦を実行したが、それは周囲に理解されることなく却って非難を受け、皇帝から仕方なく更迭させられるという憂き目に遭った。
バルクライ将軍の後を引き継いだ老将ミハイル・クトゥーゾフ将軍は一時的にモスクワを放棄するという大きな犠牲を払いつつも、ナポレオン軍を敗走させた。カザン聖堂の前にはバルクライ将軍とクトゥーゾフ将軍これら二人の指揮官を称えた像がある(写真に写っているのはバルクライ将軍の像のみ) ちなみに現地ガイドのサヴィーナさんの話しでは、ロシアの町で見かける記念碑や像は、文化人が多いそうである。作曲家、バレエダンサー、作家(詩人も含む)などか。また皇帝や政治家や軍人の記念碑や像も多いそうだ。 |
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ラストレッリ広場のラストレッリとは建築家の名前で、彼の為し遂げた多くの驚くべき業績については、だいぶあとの方で触れようと思う。
ラストレッリ広場のある辺りはスモールヌイといい、この辺りには1917年の10月革命の際の、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、ソビエト政権樹立宣言が行なわれた場所でもある。だから近くには、10月革命に由来する建物や、レーニンやエンゲルスやマルクスの像があったりする。 |
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← 修復中だったので残念だったが、本当はとてもきれいなスモールヌイ修道院。修道院を設計したのがラストレッリ(1700〜71)である。なお、修道院中央のこの聖堂の修復前の姿はこちら(ロシアン・リポートのミチコさん写)。
修道院は1748年にエリザヴェータ女帝(在位1741〜1761)が建てさせた。スモールヌイの名は「タール」を意味するロシア語に由来する。この修道院の敷地がピョートル大帝の時代にタールを製造していたことに、ちなんでいる。
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修道院はとても大きい。いまではコンサートホールとお土産屋さんになっているとか。
私が行ったこの時間には低い雲が流れていて、空の青さと修道院の青色が旅行雑誌の写真とはまた違うように目に映り、一部修復中ではあったにしろ修道院は印象に残った。 |
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スモールヌイを見学した後、朝食のためネフスキー大通りに向かった。その途中、町のいくつかの掲示板に日本の歌舞伎の宣伝があることに気がついた。あとで分かったのだが、近松門左衛門の浄瑠璃の一つ、『曽根崎心中』の公演のお知らせだった。
朝食は、朝から開いていたカザン聖堂近くのレストランで摂った。バイキング形式で観光客も多いかもと思いきや、ほとんどロシア人が利用していた。流れていた音楽はロシア民謡とかではなくて、ビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」、ロッド・スチュワートの「セイリング」など、いわゆる洋楽のポップスだったので、どうしてロシアに来てまでと思ったのが正直なところだ。 朝のネフスキー大通りはとても空いていた。このときにこのページの一番上のカザン聖堂の写真を撮っておいてよかった。ペテルブルグの天気は、この日と最終日を除いて、すべて曇りか雨だったからだ。
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朝食の後に向かったマルス広場。写真は西の方向にロストラの灯台柱を確認していると、広場に黒い鳥が舞い降りたので撮ったもの。
広場の地名は、ドストエフスキーの『罪と罰』にも登場する。 しだいに彼は、《夏の園》を軍神(マルス)の原いっぱいに広げ、さらにミハイロフスキー御苑とつづけたら、たいへん美しい景色になるし、町にとっても非常に有益だろうと確信するようになった。
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マルス広場。ここには1917年の革命の犠牲になった人々の慰霊碑がある。簡素な構成で周囲と調和しているのがいい。
慰霊碑から、スパス・ナ・クラヴィー聖堂を望むことができる。ガイドブックを見ていると、一つひとつの場所について、いかにも離れているような印象を受けるときがあるが、右のように、ちょっと歩けばすぐに観光名所に行けちゃうという場合もけっこうある。だから現地の地図があると非常に便利なことも……。 |
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何気ない木だが、無意志的記憶に刻まれるのかも…。 |
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永遠の火は1957年の十月革命40周年の年から燃えているという。近くに寄れば、炉のしたからシューシュー音が聞こえ、ガスが噴きだしていた。
世界中どこだってそうなのかもしれないが、いわゆる犠牲者の慰霊碑やその周辺は、とてもきれいに整備されているように思える。 ドストエフスキーは若い頃、工兵学校に通っていたが、その建物が写真の左上に写っている尖塔(現ミハイル城)である。尤も工兵学校は、アレクサンドル1世が1822年にミハイル城を下げ渡した建物であった。つまりミハイル城は、アレクサンドル1世時代に工兵学校になり、現在またミハイル城となったわけである。
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現地ガイドさんにいわく、スパス・ナ・クラヴィー聖堂の場所が、偶然にも1866年4月に夏の園にてアレクサンドル2世暗殺未遂事件を起こした貴族の学生カラコーゾフの処刑場所でもあるとのことだったが、実際にカラコーゾフが処刑されたのは、こことはかけ離れたスモーレンスコエの原であった。(カラコーゾフの処刑場について、『アレクサンドル二世の生涯と治世』の歴史官タチーシチェフは、ペトロパヴロフスク要塞の斜堤と記しているが、レーピンは『ヴォルガの舟ひき』のなかで、ワシリエフスキー島のスモーレンスコエの原だったと記している。私はレーピンの証言に従っている)
→ の写真は血の上の教会の北側だが、観光名所ということで、ペテルブルグの都市の本や切手や絵葉書を売りに来るロシア人も多くいた。 |
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← コニュシェンナヤ広場(カタカナ表記が間違っていかもしれないので、КОНЮШЕННАЯ ПЛ.と一応書いておきます)。
中央に半円形回廊になっている茶色い聖堂が写っているが、これが拙訳でいう「救世主奇蹟聖堂」?である。原語を書いておくと、 СПАСА НЕРУКОТВОРНОГО ОБРАЗА。 バスに遮られて写っていないが、写真の右側にロシアのお土産を売る野外マーケットがあって、そこでの買い物の際は、相手の言い値をじかに受け入れてはならない(笑)。 |
後記:
浅学なところからの推測であるが、ひょっとすると↑の聖堂は、プーシキンの葬儀が行なわれた聖堂の可能性がある。文学全集の解説や『プーシキン伝』で、詩人の葬儀は1837年2月1日にコニュシェンナヤ聖堂でささやかに行なわれたとあるからだ。ちなみに↑の聖堂は詩人が息をひきとった家から歩いてすぐの場所にある。 詩人の葬儀は最初イサク大聖堂で行なわれる予定であったが、詩人の死のニュースと葬儀に集った群衆が町にどのような影響を及ぼすか警戒した当局の命令で、急きょコニュシェンナヤ聖堂に変更された。葬儀には許可証をつけた人間しか入場できず、プーシキンを心から愛していた民衆のほとんどは聖堂の外で葬儀を見守っていたそうである。 |
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