Санкт Петербург

像はБ.И.オルロフスキー作(1837)
ネフスキー大通りに面するカザン聖堂。右の像はバルクライ・デ・トーリィ元帥(1761−1818)。
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 イワン雷帝がカザンを襲撃した際に獲得した『聖母マリア』のイコンに因んで名づけられたカザン聖堂。建立を命じたのは、皇太子の頃にローマを訪れていたパーヴェル1世(1754.9.20−1801.3.12)である。それにしても、建物自体どこかで見たことあるなぁと思ったかたもいると思う。そう、カザン聖堂はローマのサン・ピエトロ大聖堂や広場を、ローマ・バロック建築をモデルにしているのだ。
 起工式は1801年8月、建設には10年もかかったので、ミハイル城で殺害(暗殺?)されてしまったパーヴェル1世が聖堂を目にすることはなかった。
 カザン聖堂の設計は、芸術アカデミーの総裁ストロガノフ伯の協力により、建築家A・ヴォロニーヒンが手がけた。聖堂の構造は、各列に24本の石灰岩造りの柱が並ぶ半円形回廊の壮大なスケールで強調されている。聖堂の正面中央には六柱のポーティコ(前廊)があり、その上方のペディメント(三角形の飾り壁)には神の目≠象徴した金メッキの浮彫りがあるという、質素に見えるようでかなり凝った聖堂である。
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 バルクライ・デ・トーリィ元帥(バルクライ将軍とも)とは、ロシアで英雄視されている軍人で、1812年のナポレオンのロシア進攻の際、時の皇帝アレクサンドル1世から軍の指揮を委ねられ、ナポレオンに対し攻勢に出るまでの準備期間を稼ぎ出した知将である。尤もバルクライ将軍は先祖がスコットランド人であったことから、宮廷や軍から疑いの目で見られたこともあった。また軍の指揮においてはその慎重な性格から、自軍をうまく撤退させる重要な作戦を実行したが、それは周囲に理解されることなく却って非難を受け、皇帝から仕方なく更迭させられるという憂き目に遭った。
 バルクライ将軍の後を引き継いだ老将ミハイル・クトゥーゾフ将軍は一時的にモスクワを放棄するという大きな犠牲を払いつつも、ナポレオン軍を敗走させた。カザン聖堂の前にはバルクライ将軍とクトゥーゾフ将軍これら二人の指揮官を称えた像がある(写真に写っているのはバルクライ将軍の像のみ)
 ちなみに現地ガイドのサヴィーナさんの話しでは、ロシアの町で見かける記念碑や像は、文化人が多いそうである。作曲家、バレエダンサー、作家(詩人も含む)などか。また皇帝や政治家や軍人の記念碑や像も多いそうだ。
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ラストレッリは偉大な建築家
ラストレッリ広場
 ラストレッリ広場のラストレッリとは建築家の名前で、彼の為し遂げた多くの驚くべき業績については、だいぶあとの方で触れようと思う。
 ラストレッリ広場のある辺りはスモールヌイといい、この辺りには1917年の10月革命の際の、レーニンを中心とする作戦本部が置かれ、ソビエト政権樹立宣言が行なわれた場所でもある。だから近くには、10月革命に由来する建物や、レーニンやエンゲルスやマルクスの像があったりする。
修復中のスモールヌイ修道院
修復中の……。
← 修復中だったので残念だったが、本当はとてもきれいなスモールヌイ修道院。修道院を設計したのがラストレッリ(1700〜71)である。なお、修道院中央のこの聖堂の修復前の姿はこちらロシアン・リポートのミチコさん写)。

 修道院は1748年にエリザヴェータ女帝(在位1741〜1761)が建てさせた。スモールヌイの名は「タール」を意味するロシア語に由来する。この修道院の敷地がピョートル大帝の時代にタールを製造していたことに、ちなんでいる。
 ピョートル大帝の娘であるエリザヴェータ女帝については、評価が分かれるところであろうが、有名なエピソードとしてはロシアの宮廷を、ベルサイユに匹敵する文化とファッションの中心地にしようと決意したあまり、女帝よりドレスや容姿に秀でた女性なら誰であろうと罰を受けさせたことだろうか。女帝の死後、夏宮のクローゼットに15,000点のドレスが発見されたことも、その決意を物語っている…。(もちろん、女帝は贅沢三昧ばかりに耽っていたわけではなく、政治もそれなりに行なっていた)
 エリザヴェータ女帝は、ファッションへの貢献のほかには現在サンクト・ペテルブルグに残る多くの有名な建造物を建てさせた業績もある。

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雲が流れていた
スモールヌイ修道院
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 修道院はとても大きい。いまではコンサートホールとお土産屋さんになっているとか。
 私が行ったこの時間には低い雲が流れていて、空の青さと修道院の青色が旅行雑誌の写真とはまた違うように目に映り、一部修復中ではあったにしろ修道院は印象に残った。
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 スモールヌイを見学した後、朝食のためネフスキー大通りに向かった。その途中、町のいくつかの掲示板に日本の歌舞伎の宣伝があることに気がついた。あとで分かったのだが、近松門左衛門の浄瑠璃の一つ、『曽根崎心中』の公演のお知らせだった。
 朝食は、朝から開いていたカザン聖堂近くのレストランで摂った。バイキング形式で観光客も多いかもと思いきや、ほとんどロシア人が利用していた。流れていた音楽はロシア民謡とかではなくて、ビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」、ロッド・スチュワートの「セイリング」など、いわゆる洋楽のポップスだったので、どうしてロシアに来てまでと思ったのが正直なところだ。

 朝のネフスキー大通りはとても空いていた。このときにこのページの一番上のカザン聖堂の写真を撮っておいてよかった。ペテルブルグの天気は、この日と最終日を除いて、すべて曇りか雨だったからだ。
 また5月末のペテルブルグの誕生際の期間や、世界のVIPを招いた300周年記念式典の時期のあとだったことがなによりだった。お祭りの特別期間内に風船で飾られた聖堂や宮殿で彩られた町は、本来のサンクト・ペテルブルグの姿ではない。そんなものが飾られていない町こそ、本来のサンクト・ペテルブルグだと私は爺様くさいが思っている。

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何の鳥だろうか  朝食の後に向かったマルス広場。写真は西の方向にロストラの灯台柱を確認していると、広場に黒い鳥が舞い降りたので撮ったもの。
 広場の地名は、ドストエフスキーの『罪と罰』にも登場する。

 しだいに彼は、《夏の園》を軍神(マルス)の原いっぱいに広げ、さらにミハイロフスキー御苑とつづけたら、たいへん美しい景色になるし、町にとっても非常に有益だろうと確信するようになった。

『罪と罰』第一部の六
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 マルス広場。ここには1917年の革命の犠牲になった人々の慰霊碑がある。簡素な構成で周囲と調和しているのがいい。
 慰霊碑から、スパス・ナ・クラヴィー聖堂を望むことができる。ガイドブックを見ていると、一つひとつの場所について、いかにも離れているような印象を受けるときがあるが、右のように、ちょっと歩けばすぐに観光名所に行けちゃうという場合もけっこうある。だから現地の地図があると非常に便利なことも……。
ここからの眺望の方がきれいという人も
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いつしか忘れ去ったもの…
何気ない木だが、無意志的記憶に刻まれるのかも…。
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左奥にミハイル城
マルス広場の永遠の火
 永遠の火は1957年の十月革命40周年の年から燃えているという。近くに寄れば、炉のしたからシューシュー音が聞こえ、ガスが噴きだしていた。
 世界中どこだってそうなのかもしれないが、いわゆる犠牲者の慰霊碑やその周辺は、とてもきれいに整備されているように思える。

 ドストエフスキーは若い頃、工兵学校に通っていたが、その建物が写真の左上に写っている尖塔(現ミハイル城)である。尤も工兵学校は、アレクサンドル1世が1822年にミハイル城を下げ渡した建物であった。つまりミハイル城は、アレクサンドル1世時代に工兵学校になり、現在またミハイル城となったわけである。
 ミハイル城を建てさせたのはパーヴェル1世(在位1796〜1801)。パーヴェルはミハイル城を完成させるため、イサク大聖堂の再建の建設工事用の大理石の転用まで行なった。いかにパーヴェルが暗殺を恐れて、早く要塞化された居城に移りたがっていたかが分かる。しかし、パーヴェルはミハイル城に移住して、わずか三週間後にその城で殺害(暗殺?)された。

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北側ファザード
スパス・ナ・クラヴィー聖堂
← 北の方角から撮ったキリスト復活聖堂。俗称スパス・ナ・クラヴィー聖堂(血の上の教会)。この聖堂は意外と歴史が浅く、起工されたのは1883年9月なのだ。それから24年かけて聖堂は完成した。

 この聖堂はサンクト・ペテルブルグを扱った旅行ガイドに必ずといっていいほど載っている。私が行った日にも多くの観光客が教会の周りに見学にきていたし、中に入るチケットを求める列も早くから出来ていたように思う。

 聖堂のある場所は、1881年3月1日にアレクサンドル2世がテロリストの爆弾を受け致命傷を負った場所として知られる。テロリストのニコライ・ルィサコフは冬宮にもどる皇帝の馬車の下に爆弾を投げつけたが皇帝に怪我はなかった。皇帝が馬車から降りて、負傷者の手当てをし、ルィサコフを尋問しようとしたところを、ひそんでいたイグナチー・グリネヴィツキーが2発目の爆弾を皇帝の足元に投げつけた。爆弾は爆発し、皇帝は致命傷を負った。重体で冬宮に運ばれた皇帝は、数時間後、息をひきとった。
 聖堂は皇帝が爆殺された現場の上に建てられたので「血の上の教会」と呼ばれている。聖堂は皇帝殺害の贖罪と、皇帝の26年の治世を記念して、民衆の献金で建てられた、としている書物もあるが、アレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世(在位1881−94)の命令としている書物もある。私はおそらくアレクサンドル3世の命令が強くはたらいたことだろうと思っている。

 時代の流れに対し、かえって逆行するような政策を押し進めてしまったアレクサンドル3世やその臣下は、先帝を称える記念碑的建造物をも、保守的なものにするような意向を表したのだろうか。皮肉にもその意向は、ゲーやスリコフやレーピンら19世紀後半のロシアレアリスムの画家たちが積極的に取り入れた、ピョートル大帝時代よりも前の時代への回顧(テーマ)ともダブってしまう……。
 アレクサンドル2世の崩御のあとの制裁についてはいろいろ考えさせられることがある。民衆を統制する側は国内が混乱していても、かえって民衆への締付を強めてしまうことがあるものだ。とかくロシアのあちこちでテロや一揆が勃発し、時代は変化しつつあることが分かっていても…。
 文豪レフ・トルストイはアレクサンドル3世に皇帝殺害犯たちの助命を嘆願する手紙を書いた。
「陛下、ご自身と神の前に純粋無垢であられますあなたは、いま重大な岐路に立たされております。(略)もしも、あなたがあの殺人犯に恩赦をあたえず、処刑されたとしても、それは数百人のうちの3、4人を始末するだけに終わります。悪は悪を生み、あの3、4人に代わって、30人、40人もの殺人者が現われてくることでしょう。(略)革命家には死刑など効果はありません。重要なのは人数ではなく、思想なのです。彼らと戦うために、あなたは思想という場で対決しなければなりません。彼らが理想とするのは、万人の幸福と平等と自由です。それと戦うためには、もっと進歩的で、もっと優れた、もっと壮大な思想がなければなりません」(1881年3月)
 無論、アレクサンドル3世は父親を殺害されたわけであるから、心中察するに余りある。しかし、この嘆願がアレクサンドル3世の目に届かなかったことで、その後の混乱に拍車がかかった気もするのである。私は統制する者の責任というものを考えざるを得ない……。
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 現地ガイドさんにいわく、スパス・ナ・クラヴィー聖堂の場所が、偶然にも1866年4月に夏の園にてアレクサンドル2世暗殺未遂事件を起こした貴族の学生カラコーゾフの処刑場所でもあるとのことだったが、実際にカラコーゾフが処刑されたのは、こことはかけ離れたスモーレンスコエの原であった。(カラコーゾフの処刑場について、『アレクサンドル二世の生涯と治世』の歴史官タチーシチェフは、ペトロパヴロフスク要塞の斜堤と記しているが、レーピンは『ヴォルガの舟ひき』のなかで、ワシリエフスキー島のスモーレンスコエの原だったと記している。私はレーピンの証言に従っている)

→ の写真は血の上の教会の北側だが、観光名所ということで、ペテルブルグの都市の本や切手や絵葉書を売りに来るロシア人も多くいた。

裏には屋外マーケットがある
カラコーゾフの処刑場と思い込んでしまい撮った……
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プーシキンのミサが行なわれたかも
「救世主奇蹟聖堂」と訳してよいのか…?
← コニュシェンナヤ広場(カタカナ表記が間違っていかもしれないので、КОНЮШЕННАЯ ПЛ.と一応書いておきます)。
 中央に半円形回廊になっている茶色い聖堂が写っているが、これが拙訳でいう「救世主奇蹟聖堂」?である。原語を書いておくと、
СПАСА НЕРУКОТВОРНОГО ОБРАЗА
 バスに遮られて写っていないが、写真の右側にロシアのお土産を売る野外マーケットがあって、そこでの買い物の際は、相手の言い値をじかに受け入れてはならない(笑)。
後記:
 浅学なところからの推測であるが、ひょっとすると↑の聖堂は、プーシキンの葬儀が行なわれた聖堂の可能性がある。文学全集の解説や『プーシキン伝』で、詩人の葬儀は1837年2月1日にコニュシェンナヤ聖堂でささやかに行なわれたとあるからだ。ちなみに↑の聖堂は詩人が息をひきとった家から歩いてすぐの場所にある。
 詩人の葬儀は最初イサク大聖堂で行なわれる予定であったが、詩人の死のニュースと葬儀に集った群衆が町にどのような影響を及ぼすか警戒した当局の命令で、急きょコニュシェンナヤ聖堂に変更された。葬儀には許可証をつけた人間しか入場できず、プーシキンを心から愛していた民衆のほとんどは聖堂の外で葬儀を見守っていたそうである。

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