極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
イタリアの封鎖突破船

 1940年6月10日、イタリアの参戦に伴いイタリア商船はイギリス海軍の拿捕を逃れて中立国の港に避難しており、極東海域でも日本や上海など安全な港に停泊してヨーロッパの戦況を注視していました。北海の奥にあるドイツ本国の港や、地中海のイタリア本国の港への帰還は事実上不可能でしたが、1940年6月以降、ボルドー港等のフランス大西洋岸の諸港がドイツ軍に占領されると1940年12月からドイツ船によるヨーロッパへの戦略物資の輸送が開始されました。
 1941年10月までに9隻の封鎖突破船が極東の港を出発しており、このうち3隻は途中で発見されて撃沈され、1隻は拿捕されたものの、5隻が首尾よくボルドーの港に到着して貴重な戦略物資を運ぶことに成功していました。このように封鎖突破船といえばドイツ船の印象ですが、イタリアも封鎖突破船による物資輸送に参加することとなり、この頃中国大陸と日本の港に停泊中の少なくとも7隻のイタリア船の候補の中から優秀船3隻が選抜されることとなりました。

コルテラッツオ(Cortellazzo)
ピエトロ・オルセオッロ(Pietoro Orseolo)
フジヤマ(Fusijama)
□カリテアII(Calitea II)
□カリニャーノ(Carignano)
□ヴェネツィア・ジュリア(Venezia Giulia)
□アダ(Ada)
□コンテ・ヴェルデ(Conte Verde)

 この中から「コルテラッツオ」、「ピエトロ・オルセオッロ」、「フジヤマ」の3隻が選抜されて封鎖突破船としての準備が進められました。


折角なので他の船についても少し紹介しましょう。

□カリテアII(Calitea II)は総排水量3,685トン、1937年9月にバナナ用貨物船「ラム II」として建造され、ソマリランド~イタリア~南西ヨーロッパの航路に就航していました。このラム級貨物船はイタリア領ソマリランドからヨーロッパに向けてバナナを新鮮なまま高速で輸送するために建造され、巡航速力の17ノットで航行可能な優秀船でした。このため海軍に徴用されて仮装巡洋艦「ラムII」として紅海艦隊に所属していましたが、通報艦「エリトレア」とともに脱出して1941年3月から神戸港に停泊していました。当時中立国であった日本は外交上イギリスからの中立違反の指摘を極度に警戒しており、仮装巡洋艦「ラムII」は武装を撤去して船名も「カリテアII」へと改名し、一般商船として扱われました。「カリテアII」は生鮮食品輸送用の設備を有していることから補給艦としても有力であり、さらに仮装巡洋艦として紅海艦隊に配属されていたためイギリス海軍にとってはお馴染みの存在であり、封鎖突破船としては不向きだったのかもしれません。

 1941年(昭和16年)12月、日本が正式に参戦したことにより、「カリテア II」と「エリトレア」はやっとイタリア極東艦隊としての活動が可能となり、船団護衛や極東まで来航した潜水艦への補給任務を行いました。1942年9月から日独伊軍事協定により「カリテア II」はイタリア海軍の乗員のまま日本側の運行管理下となり、冷蔵庫の増設工事を受けたのち、11月からは給糧艦「生田川丸」として運用され、1943年4月にはマノクワリ~アンボン、6月にはマカッサル~バリクパパン、8月にはバリクパパン~基隆~門司~呉へと運航され、その後は修理を行い神戸港で待機中でした。
 1943年(昭和18年)9月8日、イタリア王国政府が連合軍と休戦すると、『イタリア艦艇は連合国、もしくは中立国の港で武装解除を受ける。到達が不可能な場合は自沈せよ。』との命令を受け、神戸港にあった「カリテア II」は自沈を試みました。

 神戸港で自沈した「カリテア II」は日本側により浮揚・修理され、10月3日には特設運送船(給糧船)「生田川丸」として復活しました。1943年12月まで修理を行い、1944年1月7日、第127船団の1隻として門司を出港して那覇を経由し1月18日には無事高雄港に到着しました。3月にはバタビヤ方面へと移動し、バタビヤ~アンボン~マカッサル~バリクパパン~マニラ方面で輸送任務に従事していましたが、1945年1月12日10時頃、サイゴン港停泊中にアメリカ空母艦載機の空襲を受け、被弾炎上し沈没しました。


□カリニャーノ(Carignano)は総排水量5,275トン、1917年にイギリスで第1次大戦時の標準型貨物船「War Pigeon」として建造され、1920年にジェノヴァのSocietàAnonima Lloyd Sabaudoが購入して「カリニャーノ」へと改名しました。1942年2月に乗組員の一部は交代要員として「フジヤマ」(Fusijama)に乗船し、その後は日本側に傭船されて「帝雄丸」と呼ばれ、日本人船員により運航されました。1944年11月13日、マニラ港に停泊中空襲により被弾沈没しました。


□ヴェネツィア・ジュリア(Venezia Giulia)は総排水量5,387トン、1928年にスコットランドでユーゴスラヴィアの貨物船「トミスラフ」(Tomislav)として建造され、1941年10月31日上海停泊中にイタリアに拿捕されて「ヴェネツィア・ジュリア」へと改名されました。1941年12月1日から日本側に傭船され「帝安丸」と呼ばれました。1942年1月9日、千葉県八幡岬南東沖でアメリカ潜水艦「ポラック」(USS Pollack)の雷撃により沈没しました。


□アダ(Ada)は総排水量5,248トン、1919年にカナダで建造された貨客船「Canadian Conquerer」で、ローマのImprese Navigazione Commerciale Societa Anonima (INCSA)が購入して「アダ」へと改名しました。1940年6月のイタリア参戦時には神戸に停泊しており、1942年6月1日から日本側に傭船されて「安宅丸」と呼ばれ、イタリア人船員は引続き乗船していました。1943年8月22日横須賀港から基隆に向け航行中、8月23日12時12分頃、静岡県掛塚灯台南東沖10キロ付近でアメリカ潜水艦「パドル」(Paddle)の雷撃を受け、左舷ブリッジ下に魚雷2発、機関室及び5番船倉付近に各1発が命中し運航不能となり、12時55分沈没しました。


□コンテ・ヴェルデ(Conte Verde)は総排水量18,382トン、1923年4月21日に竣工したイタリア初の豪華客船で、ユダヤ人難民を乗せて上海に到着後、イタリア参戦を迎えたため上海に足止めされていました。目立つ豪華客船は封鎖突破船には不向きであり、1942年2月に乗組員の一部は交代要員として「フジヤマ」(Fusijama)に乗船し、1942年6月~8月の間は浅間丸と共に交換船としてロレンソ・マルケスまで運航された以外は上海港での待機が続きました。

 1943年9月8日、イタリアの単独講和の際に上海港で乗組員により自沈・横転し、イタリア人乗組員は拘束されました。9月21日から横転した船体の復旧作業が開始されましたが作業は難航し、さらに1944年8月8日にはアメリカ軍のB24爆撃機の攻撃を受けて再び横転するなどにより、作業はさらに困難を極めました。1944年12月16日、やっと船体の引き起こしに成功して上海の三菱江南造船所に入渠し、その後の数週間の間に8機のボイラーのうちの4機、2機の発電機と2機のタービンが再整備されてとりあえず自力航行可能な状態にまで復旧しました。

 1945年には「ことぶき丸」と改名されましたが、船体の「Cont Verde」の船名はそのまま残されていました。4月10日、護衛艦艇とともに上海から舞鶴にむけて出発しようとしましたが出港後にいきなり触雷し、緊急修理のため4月11日から再び三菱江南造船所に入渠しました。
 1945年4月20日、護衛艦艇とともに再び上海を出港し舞鶴に向かいましたが、途中朝鮮半島南西沿岸を航行中に再び触雷し、5月17日に舞鶴到着時には修理が必要な状態でした。7月25日の爆撃により舞鶴湾内で大破着底し、終戦後に復旧の可能性が調査されましたが、機関部は泥に浸かっていて復旧不能と判断され解体されました。


2019.3.21 新規作成
2019.10.23 構成を変更、一部追記


泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/