極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
イタリアの封鎖突破船

2.封鎖突破船「ピエトロ・オルセオッロ」(Pietro Orseolo)

 「ピエトロ・オルセオッロ」(総排水量6,344トン)はイタリア政府の優秀船建造施策「ベニ法」による一連の近代的な貨物船シリーズ6隻のうちの最初の貨物船として1939年10月に建造されました。完成後は最大16.29ノット、巡航15ノットという高速をかわれて海運会社「Lloyd Triestion」によりチャーターされ、日本への極東航路に就航しました。1940年6月10日のイタリア参戦時には神戸港に停泊しており、待機状態はその後1年半の間続きました。
 1941年10月以降、イタリア船もヨーロッパへの物資輸送に参加することとなり、「ピエトロ・オルセオッロ」は選抜された3隻の優秀船の2番手として出発準備が進められました。長く危険な航海に備えて船体には偽装と自沈用爆薬の設置も行われ、貨物として生ゴムや航空機用錆止め塗料の原料となる寒天、その他の戦略物資が積載されました。「ピエトロ・オルセオッロ」はオスロを母港とするノルウェー船に偽装されており、Zustovich船長以下8名の士官を含む48名の乗組員が乗りこみ、12月24日の夕方に神戸港を出発しました。

 アメリカの参戦によりインド洋~喜望峰~大西洋のルートの方がより安全とも考えられましたが、イタリア海軍本部から航路についての特段の指示はなく、今回も「コルテラッツォ」がすでに辿っている太平洋~ホーン岬~大西洋のルートが使用されました。ただし今回は連合軍の監視の目を盗むためにビスケー湾には冬の悪天候となる時季に到着するよう指示されていました。
 太平洋からボルドーまでの航路は「コルテラッツォ」の場合と同様にあらかじめ暗号で指示されており、《O》から始まる17ヶ所の地点と到着日が指定されていました。また今回はスペイン-フランス国境のイルン港(Irun)到着は2月21日と指定されていました。

No.  地点名 コルテラッツォ 予定日
1 OMERO CARMELA
2 OVIDIO CARLO 1/13
3 OSVALDO CARLOTTA
4 OTTO COSTANZO
5 OTTORINO CLARA 1/24
6 OTTAVIO CATERINA
7 ONORATO CIRILLO
8 ONOFRIO CLAUDIO
9 ORAZIO CORRADO
10 ONORIO CRISTOFORO 2/4
11 ORESTE CLARISSA
12 ORLANDO CORNELIO 2/9
13 ORSOLA COSTANTINO 2/15
14 OSCAR CECILIA
15 OTELLO CAROLINA
16 OLIVIERO CLEMENTE
17 OLINDO CRISPINO 2/17

 日本出発の2日後、早くも緊迫する事態が発生しました。雲に隠れて太陽の方向から2機の複葉機が現れ、繰り返し爆撃と銃撃をしかけてきました。このため貨物ハッチに描かれているイタリア国旗のカバーが外され、マスト上にはイタリア国旗が掲げられました。機銃掃射によりマスト、煙突などに損傷を受けましたが幸いに損傷は軽微でした。船長は船をジグザグに変針させて攻撃を回避していると、その後2機は攻撃を中止し、しばらくして低空飛行で戻ってくると大声と手ぶりで謝罪の合図をしながら飛び去りました。

 緯度が低くなるに従い気温と湿度が高くなり、新年には船内でできる範囲での宴会も準備されました。12月31日朝11時、乗組員の最初のグループが祝いのテーブルに付こうとした時、見張りが遠方に煙を発見しました。乗組員は持ち場に戻り、船長は不明船の後方に回り込むように進路を変更すると、やがて船は見えなくなりました。また年が変わった1月2日には上空に日本機が現れたため飛行機警報が発令されました。上空に現れたのは4発の大型機で、ほぼマストの高さの低空飛行を行いましたが、「ピエトロ・オルセオッロ」の呼出符号を確認すると飛び去って行きました。当時の日本機で4発の大型機といえば九七式飛行艇の可能性が高いのですが確証はありません。

 1942年を迎えると最初の2週間は遠くに船の煙が見えたのと、高高度を飛行する機影が遠くに見えた程度で静かな航海が続きました。1月6日には西経160度線を通過しましたが、西向きの海流とさらに傍受した情報により予定したルートから外れてフランス海軍基地のあるタヒチ島から遠く離れるように進路を変更したため、約24時間の遅れが発生しました。1月15日には3隻の高速で航行する、おそらく軍艦が右舷方向に見えました。「ピエトロ・オルセオッロ」は直ちに左に変針して距離を取ると、正体不明の軍艦はそのままこちらに気付くことなく見えなくなり、その後元の進路に戻ることができました。
 1月18日、オランダ領東インド(インドネシア)が日本軍に占領されたとのニュースを傍受しました。数日後、船はホーン岬に向かって進路を取り、南アメリカ大陸の西方沖合を進むに従い気候は熱帯の暑さから次第に厳しい寒さに変わって行きました。
 1月25日、「ピエトロ・オルセオッロ」はホーン岬から距離を保ったまま通過し、その後大西洋に入ると霧の発生や多数の氷山により気象条件はますます困難なものとなりました。それでもフォークランド島を左に見ながら、南ジョージア島との間のイギリス支配海域を無事通過し、船は大西洋を北上しました。

 ブラジルとシエラレオネの間の大西洋が最も狭い海域を北上する際には、悪天候と海流のために予定の航路から外れ、航行予定日から2日の遅れが発生しました。これはUボートやその他の味方部隊からも攻撃される危険性をも生みましたが、無線封止を破りボルドーに遅れを連絡するような危険も回避しなければなりませんでした。ところが数日後の2月4日にはボルドーからの無線で『「ONORIO」と「ORLANDO」の中間地点から200マイル東側を通過し、「ORSOLA」と「OLINDO」では到着予定日を厳守せよ』との指示が傍受されました。指示された地点の到着予定日を守るため、北緯40度、西経39度の地点から事前に設定されたルートに対してほぼ1日の間はショートカットの進路を取り、これにより約10時間を短縮して「OLINDO」には最短の遅れで到着し、2月22日夕方には72日間の航海の後、無事スペインとフランス国境のイルン港(Irun)に到着することができました。

 「ピエトロ・オルセオッロ」はドイツ海軍の護衛艦3隻に護衛ボルドーに向かい、翌23日にはジロンド川河口に到着しました。ボルドーに到着した約6,000トンの貨物のうち4,000トンの貨物はドイツ向けであり、イタリア海軍司令官、ドイツ海軍のレーダー提督、そしてヒトラー総統からの賛辞を受け取り、Zustovich船長及び機関長には戦功章銀章が、士官には戦功章銅章が、その他の乗組員には戦功十字章が授与されました。

 「ピエトロ・オルセオッロ」はイタリア最大、最新の近代的貨物船の一隻であり、封鎖突破船として再び極東に向かう準備が始められました。このため1942年7月7日にはボルドーのドイツ軍司令部からの依頼によりイタリア海軍の技術者と労働者による特別チームがラ・スペツィア(La Spezia)からボルドーへと到着し、「ピエトロ・オルセオッロ」の他3隻が選抜され準備が進められました。

□コルテラッツオ(Cortelazzo)
□ピエトロ・オルセオッロ(Pietoro Orseolo)
□フジヤマ(Fusijama)
□ヒマラヤ(Himalaya)

 「ピエトロ・オルセオッロ」には自衛用としてドイツ製105mm高射砲×1門、20mm機関砲×2門、フランス製9mm機銃×2丁、さらに煙幕発生装置も搭載されました。またこの工事期間を利用して機関のメンテナンスも行われました。
 1942年10月1日、工事が完了するとすぐにTarchoni船長の指揮下に67名の乗組員(イタリア海兵隊42名、イタリア海軍21名、ドイツ海軍4名)が乗船し、3,000トンの貨物を積載して護衛艦と共に出発しました。
 10月2日午後4時、イギリス海軍の哨戒機は北緯44度08分、西経6度39分の位置で進路250度、速力10ノットで進む商船を発見し、この情報によりイギリス潜水艦P52と軽巡洋艦「カリブディス」 (HMS Charybdis)が追跡しましたが「ピエトロ・オルセオッロ」は追跡を撒いて姿を晦まし、10月5日にはアゾレス諸島の北を通過して進路を南へと変更しました。

 10月15日には赤道を通過しましたが、途中ジブラルタルへと向かうと思われる約90隻からなる連合軍の船団と遭遇しました。このため右120度に変針してやり過ごし、怪しまれることなく数時間後には最初の進路に戻ることができました。セントヘレナ島とアセンション島を通過後には喜望峰の南方約550マイルを通過するように再び進路を変えました。10月25日、喜望峰沖を通過してインド洋に入り、「吠える40度」と呼ばれる海域の強い西風に押されるようにして進みました。この海域でも敵船に遭遇する危険性は高く、無線方位測定機により怪しい電波を探知すると即座に進路を変更し、もちろん通常の商船航路を避けて航海を進めました。
 11月10日、「ピエトロ・オルセオッロ」はジャワ島とスマトラ島の間のソンダ海峡の手前の海域に到着しました。この海域はイギリス軍とアメリカ軍の潜水艦が巡回しており、間もなく到着した出迎えの日本の護衛艦に先導されて機雷原を進み、10日のうちにクラカタウ群島(Krakatau)の沖を通過して海峡を通過しました。ソンダ海に入るとすぐに右に進路を変え、11月12日にバタビア沖に到着し水先案内人の到着を待って入港しました。
 バタビアでは数日間の休息の間に日本に向かうために必要な指示を受け取り、バタビアを出港すると一旦シンガポールに入港し、ここで日本まで輸送する貨物(屑鉄、ナフサ、羊毛)を積載しました。
 11月22日にはシンガポールを出港していよいよ日本本土へと向かいました。途中11月26日には敵と思われる潜水艦と数百メートルの至近距離で遭遇しましたが、発砲する間もなく潜水艦は姿を消しました。その後は南シナ海から台湾沖を通過し、62日間17,000マイルの航海の後、1942年12月2日には無事神戸港に到着することができました。
 神戸港ではヨーロッパへの回航準備が大急ぎで行われ、帰路の貨物として天然ゴム6,800トンを輸送することとなり、同時に90名の便乗者のための居住区画の工事も行われ、母国に帰国するドイツ軍兵士も便乗しました。

 1943年1月25日の夜、「ピエトロ・オルセオッロ」は神戸港を出港し、インド洋経由でヨーロッパへと出発しました。1月28日には他の商船の姿を見かけて慎重に進路を変更し、1月29日には往路の11月26日に潜水艦と遭遇した海域にさしかかり、やはり敵潜水艦の出現が確認されました。
 2月3日に無事シンガポールに到着し、ここで天然ゴムの梱包6,800トンが満載されました。2月9日にはシンガポールからバタビアへと出発し、水と燃料を満載した「ピエトロ・オルセオッロ」は2月16日に出航し、ソンダ海峡を通過してインド洋へと乗り出しました。

 1943年2月24日から25日にかけて、オーストラリアに向かう連合軍の船団を発見し、これを避けるために進路を大幅に変更しましたが、その後は順調な航海が続き、喜望峰は南緯46度の海域まで南下して通過し、いよいよ大西洋に入りました。
 その後も3月25日にアゾレス諸島南西海域で無線方位測定機が不明船の無線電波を探知するまで順調に大西洋を北上しました。翌3月26日には予定通りU161との会合にも成功しました。一方連合軍側でも日本からの封鎖突破船の出発を探知しており、通過海域である北大西洋とビスケー湾で警戒を強化していました。このため1942年中盤までは比較的順調であった極東からの封鎖突破船は、1943年になってからは撃沈や中止が相次いでいました。

■ラコティス(Rhakotis) 1月1日ビスケー湾で撃沈
■ホーエンフリートベルク(Hohenfriedberg) 2月26日ビスケー湾で撃沈
■ドッケルバンク(Doggerbank) 3月3日南大西洋でU43の誤射により撃沈
■リオ・グランデ(Rio Grande) 3月5日中止しバタビアに引き返す
■カリン(Karin) 3月10日南大西洋で撃沈
■ウェーザーラント(Weserland ) 3月26日中止しバタビアに引き返す
■レーゲンスブルク(Regensburg) 3月30日北大西洋で撃沈
■ブルゲンラント(Burgenland) 4月2日中止し神戸に引き返す
■ロスバッハ(Rossbach) 4月8日中止しバタビアに引き返す
■イレーネ(Irene) 4月10日ビスケー湾で撃沈

 1943年3月30日、「ピエトロ・オルセオッロ」はフィニスェーレ岬沖合の北緯41度-西経15度の海域まで来たところで不審な軍艦を発見しました。ドイツ海軍がこの海域まで進出した例はなく、イギリス海軍の艦艇であると疑い全速で逃走と図りました。ところが軍艦からは繰り返し信号が送られ、軍艦旗が識別できる距離まで接近するとドイツ海軍の駆逐艦Z23、Z24、Z32、Z37の4隻であることがわかりました。封鎖突破船の犠牲が相次いだことからドイツ海軍もボルドーの第8駆逐戦隊の駆逐艦をスペイン沖まで出撃させたのでした。
 4隻の護衛を得た「ピエトロ・オルセオッロ」は霧により視界が悪化してゆく間に、イタリアとドイツの潜水艦が守る回廊を通過して一路ボルドーに向かいました。しかし、間もなくしてこの船団はイギリス軍哨戒機によって発見され、イギリス空軍沿岸軍団のブリストルボーフォートとブリストルボーファイターが襲いかかり魚雷攻撃をおこないましたが、これに対して「ピエトロ・オルセオッロ」と護衛の駆逐艦は対空砲火で応戦して5機を撃墜し、発射された魚雷は全て回避することに成功しました。

 4月1日の早朝、船団がジロンド川河口まではあと60~70マイルの地点に達したとき、月のない夜明け前の時間帯に今度はアメリカ潜水艦「シャード」(USS Shad)が「ピエトロ・オルセオッロ」を攻撃しました。
 「シャード」は3月31日以来、哨戒機からの情報によりイタリア貨物船と護衛艦隊の接近を知り、4月1日午前0時30分には距離10,000mに船団をレーダーで探知しました。「シャード」は水上走行により追跡を開始し、0時30分~1時50分の間18~19.5ノットの高速で追跡しましたが、イタリア船と護衛艦隊も15ノット以上で航行していたため、距離はなかなかちじまらず長時間の追跡となりました。3時42分、駆逐艦の1隻に発見されたと感じた「シャード」は攻撃を決意し、1,550mの距離から前方発射管により6本の魚雷を発射しました。3時43分~45分の間に5回の爆発音を観測し、「シャード」では少なくとも2隻を撃沈したと判断しました。
 3時46分には反転してやや距離が開いたものの、距離2,750mで後部発射管からさらに2本の魚雷を発射して退避行動に移り、3時50分、51分、54分、57分にはさらに4回の爆発音が観測されました。「シャード」の報告書によると攻撃地点は北緯44度37分、西経2度18分であり、ジロンド川河口からはほとんど目と鼻の先のような地点でした。

 「シャード」が2隻撃沈と判断して退避行動に移ったころ、「ピエトロ・オルセオッロ」は2本の魚雷を回避しましたが、3本目が2番船倉付近に命中して船腹に大穴を開けていました。この損害により貴重な天然ゴムの梱包11,000個が船外に流出しており、ドイツ駆逐艦は再度攻撃される危険のある中、「ピエトロ・オルセオッロ」が応急修理で停船した間に多数の梱包を回収しました。
 最新の貨物船である「ピエトロ・オルセオッロ」はやや減速した程度で航行を再開することができ、11時45分にジロンド川河口のル・ヴェルドン港(Le Verdon)に到着しました。その後4月3日にはボルドーの停泊地へと入り、3回目の航海を終了しました。ドイツ当局はその後、流出した天然ゴムの梱包を回収するため、ビスケー湾に面した西海岸の新聞に「回収に協力したものには報奨金を支払う」旨の告知を掲載しています。

 「ピエトロ・オルセオッロ」の航海についての詳細な報告を受けたベニト・ムッソリーニは船長、士官、その他の乗組員の行動を称賛し、以前の航海と同様に船長及び機関長には戦功章銀章が、士官には戦功章銅章が、その他の乗組員には戦功十字章が授与されました。Tarchoni船長はアドルフ・ヒトラーの決定によりデーニッツ提督から一級鉄十字章を授与されましたが、これは商船の船長が一級鉄十字章を授与された唯一の事例となりました。「ピエトロ・オルセオッロ」は3回の封鎖突破任務の間に海上で164日間を過ごし、およそ54,000マイルを航海しました。2回目と3回目の航海日誌では船は平均14ノットで34,400マイルを走破し、103日間の航海でした。

 1943年9月のイタリア講和の後、「ピエトロ・オルセオッロ」はドイツ軍に拿捕され、ドイツの海運会社に委託されて「アルノー」(Arno)と改名されました。その後封鎖突破船として再び極東行きが決定されましたが、この頃になると封鎖突破船の成功率は極端に低下しており、もはや元「ピエトロ・オルセオッロ」の幸運にすがるしかなかったのかもしれません。1943年12月10日に新しい呼出符号が交付され、1週間後の12月17日には4回目の航海に出港しました。
 しかし、出港直後の12月18日にはビスケー湾北側、ブレスト港近くのコンカルノー港(Concarneau)の沖合でイギリス空軍沿岸軍団のブリストルボーファイター雷撃機12機とスピットファイア及びタイフーンによる攻撃により損傷しました。「アルノー」はグレナン諸島(Glénans)の島陰に退避しましたが、応急修理では浸水を止めることができなかったようで、3日後の12月21日の午後には曳航されて本土の港を目指す途中、乗組員の奮闘むなしくついに沈没しました。

 「アルノー」が通常のビスケー湾南部のスペイン沿岸航路に向かわず、北回りの航路を進んだ本当の理由は不明ですが、警戒厳重なスペイン沿岸航路を避けてイギリス軍哨戒機の裏をかく思惑や、ブレスト付近で護衛艦と合流する計画があったのかもしれません。
 沈没地点はパンフレ島(Panfret)の北方沖合0.5マイル、水深25m~30mの地点で、水深が比較的浅いことから1944年にはドイツ海軍のダイバーにより積荷の一部は回収されたようです。この場所は現在では結構有名なダイビングスポットになっており、ダイビングの映像を見ると船内には少なくとも数両のハーフトラック(?)が積載されていたようですが、積荷の詳細は不明です。

Youtube:Epave du Pietro Orseolo 03 10 15


参考資料
ウィキペディア(イタリア語版):Pietro Orseolo (nave mercantile)
Casina dei Capitani.net/PIETRO ORSEOLO
ウィキペディア:シャード (潜水艦)


2019.3.21 新規作成
2019.10.23 構成を変更


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