Государственный Эрмитаж

宮殿広場とアレクサンドルの円柱
宮殿広場とアレクサンドルの円柱
 マチスなどがある部屋の窓から外を望むと、左のような景色が眼に飛び込んできた。エイゼンシュテインの映画『十月』でエルミタージュから跳ね上がる宮殿橋が望めるように、ここからは宮殿広場が望めるのだ。宮殿広場は観光パンフレットにあるように晴れていてもきれいなのだが、私は雨の日でも悪くないと思う。雨の日は人が少なくなるせいで、広場の別の顔が見れるというか、雨の日は雨の日で情緒がありはしないかと思えるのである。
 宮殿広場もロシアの歴史と深くかかわっている場所である。近代化に着手したアレクサンドル1世(在位1801〜1825)やニコライ1世(在位1825〜1855)はともに建築家を庇護しただけでなく、積極的に建築計画に関わった。さらに建物を含む全体の環境まで整備しようとし、アレクサンドル1世は、ペテルブルグの建築工事を監督する「建築及び水力工事担当委員会」を設けて、その影響力はロシア全土におよんだ。
 そのアレクサンドル1世は、こちらのロシア美術館の設計でもふれた、イタリア人の血を引く建築家カルル・イワノヴィチ・ロッシに依頼して、現エルミタージュ美術館の冬宮の陸地に面した側に広場を造らせた。(ところで、モスクワのクレムリン内の聖堂スモールヌィ修道院、現エルミタージュ美術館の冬宮、芸術広場、ペテルブルグ郊外のエカテリーナ宮殿などなど、ロシアの歴史的建築物にはイタリア人やイタリアの血を引く人間も、けっこう関わっているんだなぁと思える。)
 敷地の広さは充分だったが、そこにはモイカ運河とネフスキー大通り、そしてさまざまな形をした住宅が建っていて、広場は歪(いびつ)な形をしていた。
 ロッシはそれらの建物を、財務省や外務省、参謀本部などの庁舎と中庭が集まった場所に変えた。そのうえで全体を弧を描いた長いファザード(建物の正面)でつなぎ、その中間に写真の中央左に写る凱旋門を置いたのである。
 写真の背景になっている広場を囲む飾り気のない建物は、1829年に完成した。華やかなロココ様式の冬宮とは好対照を見せている。

 ドイツ美術のセクションを探すのに時間がかかった。ようやく見つけたのはいいが何とクローズで、せっかく楽しみにしていたカスパル・ダヴィッド・フィリードリヒの『リーゼンゲビルゲ』『夜の港(姉妹)』『帆船の上にて』『海上に昇る月』は見ることができなかった。広い美術館では、ときどきこういうことがあるので、できるなら事前に情報を仕入れておきたいものである。
 一応、2時に再度集合することになっていたので、昼食を兼ねるつもりで集合場所に向かった。すると私の姿を見た添乗員さんが、食べきれなかった未開封の大きいパンをくれたので、あとはカフェにてトマトジュースを買って昼食を済ませた。カフェ内は混んでいて外国人と相席をしたが、絵画談義は成立しなかった。
 昼食後、なんだか疲れてきて見るべきものは見たという気分になり、館内にいる日本人の団体に話し掛けたりしたのだが、相手の人もあの歌舞伎公演の関係者だったりして、いくら役者さんであろうが観光する場所は同じなんだなぁと思ったりしたものである。
 その後は手にしたドイツ語のパンフレットでも建物の構造自体が、いまいち理解できなかったこともあったので、あとは気ままにフラフラしていた。そうしている間に、ロシア文化のセクションに足を踏み入れた。

ジャン=マルク・ナティエ『ピョートル1世』(1717)
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壁にかかっているのはタピスリーである
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渾天儀(こんてんぎ)
ロシアの海軍の栄光を謳う版画
 ロシア文化の部屋は多くて、画像にしている分はほんの一部である。不勉強なので多くは書けないがナティエの『ピョートル1世の肖像』や、ピョートル大帝が執着した歯の治療具(あわれにもその抜歯の犠牲になったのは臣下の人間(笑))、歴代のコインや勲章、歴史を謳った版画や海船の模型、皇帝が集めたり使ったりした彫刻や珍品、物入れなどなど、冬宮で有名な皇帝の栄華を誇る部屋や絵画以外の、もう一つのエルミタージュを魅力を味わえた。それは博物館としてのエルミタージュの魅力といっていいかもしれない。
 マイナーな話だが、18世紀前半のペテルブルグの急速な変貌の過程を知るのに最適なものに版画がある。右の写真にあるようなものがそうだ。
 ロシア人に銅版画を教えたのはオランダ人のA.シホネベクとP.ピカルトで、彼らは新時代の版画の発展に貢献した。シホネベクに師事したロシア人版画家アレクセイ・ズーボフ(1682or83〜1750頃)は、力強い新都建設の様相や、海戦のようすなどを新興海軍国ロシアの栄光の歴史を格調高く表現している。
 18世紀中葉になると、主にペテルブルグの風景を素描したミハイル・マハーエフ(1718〜1770)という逸材も世に出る。ズーボフやマハーエフが描く版画の風景は、ペテルブルグの歴史の1ページであるといえる。図版については、小学館『世界美術大全集18 ロココ』(1996)のp303〜304に詳しい。
 と、ここまで書いておいてなんだが、上の写真の数枚の版画がズーボフやマハーエフのものかは、失念して分からない。せいぜい『世界美術大全集18 ロココ』にある図版の年代と近かったことを記憶しているというだけに留めざるを得ないのだが、昔の地図や版画は本当に時代を感じさせノスタルジックな気分にさせるので好きだ。
 上の写真のことで印象に残っているのは、母親が子供に版画の船を一つひとつ指差して、船名を教えていたことだった。自国の都市の歴史について、勤勉な親子もいるのだなあと正直感心してしまった。
 左は冬宮の2階にある図書館である。よく知られている輝かしい皇帝政治の跡を記した部屋ではなく、静かで落ち着いた雰囲気の図書館もあるところがいい。これは、エカテリーナ2世がたいへんな読書家であったことを物語っている。
 右は、皇帝一家の家族の肖像で、中心にあるのはきっとエカテリーナ2世だと思うのだが、正確なところは調べていないので分からない。確実に分かるのは、右下の緑の服を着た少年の肖像で、彼はエカテリーナ2世と、彼女が帝位を奪った際のクーデターで重要な役割を演じた人物近衛士官グリゴリー・オルロフとの間の子供アレクセイ・グリゴーリエヴィチ・ボブリンスキーである。(絵は、カール・ルードヴィヒ・クリステネクの筆によるもので、制作年は1769年)
 女帝の愛人は分かっている限りで12人いるが、グリゴリー・オルロフとの関係は1761年より11年間続いた。女帝にとって近衛士官と関係を深めることは、軍隊からの支持を安定させる重要な意味ももっていたが、オルロフとは精力もさることながら人間的な魅力もあって関係が続いたといわれている。女帝はオルロフのためにリナルディ設計の有名な大理石宮殿(オルロフの宮殿:現ロシア美術館別館)を建てさせるなど、その寵愛ぶりはとても深かった。女帝は我が子アレクセイ・グリゴーリエヴィチ・ボブリンスキーにも、領地を委ねている。
聖ゲオルギウスの竜退治の場面を彫った橇
 左はキリスト教の聖人伝説では御馴染みの聖ゲオルギウス(ロシアでは聖ゲオルギー)の竜退治の彫刻を施した橇で、この絵になる場面はロシアのパトカーの紋章に用いられていたりする。
 ゲオルギウスはカッパドキア出身の騎士で、あるときリビュアの町シレナに立ち寄った。町の近くには、海のように大きな湖があって、毒をもった竜が棲んでいた。その竜は町に悪疫を蔓延させたりして散々悪さを働いていた。手におえない竜に対し、町の人間は竜に生贄の羊をささげたりしていたが、羊が足りなくなると、王はくじ引きで人間をささげる命令をだす。ある日、王の一人娘がくじに当たり、王はいやがるが、言い出しっぺは王だろうと真剣な民衆の手前、王は王女にきれいな服を着せてしぶしぶ竜の棲む湖に送り出す。
 その時、湖のそばを偶然通りかかったのが騎士ゲオルギウスで、王女から話を聞いた彼は竜を退治して捕えた。彼と王女は竜を町に持ち帰り、彼は人々に「私は神からこの竜退治を行なうために使わされた。キリストを信じてみんな洗礼を受けるなら、竜を殺してあげよう」などと、たまたま通りがかっただけのくせに半分以上強迫まがいなことを言うのである。彼の言うことを聞いて、王がまっさきに洗礼を受け、全住民もこれにならったので、竜はゲオルギウスに殺された。
 他にはローマでディオクラティアヌスが皇帝だった頃、裁判官ダキアヌスの迫害や拷問に屈せず、ダキアヌスの妻アレクサンドラを改宗させたことで殉教したなどの伝説に彩られている聖ゲオルギウスであるが、上の竜退治のようなこの手のパターンの話はとても娯楽になりやすく、同時に絵になりやすい。中世のイコンやルネッサンス以降の画家もこの題材を用いて、たくさんの作品を描いている。

 右はきっと皇帝たちが使用していた時計である。多くの職人の手がかかっていて、シンプルなようで贅をつくしている逸品だそうだ。

 ところ狭しと帝政ロシア軍の武器や甲冑などが置かれていた部屋、その他いろんな展示があったが、たくさんありすぎてとても書けない。


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