極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
イタリアの封鎖突破船

3.封鎖突破船「フジヤマ」(Fusijama)

 「フジヤマ」(総排水量6,244トン)は1928年12月にトリエステの「Stabilimento Tecnico Triestino」で建造され、海運会社「Lloyd Triestino」の持ち船としてトリエステを母港として運航されました。
 1940年6月10日、イタリアの参戦の時点で「フジヤマ」はベテランのTommaso Maresca船長のもと、フランスのディナン港から横浜港に向かっていましたが、7月10日からシャム湾の奥でバンコクにほど近いシーチャン島(Koh-si-Chang)に退避しました。中立国であるタイには他に3隻のイタリア船もプーケット島に退避していましたが、東南アジア特有の気候である暑さと湿度はイタリア人乗組員にとっては辛いものであり、多くの乗組員は熱帯病やアメーバ赤痢にかかり、地元の病院に入院していました。もう一つの問題は地元の人々でさえ入手困難な食糧と水の不足でした。水不足については5月~9月の雨季のモンスーンによって解決されました。雨季の間に船上にはテントと樋を設置して雨水を船内の水タンクに蓄えることができ、これによって10月~5月の乾季を賄える十分な量を確保することができました。食料の方も積荷の中の材木を利用して船体の横に筏が作られ、漁を行うことで確保されました。

 プーケット島にはSumatra(総排水量6,126トン)、Volpi(総排水量5,298トン)、XXVIII Ottobre(総排水量4,888トン)の3隻が退避しましたが、イギリス海軍とオランダ海軍は周辺のベンガル湾、マラッカ海峡、ジャワ海、スマトラ海の海域を押さえており、タイからの脱出は非常に困難な状況で、イギリス海軍の拠点であるペナンの目と鼻の先にあり厳しい監視下にあるプーケット島に退避した船の脱出は早期に放棄されました。【補足-1】
 しかしシーチャン島の監視は比較的緩く、「フジヤマ」のみは脱出が試みられることとなりました。タイのイタリア外交当局の努力により次の新月の夜を利用して脱出させるよう準備は大急ぎで行われ、タイ当局が協力的だとは言え準備作業は最大限の秘密保持体制がとられました。「フジヤマ」への燃料補給、消耗品の補給、水及びスペアパーツの補給が行われる一方で、本来はドライドックで行われる船体の整備作業は専用設備がないため、乗組員の手でバラストを移動させることにより船体を傾け、船体と喫水線付近の清掃作業を行うことで簡略ながら行うことができました。また、緊急時に備えて自沈用爆薬の準備も行われました。

 1941年8月8日、「フジヤマ」は補給と準備作業の後シーチャン島を出発し、悪条件の中で可能な最大速力の11ノットで外海を目指しました。シャム湾を出るとタイ、カンボジア、仏領インドシナの沿岸を抜けて最短距離で日本の支配海域である南シナ海に達し、海南島沖から台湾海峡を通過し、沖縄沖を通過して日本本土に向かい、1941年8月22日、「フジヤマ」は3,500マイルを平均10ノットで航海して無事神戸港に到着し、神戸港に停泊していたイタリア船の乗組員たちから大歓迎されました。

 1941年10月以降、イタリア船もヨーロッパへの物資輸送に参加することとなり、「フジヤマ」は選抜された3隻の優秀船の3番手として出発準備が進められました。1941年10月までに9隻のドイツ船が極東の港を出発しましたが、このうち3隻は途中で発見されて撃沈され1隻は拿捕されましたが、5隻が首尾よくボルドーの港に到着して貴重な戦略物資を運ぶことに成功していました。
 「フジヤマ」が出発準備中の1942年1月27日に第一船の「コルテラッツオ」が戦略物資を満載して無事ボルドーに到着しており、「フジヤマ」についてもヨーロッパに向かう長い航海ための修理と改修が行われました。修理の完了した「フジヤマ」は神戸港から横浜港へと移動し、4,839トンの貨物(天然ゴム:2,000トン、タイヤ及びインナーチューブ:100トン、鉱物、椰子油、鯨油、コプラの梱包)を積み込むと再び神戸港に戻ってきました。

 乗組員には客船コンテ・ヴェルデ(Conte Verde)と貨物船カリニャーノ(Carignano)からの交代要員も加わり、船長以下士官8名と船員37名となりました。「フジヤマ」は1942年2月に出発するためイギリス軍の警戒厳重なインド洋ではなく、日本軍の勝利しつつある太平洋を航行することとなりました。予定航路はすでに出発した「コルテラッツォ」と「ピエトロ・オルセオロ」の場合と同様で、今回の航海ではNo.3~17の15ヶ所地点に《F》から始まる地点名が与えられ、到着日が指定されました。

No. 地点名 ピエトロ・オルセオロ 予定日
1 OMERO
2 OVIDIO
3 Filomena OSVALDO 3/4
4 Ferdinando OTTO
5 Fausto OTTORINO 3/18
6 Fosco OTTAVIO
7 Franco ONORATO
8 Fortunato ONOFRIO
9 Felice ORAZIO 4/2
10 Fedora ONORIO
11 Fulvia ORESTE
12 Fiorenza ORLANDO 4/8
13 Federico ORSOLA 4/14
14 Fedele OSCAR
15 Folco OTELLO
16 Fernanda OLIVIERO 4/15
17 Frida OLINDO 4/17

 1942年2月7日午前9時15分、「フジヤマ」は神戸を出港し、太平洋へと向かいました。しかし数時間後、日本軍からアメリカ潜水艦発見の警報を受け、最大速力で航行しても危険と判断して一旦引き返すこととなり、紀伊水道の紀伊日ノ御碕灯台の沖合2マイルの海上に停泊して待機しました。翌2月8日の朝6時半には再び出発し、日本の沿岸を離れると《A》地点(北緯6度00分、東経160度30分)に向かいました。
 日本を出発すると「フジヤマ」は乗組員の手によりロンドンを母港とするイギリス貨物船「アングロ・インディアン」(Anglo Indian)に偽装されました。まず第1船倉と第6船倉の側壁が一段低くなった部分は手すりに板を取り付けて第3船倉の高さに合わせるようにして船体のラインをごまかし、煙突の高さもすこし延長されました。さらに連合軍の貨物船に見えるように船尾には木製の偽砲も設置されました。
 各船倉のハッチには国旗が記入されましたが、第1、第3、第5船倉のハッチにはイタリア国旗が描かれ、第2、第4、第6船倉のハッチには英国国旗が描かれました。普段はハッチの国旗はカバーで隠されており、各ハッチには専任の担当者が指定されて総勢9名の専属チームが結成されました。また自沈に備えて機関室には爆薬がセットされ、5名の志願者により点火チームが結成されました。ブリッジでは士官2名と船員4名が4時間交代で見張りに付き、操舵手も含めて2時間ごとにコーヒーが提供されました。

 「フジヤマ」は日本を出発した後、2月16日から南東に進路を取って小笠原諸島を通過し、マリアナ諸島では東に進路を取り、カロリン諸島で再び南東に進路を取りました。その後ギルバート諸島の北東海域を経由してサモア島とハワイ諸島の間の海域に達しました。その間、マーシャル諸島の海域を航行中の2月18日の朝8時には日本海軍の九五式水上偵察機が飛来し、船名を問い合わせる無線を傍受しました。「フジヤマ」は第1、第3、第5船倉ハッチのカバーを外し、呼出符号「IBVM」が掲げられてイタリア船の正体を明かすと、日本軍機は再度上空に現れると北へと飛び去りました。
 2月20日12時30分頃には日本海軍の九六式陸上攻撃機が飛来し、太陽の方向から降下してくると船の後方へと飛び去れました。「フジヤマ」では再び船倉ハッチのカバーが外され、イタリア国旗と呼出符号が掲げられました。しかし、飛行機はさらに降下した後、旋回してさらに距離を縮めると南へと飛び去り、ハッチの国旗や船名は再び隠されました。しかし、間もなくして日本軍機は再び上空に戻り、船の右側を通過して船尾側から反転して船の前方に向かうと、船の前方50mの位置に爆弾を投下しました。
 「フジヤマ」はすぐに左に回避すると水煙と煙がマストの高さを越えて降り注ぎました。Maresca船長は直ちに回避行動を命じ再びイタリア国旗と呼出符号が掲げられ、船倉ハッチのカバーも外されました。しかし日本軍機はまだ敵船だと思い攻撃を中止する様子はなく、2発目の爆弾が船尾から遠くないところで爆発しました。
 Maresca船長は進路を逆戻りしてマーシャル諸島方面に戻るよう舵をきるとともに、無線封止を破り秘密の暗号を発信することとしました。日本軍による支配海域を4日間に1,200マイル航行し、そろそろ最前線の海域に達しており、この海域にもしも敵艦がいれば無線方向測定機で船の位置を探知されてしまう危険があり、非常に危険な選択ではありましたが、手遅れになる前に誤解を解く必要がありました。13時25分には無線連絡が成功し、イタリア船を攻撃していると気づいた日本軍機は攻撃を中止して飛び去って行きました。

 2月25日、「フジヤマ」はファニング環礁(Fanning)沖を通過し、西経160度で赤道を越え、その後はマルキューズ諸島(Msrquises)とデュシー島(Ducie)沖を通過しました。3月4日にはホーン岬に向かう南東へと進路をとりましたが、3月11日には東航する船を発見して進路を変更して回避しなければなりませんでした。その後の悪天候にもかかわらず3月20日には大西洋へと入り、進路を北東に取り3月22日にはフォークランド島の東方を通過しました。
 悪天候と逆向きの海流のため、船の平均速力は11.24ノットに低下しており、加えて日本軍機の攻撃を回避するための迂回航行もあり「Fausto」地点を通過する時点で予定よりも2日間遅れとなっていました。イギリス貨物船「アングロ・インディアン」に偽装している「フジヤマ」にとって2日間の遅れはUボートや味方部隊から攻撃される危険に晒されることを意味していましたが、かといって無線封止を破って遅れを知らせることはより大きな危険を伴い、それもまたまた不可能でした。問題発生を予見していたイタリア海軍司令部は3月20日に「フジヤマ」に対して『「Felice」と「Fiorenza」の中間地点ではセントポール岩礁の東方200マイルを通過せよ』とルート変更の指令を発しました。
 イタリア海軍司令部は1941年6月29日に封鎖突破船「Ernani」がU103に撃沈されたような事件の再発を危惧しており、大西洋に出撃中のイタリア潜水艦に対して注意喚起の指令も発信していました。

 『イタリア船がフランスの港に向かいつつあり、4月12日から23日の間に北緯42度~43度の海域を航行予定。船体はダークグレー、上部構造物はライトグレー、煙突はダークグレーに塗装しており、イギリス船「アングロ・インディアン」又はノルウェー船「トロムソフィヨルド」(Tronsofiord)に偽装している。』

 その間にイタリア海軍司令部はリスボンの海軍武官からイギリス海軍の動向についての情報も得ており、「フジヤマ」の予定進路に近いアゾレス諸島の近海海域には空母を含むイギリス艦隊があり、他にもアゾレス諸島のポンタ・デルガーダ港(Ponta Delgada)では11隻のイギリス駆逐艦が燃料補給の後、不明の目的地へと移動していました。3月31日、「フジヤマ」はセントヘレナ島を通過し、4月1日には約16マイルの距離で敵味方不明の船を発見したため、直ちに進路を変更しました。その間にはアセンション島に向かって西北西の進路を取っており、4月3日にアセンション島を通過すると、4月6日にはセント・ポール岩礁の東方を北東に向かって航行しました。
 4月15日にはイタリア海軍司令部からの新たな情報が受信されました。

 『敵輸送船団は15日現在北緯37度、西経37度の地点を進路55度(東北東)で航行中。さらに別の船団は北緯51度、西経21度の地点を南東に向かっており、「Frida」地点の北東をおそらく17日~20日の間に通過する見込み。』

 「フジヤマ」では見張りが強化されるとともに、4月9日以降は北に取ってきた進路を北北東へと変更しました。4月15日10時35分、北緯41度17分、西経35度25分の地点で南南西の進路を高速で接近する武装商船を発見しました。警報が鳴り「フジヤマ」は直ちに進路を変えて離脱を図りましたが、相手の考えも同じだったようですぐに見えなくなりました。夜8時には進路を90度(東)に変更して連合軍船団を回避した後、翌朝4時までには予定進路の55度(東北東)に戻しました。
 4月16日「フジヤマ」はスペインに向かって東に進路を取りましたが、Maresca船長は海軍司令部からの情報を元に南から来る船団の進路に近すぎると考え、16日8時から17日の朝4時までは進路を逆転させて一旦西へと引き返し、その後は東に向かう元の進路に戻ることとしました。4月18日夜明け、潜水艦の司令塔が発見されました。警報が鳴りUボートであることが確認されると相手も「フジヤマ」を確認しましたが、この後「フジヤマ」は慎重を期してより安全なルートに変更してボルドーに向かいました。

 4月19日、「フジヤマ」は当初の予定から2日遅れて「Frida」地点に到着し、その後は90度(東)の進路でフィニステレ岬を目指しました。4月20日午前2時、大雨の中をフィニステレ岬に接近していたところ、イギリス軍のB24リベレーター爆撃機に発見され、敵機は急接近してきました。再び警報が鳴り、イギリス国旗が描かれた2番、4番、6番船倉のハッチカバーが外されました。イギリス軍機は無線で船名を聞いてきたため、イギリス船「アングロ・インディアン」呼出符号「GFGT」が繰り返し回答されました。その後敵機は雲の中に飛び去りましたが、「フジヤマ」では回答を信じて飛び去ったのか、基地に問い合わせて再び舞い戻ってくるのかわかりませんでした。このためMaresca船長は最寄りのスペインの港に至急寄港することを決断しました。スペイン領海に入るとフィニステレ岬を南側に回り、コルビュン港(Corcubión)に入港するとその日の夜にはマドリードのイタリア海軍武官と連絡することができました。
 4月23日地元港湾当局とドイツ海軍との交渉の結果、「フジヤマ」はエル・フェロル港(El Ferrol)に移動しスペイン船の「Mont Almanzor」に偽装されることとなりました。4月23日午後9時30分、エル・フェロル港を出港したときには、乗組員により煙突は黄色に塗られ煙突側面には赤い「A」のマークが記入されてスペイン貨物船の外観になっていました。4月24日にはドイツ空軍機が何度も飛来しましたが、船上のイタリア国旗を確認すると引き揚げて行きました。その後イルン港で短時間停泊した後、同日中には迎えに来たドイツ海軍の魚雷艇に護衛されながら出発し、4月26日午後6時30分には無事ボルドーに到着しました。
 ボルドーではイタリア海軍潜水艦基地(BETASOM)のRomolo Polacchini,司令官が船を訪問し、Maresca船長を始めとする乗組員の叙勲が行われ、船長と機関長には戦功章銀章、士官には戦功章銅章、その他の乗組員には戦功十字章が授与されました。神戸からボルドーへの航海は74日間で20,484マイルを平均11.49ノットで航海しました。

 「フジヤマ」はイタリアで最大の近代的商船の一隻であり、封鎖突破船として再び極東に向かう準備が始められました。このため1942年7月7日にはボルドーのドイツ軍司令部からの依頼によりイタリア海軍の技術者と労働者による特別チームがラ・スペツィア(La Spezia)からボルドーへと到着し、「フジヤマ」の他3隻が選抜され準備が進められました。

□コルテラッツオ(Cortelazzo)
□ピエトロ・オルセオッロ(Pietoro Orseolo)
□フジヤマ(Fusijama)
□ヒマラヤ(Himalaya)

 このうち「ヒマラヤ」は「フジヤマ」の姉妹船であり、1929年3月にトリエステで建造されました。1940年6月10日の時点でイタリア領エリトリアのマッサワ港にあり、イタリア参戦によりそのままマッサワ港に足止め状態となりました。1941年2月マッサワ港の潜水艦4隻と仮装巡洋艦「ラム I」(Ramb I)、「ラム II」(Ramb II)、通報艦「エリトレア」(Eritrea)が脱出したのに続き、3月1日の夜、「ヒマラヤ」はマッサワ港を脱出しました。目的地は親枢軸中立国であるブラジルのリオデジャネイロ港であり、インド洋に出ると最大速力で南東に進路を取り、主要航路をさけてセーシェル諸島の東方、マダガスカル、モーリシャスを通過し、3月21日には喜望峰を回り、4月3日夜明けには無事リオデジャネイロ港に到着することができました。
 1941年7月31日、「ヒマラヤ」は3,146トンの戦略物資(銅:1,000トン、クロム:1,000トン、ニッケル:220トン、モリブデン:50トン、バナジウム:30トン)を積載してリオデジャネイロを出港し、前日にレシフェ(Recife)から出港した貨物船「アフリカーナ」(Africana)と共にボルドーを目指しました。その後、ビスケー湾に入った8月26日にはイギリス貨物船「ベナボン」(Benavon)と行き会いましたが、怪しまれないように緊張の航海が続きやがて2隻は分かれて行き、8月30日には無事ボルドーに到着することができました。そしてRomolo Polacchini,船長は「アフリカーナ」のBertolotto船長と出会い、驚いたことにビスケー湾で行き会ったイギリス貨物船は実は「アフリカーナ」の偽装であったことを知るのでした。

 「フジヤマ」と「ヒマラヤ」については自衛用として105mm両用砲×1門、20mm機関砲×2門、フランス製9mm機銃×2門さらに2基の煙幕発生装置が搭載される予定でしたが、時間と資材不足のため2隻の工事は完成しませんでした。「フジヤマ」はその後もしばらくボルドーに停泊しましたが、1942年11月11日にナントへと移動しました。1943年7月18日からはドイツ軍の管理下に入り、その後ジロンドに戻って乾ドックでの入渠修理が行われました。イタリア単独講和後の1943年9月13日にドイツ軍に捕獲され、再び封鎖突破船として日本に向かう計画もありましたが、実現はしませんでした。
 「ヒマラヤ」は1943年3月28日と4月9日の2回に渡りドイツ海軍の護衛と共にボルドーを出発しましたが、いずれもビスケー湾を出る前にイギリス軍偵察機に発見されて攻撃され、ボルドーに引き返しました。封鎖突破船の出撃はウルトラ情報により筒抜けであり、ビスケー湾では航空機、潜水艦、水上艦艇により多重包囲網が敷かれていました。1943年9月9日、イタリア単独講和によりドイツ軍に拿捕され、その後もドイツ軍により封鎖突破船として極東への出発準備が行われましたが、結局出発することはありませんでした。

 1944年8月12日、「フジヤマ」と「ヒマラヤ」はドイツ軍の撤退時に閉塞船としてジロンド川河口に沈められ、戦後に解体されました。


【補足-1】プーケット島で自沈したイタリア船
1)貨物船「スマトラ」(Sumatra):総排水量6,126トンで、積荷として自動車、自動車部分品、工作機械、ゼラチン、水銀を積載
2)貨物船「ボルピ」(Volpi):総排水量5,298トンで、積荷としてオレンジパコティー(高級紅茶)を積載
3)貨物船「10月23日」(XXVIII Ottobre):総排水量4,888トンで、積荷として塩を積載しており、Lucianoさんによると戦前のこの時期には『日本は大量の塩を輸入しており、イタリア領東アフリカから日本へ大量の塩が輸出されている』とのことで、あるいはこれもイタリア領東アフリカ産の塩だったのかもしれません。

 この3隻は1940年6月10日のイタリア参戦の時点からイギリス海軍による拿捕を避けて中立国であるタイのプーケット島に退避していました。1941年12月8日、日本の参戦によりイギリス軍の攻撃、拿捕が迫ったため3隻は自沈しましたが、実際にはイギリス軍の攻撃はなく「幻の拿捕」に怯えてしまった結果だったようです。3隻はプーケット港外約7,000mの地点で自沈したようで、貨物船「スマトラ」(Sumatra)については自沈の前にすべてのハッチに放火され、12時間にわたって燃え続けました。


 この3隻には後日談があります。1943年になると3隻の再浮揚が計画され、上海で拿捕された砲艦「レパント」(Lepanto)の派遣が検討されましたが、能力不足とわかり代わりにイタリア海軍の通報艦「エリトレア」の使用が検討されました。しかしこの再浮揚計画は放棄され、3隻はプーケット島でマストや煙突の一部を水面から突き出した状態で放置されました。 船を失った船員たちは日本側からもタイ側からも忘れられた存在となり、ある者は現地に定住し、中には現地人の女性と結婚した者もいました。また現地で仕事を探す者、日本に向かおうとした者もいましたが大部分はバンコクに移動しました。
 1943年9月8日、イタリアが単独講和を発表するとイタリア人達の立場は激変し、日本側に捕らえられ、終戦まで収容所に収容され、貨物船「スマトラ」の乗組員のうち少なくとも2名が収容所で死亡しました。戦後解放された「スマトラ」の乗組員は1946年9月3日に元イタリア海軍の通報艦「エリトレア」でイタリアに送還されました。

 1944年になると貨物船の不足に悩む日本軍は貨物船「スマトラ」(Sumatra)と「ボルピ」(Volpi)の再浮揚・回収を計画しましたが、情報収集と航空偵察によりこれを探知したイギリス軍は2隻の再浮揚を阻止するため、2隻の「チャリオット」による攻撃を計画しました。イギリス軍の「チャリオット」は「人間魚雷」と翻訳されるのですが、実態は2人乗りの水中スクーターであり、目標船の船底に爆弾を装着して戻ってくる特殊作戦用機材でした。そして皮肉なことにこれはイタリア海軍で特殊作戦用に開発された「マイアーレ」と呼ばれる水中スクーターを原型としていました。
 「チャリオット」による攻撃は10月27日~28日の深夜に実施され、爆弾は28日の午前6時30分ごろに爆発して「スマトラ」と「ボルピ」の2隻を撃沈したと報告されました。そしてこの攻撃は第二次大戦中に実施された「チャリオット」による攻撃の最後の行動となりました。

 実際にはどうだったのでしょうか?
 1944年10月の時点で再浮揚作業が進んでいたのは「ボルピ」のみであり、実際には半沈状態であるもののシンガポールへの曳航準備が行われていました。そしてもう一隻の「スマトラ」の作業は全く進んでいませんでした。それでは2隻撃沈は誤報で実際には半沈状態の「ボルピ」をもう一度「撃沈」したのでしょうか?
 実はこの時プーケット島にはもう一隻の貨物船が沈没したままの「スマトラ」の近くに停泊しており、実際に撃沈されたのはこの貨物船だったのですが、全くの偶然によりこの貨物船の船名は「すまとら丸」でした。「すまとら丸」は元オランダ貨物船トモリ(Tomori)983トンであり、1942年3月2日にスラバヤで自沈しましたが、日本側が再浮揚して「すまとら丸」と改名して運航していました。そして半沈状態の「ボルピ」の方は攻撃による損傷が激しく、再浮揚作業は結局放棄されました。
 それにしても半沈船の見わけもつかないの?と思いませんか。しかし攻撃時間を考えてください。深夜の真っ暗闇の海中で目標の船までたどり着き、爆弾をセットし、攻撃隊の4名全員が生還してるんですよ!イギリス海軍のチャリオット隊の技量恐るべし!


参考資料
ウィキペディア(イタリア語版):Fusijama (motonave)
Casina dei Capitani.net/FUSIJAMA
ウィキペディア(イタリア語版):Himalaya (nave mercantile)
http://conlapelleappesaaunchiodo.blogspot.com/2016/06/sumatra.html


2019.3.21 新規作成
2019.10.23 構成を変更
2021.11.3 【補足-1】に後日談を追加


泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/