極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
イタリアの封鎖突破船
1.封鎖突破船「コルテラッツオ」(Cortellazzo)
「コルテラッツオ」(総排水量5,292トン)は1931年3月にイタリアで建造された貨物船で、海運会社「Navigazione a Vapore」の持ち船としてベネチアを母港としました。1937年に母港をトリエステへと移転し、紅海~インド洋を経由してインドと極東への航路に就航しました。戦前には缶詰食品会社「Arrigoni e C」のためにオランダ領東インドから胡椒を運んでいた際にはイギリス海軍により臨検されたこともありました。1940年4月3日「コルテラッツオ」はスエズ運河を通過して極東に向かいましたが、これは戦前にイタリア船がスエズ運河を通過した最後の機会となりました。
1940年6月10日、イタリアの参戦に伴い「コルテラッツオ」は神戸港に寄港した後そのまま17カ月間留まることとなり、長期の停泊の間に「コルテラッツオ」は神戸の住民にとってすっかりお馴染みの存在となっており、「イタリア船」といえば「コルテラッツオ」のことでした。
「コルテラッツオ」はイタリアの第一船として選抜され、出発は10月下旬から11月上旬が予定されており、ヨーロッパへの航路はイギリス側の主要航路を避けて太平洋を横断し、ホーン岬から大西洋を北上するコースが選定されました。ヨーロッパ向けの物資として5.639トンの貨物(植物油:1,400トン、落花生:1,140トン、タイヤ:496トン、麻:285トン、ラッカー:275トン、紅茶:259トン、錫:159トン、ニッケル:61トン、銅:36トン、タングステン:10トン)が積載され、このうちドイツ向けは4,309トン、イタリア向けは1,330トンで軍用のほか民生用物資も含まれていました。
神戸港で一部の物資を積載すると「コルテラッツオ」は日本船の「第一長久丸」に偽装され、船体には日本語の船名も書き込まれました。「コルテラッツオ」の乗組員はLuigi Mancusi船長以下40名で、さらに乗客として民間人のFrancesco Nardi氏も乗船しており、彼は1941年9月10日から乗船していたのですが、そのままこの危険な冒険に同行してイタリア本国への帰国を目指すことになりました。
1941年11月6日午後10時、「コルテラッツオ」は日の丸を掲げて神戸港を出港すると14ノットで瀬戸内海を西に向かい、11月7日の午後3時30分~6時には関門海峡を通過し、8日午後1時30分には朝鮮半島南端を通過しました。そのまま半島西岸を北上すると11月9日午後8時には無事大連港の港外に到着しました。その後水先案内人の到着を待って10日午前10時まで湾口に停泊し、11時には岸壁に接岸しました。以後1週間にわたる荷役作業は最大の機密とされ、日本側の厳重な監視と警備の下でおこなわれました。
1941年11月16日、荷役を終えた「コルテラッツオ」は午前8時45分に岸壁を離れ、港の中央に停泊して今後の航海に必要な燃料、水、食料の積み込みを行い、午後8時に暗闇を利用して人目を避けて出港しました。黄海を横切り陸上からの目を避けると同時に他の船にも遭遇しないように進路をとりましたが、それでも18日の朝と午前10時には2隻の船と遭遇し、その後は絶えず進路を変更しながら南へと向かいました。
11月19日の11時頃には大隅海峡を通過する予定で進みましたが、九州地方は18日~19日にかけて暴風雨に見舞われる予報が出されており、「コルテラッツオ」はこの嵐を利用するように済州島沖を通過して11月19日には大隅海峡から太平洋へと乗り出しました。太平洋に乗り出した「コルテラッツオ」は国際汽船の「近賀丸」に偽装を変更し、ファンネルマークも塗り替えられました。なお「第一長久丸」と国際汽船の「近賀丸」という船は実在しない模様で、この漢字表記名はあくまでも想像ですので参考程度に。(汗
太平洋からボルドーまでの航路はあらかじめ暗号で指示されており、《C》から始まる17か所の地点が指定されており、11月21日には追加の指示によりいくつかの地点での到着予定月日も指定され、この日付は1日程度の誤差しか許されず最後の2地点については予定日厳守が求められました。これはUボートや他の部隊による味方撃ち防止の措置でもありました。
No. | 地点名 | 緯度 | 経度 | 予定日 |
1 | CARMELA | 04°N | 170°W | 12/2 |
2 | CARLO | 28°S | 140°W | |
3 | CARLOTTA | 10°S | 127°W | |
4 | COSTANZO | 54°S | 80°W | |
5 | CLARA | 58°S | 65°W | 12/25 |
6 | CATERINA | 53°S | 48°W | |
7 | CIRILLO | 20°S | 20°W | |
8 | CLAUDIO | 20°S | 15°W | |
9 | CORRADO | 10°S | 20°W | |
10 | CRISTOFORO | 10°S | 17°W | 1/6 |
11 | CLARISSA | 05°N | 28°W | |
12 | CORNELIO | 12°N | 39°W | 1/13 |
13 | COSTANTINO | 41°N | 37°W | 1/20 |
14 | CECILIA | 40°N | 36°W | |
15 | CAROLINA | 46°N | 20°W | |
16 | CLEMENTE | 35°N | 22°W | 1/20? |
17 | CRISPINO | 42°N | 18°W | 1/23 |
11月25日~27日にかけて「コルテラッツオ」は北緯12度線を越えて南下し、27日~28日の午後にカロリン諸島とマーシャル諸島の間を通過する際には、3隻の日本潜水艦が一列になって航行するのを目撃してわずかに進路を変更しました。2日後の29日には東に進路を変更して日付変更線を越え、フィリピン~アメリカ間の主要航路は30日の夜の間に通過するよう速度が調整されました。
12月2日15時30分には赤道を通過し、3日にはオーストラリア西方海上でドイツ仮装巡洋艦「コルモラン」がオーストラリア軽巡洋艦「シドニー」と相打ちになったニュースが傍受されました。「コルテラッツオ」がギルバート諸島とエリス島の間を航行中の12月7日~8日に日本軍が真珠湾を攻撃してアメリカが参戦し、もはや日本船に偽装する意味はなくなり、むしろ攻撃される危険さえ生じました。「コルテラッツオ」は予定よりも早く偽装をスウェーデン船の「デリー」(Delhi)に衣替えし、ファンネルマークは青丸と黄色ラインのスウェーデン王室カラーに塗り替えられ、船体には船名とともに母港名の「ヨーテボリ」(Göteborg)とスウェーデン国旗が大書きされました。「コルテラッツオ」はソロモン諸島とサモア島の間の海域を通過し、ソシエテ諸島のタヒチ島へと進路をとりました。タヒチ島のパペーテにはフランス海軍基地があることから島からは大きく距離をとって航行し、その後は南南東へ進路を取りホーン岬を目指しました。
12月9日~10日には激しい嵐に遭遇し、13日には天候は回復したものの14日には再び激しい嵐となり16日には回復し始めました。この間15日と16日には機関の修理が行われ、19日には船からの脱出訓練も行われたほか、厳しい寒さに備えて暖房用補助ボイラーの使用が開始されました。ホーン岬に近づくに従い天候は急激に悪化し、強風と寒さのために長時間の見張りは不可能でしたが、どんなに悪天候でも近くに敵船がいる可能性はあり、油断はできませんでした。さらに南半球の夏のこの時期には流出した氷山が風に流されてマゼラン海峡まで運ばれており、氷山との衝突の危険は常にあり、実際に突然の気温低下があった際には船長は直ちに左60度に変針し、間もなく出現した氷山を無事回避することができました。
12月22日午後5時頃、機関故障で一時航行不能となり応急修理によりともかく航行を再開しましたが、本格的な修理には4時間かかると見積もられており、いずれにしても悪天候の中での修理は不可能でした。ホーン岬はクリスマスイブに通過し、25日にかけては霧が発生するとともに激しいローリングに見舞われ、コックと食事係の奮闘にもかかわらずクリスマスランチの準備もままなりませんでした。
ホーン岬を通過したところで島陰に退避して本格的に修理を行うこととなり、ティエラ・デル・フエゴ(Terra del Fuoco)島の北岸に接近しました。12月28日午後9時頃から修理のために一旦機関を停止したあと、12月31日午後8時30分~1月1日午前0時30分の間、12月22日に故障した箇所の修理が行われました。さらに午前8時30分~12時30分にも準備作業の後、2日の午後9時30分~3日の午前3時までさらに本格的な修理が行われました。この停泊期間を利用して嵐によって損傷した船体各部(ドア、隔壁、舷窓、パイプ類、居住区への浸水、ボートの破損など)の修理も同時に行われました。
修理の完了した「コルテラッツオ」はフォークランド島と南ジョージア島の間を通過してから北上し、大西洋の真ん中に進路を取りました。ナタール(Natal)とフリータウン(Freetown)の間は大西洋が最も狭い海域であり、全ての航路が行交う通過点となっていることからイギリス軍による厳重な監視下にあり、さらにアメリカの参戦によりアメリカ海軍も哨戒機と艦隊を派遣して警戒していました。船長はこの情報を知らなかったものの、夜陰に乗じてこの海域を通過することとし、サンペドロ・サンパウロ群島(Arquipélago de São Pedro e São Paulo)の海域に向かってやや西に進路を取りました。
1942年1月10日、「コルテラッツオ」は連合軍による警戒が最も厳重な海域に入り、さらに11日には数日中に航行予定の海域でUボートのグループがイギリスの輸送船団を捜索中との情報が入り、さらに西側へと進路を変更しました。1月16日にはサルガッソ海の東側海域に達し、午後3時15分頃にイギリスの大型タンカーを発見しましたが、相手の進路を探りながら離れるように進路を変えると午後5時30分~45分には船は見えなくなりました。「コルテラッツオ」は進路をアゾレス諸島の方角へと変更し、夜のうちにアゾレス諸島の東側150マイルを通過するように速度を調整しました。1月18日、海は荒れ模様となり気温が急激に低下して天候は悪化し始め、20日には航海中最悪の嵐に遭遇する中でヨーロッパへと進路を取りました。
1月21日、見張りが潜水艦の司令塔を発見し、同時に雷跡も目撃されましたが、幸い損害はありませんでした。激しいうねりのために潜水艦の司令塔が偶然海面から暴露したようでしたが、実際に攻撃されていたのは確かでした。1月23日、「コルテラッツオ」はアゾレス諸島の北西海域へと達しました。この海域はイギリス~地中海~アフリカを結ぶ航路の交差点でもあり、厳重な警戒が必要でした。オルテガル岬沖に達した後はスペインの沿岸に沿って進みボルドーへと向かう予定で、この日は護衛のUボートとの会合も予定されましたが、10時間待ってもUボートは現れませんでした。霧も発生しましたが敵からの発見を避けるにはかえって好都合であり、詳細な海図のない海域ではあったものの、あまり沿岸から離れすぎないようにしなければなりませんでした。
1月25日「コルテラッツオ」は約20隻のイギリス船団と遭遇しましたが、怪しまれることもなく慎重に航行しました。霧が晴れてオルテガル岬が見え始めた時、同時に浮上した潜水艦の存在も明らかになりました。これはUボートであり、艦長はビスケー湾にいるスウェーデン船を不審に思い、魚雷発射の準備をしながら接近を命じていました。一方「コルテラッツオ」の方も見張りを強化しており、士官の一人がUボートに気がつき直ちにイタリア国旗が掲揚され、識別信号が発信されました。しばらくの通信のあとUボートはイタリア船の幸運を願いながら姿を消しました。「コルテラッツオ」はこの後イベリア半島の北岸に沿って進み、Uボートを捜索するサンダーランド飛行艇を避けてフランス国境のイルン港(Irun)に入港して護衛の迎えを待ち、ボルドーへと向かうこととなりました。
1月26日午前8時30分、イルン港出発直後のHiguer岬沖で3隻のドイツ掃海艇と出会い、またしても不審船扱いされましたが、実はイタリアの封鎖突破船であることがわかると、早速護衛してくれることとなりました。その後、北へ16マイルほど移動してサン=ジャン=ド=リュブ港(Saint-Jean-de-Luz)で一時停泊して予定通りドイツ駆逐艦3隻と合流し、護衛には空軍のJu88×8機も加わってジロンド川へと向かいました。なお、この護衛については掃海艇3隻と水上機4機との説もあるようです。
1月27日午前3時、ジロンド川河口に到着し、満潮を待ってから夕方にはボルドーに到着してイタリア海軍ボルドー基地(BETASOM)のスタッフの出迎えを受けました。日本を出発して42,000kmを平均速度12.3ノットで航行し、所要日数72日間の航海でした。この航海の成功により乗組員は叙勲を受け、船長と機関長は「戦功章銀章」、その他の士官は「戦功章銅章」、その他の船員は「戦功十字章」が授与されました。乗組員はイタリア本国に帰還し、貨物はイタリアとドイツに鉄道輸送されました。
「コルテラッツオ」はイタリアの最大、最新の近代的商船の一隻であることから、封鎖突破船として再び極東に向かう準備が始められました。このため1942年7月7日にはボルドーのドイツ軍司令部からの依頼によりイタリア海軍の技術者と労働者による特別チームがラ・スペツィア(La Spezia)からボルドーへと到着し、「コルテラッツオ」の他3隻が選抜され準備が進められました。
□コルテラッツオ(Cortellazzo)
□ピエトロ・オルセオッロ(Pietoro Orseolo)
□フジヤマ(Fusijama)
□ヒマラヤ(Himalaya)
「コルテラッツオ」には自衛用としてドイツ製105mm高射砲×1門、20mm高射機関砲×2門、フランス製9mm機銃×2丁、さらに煙幕発生装置も搭載されました。新しい乗組員はベテランのAugust
Paladihi船長以下士官9名、下士官6名、船員47名がイタリアのトリエステからモナコ経由でボルドーまで鉄道輸送され、出発準備が整えられました。日本向けには6,000トンの貨物が積載され、日本に向かうドイツ軍兵士9名も便乗することになりました。貨物の内訳は、水銀、特殊鋼、鉱物、医薬品、航空エンジン、潜水艦の装備品、実験兵器類などでした。1942年10月1日には先に準備のできた「ピエトロ・オルセオロ」が極東行きの第一船として先発し無事にビスケー湾の警戒線を突破しており、「コルテラッツオ」にも期待がかかりました。これに対してイギリス軍も「コルテラッツオ」の出発準備を探知しており、1942年11月からはジロンド川河口を出入りする航路は潜水艦と哨戒機により警戒が強化されていました。しかし悪天候によりショートサンダーランド飛行艇が誤ってイギリス潜水艦「アンビーテン」(Unbeaten)を撃沈する事故が発生したため、監視エリアを分割して飛行艇はより沖合の哨戒海域へと移動し、これによりビスケー湾には二重の警戒線が形成されました。
11月28日の夜、「コルテラッツオ」は夜陰に乗じて出発し、予定航路上のUボートには情報が伝達されました。魚雷艇「コンドル」(Konder)、「ファルケ」(faruke)、「T22」の3隻が護衛としてフィニステレ岬まで護衛し、「コルテラッツオ」は沿岸から沖合へと向かいました。ビスケー湾に展開した4隻のイギリス潜水艦による警戒線は無事突破しましたが、哨戒機には発見されてしまいました。この哨戒機はイギリス本土からジブラルタルに向かっていた「トーチKMF4」船団を護衛していたショートサンダーランド飛行艇で、11月30日朝に発信された無線通信によると、オルテガル岬沖でイギリス軍機が敵船を攻撃しており、この船は12ノットで西へと向かっていると報告されました。この情報により警戒中のイギリス潜水艦グループのうち「シーライオン」(HMS
Sealion)と「クダイド」(HMS Clyde)の2隻に攻撃命令が発信されましたが攻撃は失敗しており、「コルテラッツオ」はこれに気付かずそのまま航行を続け、イギリス船団の進路と交差するように進んでしまいました。
12月1日、イギリス船団の護衛部隊が「コルテラッツオ」を発見し、護衛艦が分離して全速力で追跡してたちまち「コルテラッツオ」を包囲しました。駆逐艦「リダウト」(HMS
Redoubt)が接近したとき船長は自沈のための爆薬に点火を命じ、乗組員は救命ボートで脱出した後、「コルテラッツオ」は数十分で爆発してフィニステレ岬の沖合約500マイルの地点で沈没しました。乗組員は全員イギリス艦に救助されてジブラルタルへ上陸し、その後イギリス本土の捕虜収容所に送られました。
参考資料
ウィキペディア(イタリア語版):Cortellazzo (nave mercantile)
Casina dei Capitani.net/CORTELLAZZO
2019.3.21 新規作成
2019.10.23 構成を変更