第425回定期演奏会 <2009.2.19-20>

指揮:大植英次

モーツァルト作曲 ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノム」K.271
マーラー作曲 交響曲第5番嬰ハ短調

ピアノ独奏:ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ


MOZART Eiji Oue


マーラーの交響曲第5番について

マーラーの交響曲第5番について、先日NHK・BSの番組で取り上げていた。
「名曲探偵アマデウス」という番組で、コミカルな芝居仕立てのものだけど内容は結構専門的で有意義だった。

この曲の解説書には、全5楽章のうち、葬送行進曲で始まる第1楽章と第2楽章の二つを第1部、そして長大なスケルツォの第3楽章が第2部で、「アダージェット」の第4楽章と終楽章を第3部とする構成になってると書いてある。
別の解説書では、第1楽章は第2楽章の序章であり、全体としては古典的な4楽章の構成になっていると言う。
私にはどちらが正解なのかわかりません。というより、聴けば聴くほどまとまりのない曲に思えるのです。
今日、前述のテレビ番組の録画を見て、<なるほど、その通り!>と共感するような意見がありました。
「もともとこの曲自体が支離滅裂な音楽」だというのです。
極度の神経質、精神分裂症気味だったと言われるマーラーの音楽は、ものすごい高揚感・激しい感情と厭世的な気分いっぱいの重々しさが同居している。そして時に、夢見るような甘美なメロディーや諧謔的な音楽もある。
こんないろんな性格が混在するマーラーの音楽は、もともと支離滅裂なものと考えてみると、実は一番わかりやすいのかもしれない。
この番組では、第4楽章の「アダージェット」を中心に分析していて、この甘美な音楽を単に「愛の音楽」ととらえるだけでなく、専門家が分析する巧妙な不協和音の使い方や、精神分析医によるマーラーの精神状態など、非常に面白いと思いました。

そんないろんな角度からの分析を踏まえて、これからまたじっくり聴いてみたいと思いますが、それはさておき、今私がこの曲で一番興味あるのが第1楽章。
トランペットのソロで始まりますがこの音型、実はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」のあの動機とまったく同じ音型だということ。
<タ・タ・タ・タ−ン>という4つの音が繰り返し使われますが、ベートーヴェンのそれが強固な意志の力なのに対しマーラーは葬送のマーチ!
これは一体どう解釈したらいいのでしょうか?
5番目のシンフォニーということでベートーヴェンを意識したことは間違いないと思います。問題は、マーラーがどう意識し、自分の<5番>をどのような作品に仕上げたかったのかということです。
残念ながらその答えは見つけることが出来ません。
でも私なりに今考えているのは、この当時のマーラーは、あのベートーヴェンの<凝縮された運命の動機>をどうしても超えてみたかったのではないか、ということ。
単純な音型でありながら、ものすごい凝集力を感じるあの動機は、オーケストレーションに絶対的な自信を持っていただろうマーラーにも避けて通ることが出来なかったのではないでしょうか?
交響曲というジャンルでベートーヴェンを超えるには何が必要なのか、「第5」を凌駕する音楽とはどういうものなのか・・・・?
そこから導き出したのが、この葬送行進曲ではなかったのかな?
そう思えてなりません。
そのテーマで第1楽章を書いたまではよかったがその後の組み立てがなかなか思うように行かない、そこで苦心に苦心を重ねて出来上がったのが今の5番のシンフォニーで、聴いてみてもなかなか統一感がなくてバラバラの音楽に思えます。
前述のテレビ番組の、「もともとこの曲自体が支離滅裂な音楽」という解説が当てはまるように思います。
第4楽章のアダージェットは、昔恋愛映画に使われたくらい甘く切ない音楽で、これだけ単独で聴く機会もあるくらいで、一度聴いたら忘れられません。
また終楽章では、明るく楽しげなメロディーあり、複雑なフーガの壮麗な響きありで、最終的に大きく盛り上がる音楽。
それぞれ単独楽章として聴いたらすごく味わい深いのですが、これらの音楽と第1楽章の葬送行進曲とはどう結びつくのか?そこが今の私には疑問として残ってしまってるので、どうしてもこの曲が統一感のあるシンフォニーとして響いてこないのです。
「大地の歌」は性格の違う6曲から成る大曲ですが、こちらの方は違和感がありません。
マーラーの音楽はもはや古典的な構成という狭い範疇には入らない、というよりもう完全に「古典的な交響曲」という枠では縛れない音楽になっているので、このシンフォニーが<支離滅裂な音楽>という見方自体が、古い考え方なのかもしれません。

大植英次の2009年の演奏について

3年前に大阪国際フェスティバルで聴いたときとあまりにも違うので、この演奏をどう受け止めたらいいのか、未だに迷ってます。
前回は、普通この曲に持っているイメージどおりの演奏で、終楽章の明るいクライマックスに焦点を当てたものだったと記憶してるのですが、それとはまったく違った演奏を繰り広げました。
五つの楽章からなるこの曲の演奏時間は約70分、感覚としては1時間を少し越えるくらいかなというイメージで、3年前もそうだったと思います。
ところが今回の演奏は90分を間違いなく超えるという、ものすごく遅いテンポでした。
第1楽章は葬送行進曲なのでこういう遅いテンポは十分に考えられます。でも第2楽章の「嵐のように激しく」という指定の部分でもものすごく遅くて、異様な重苦しさを感じます。
そのイメージは次のスケルツォ楽章でも同じで、中間に出てくるトリオの部分が非常にゆっくりで、途中で音楽が止まるのではないかと心配になる位遅い。遅いというより、何かに取り憑かれたように一音・一音を噛み締めてゆく。
演奏するほうは、文字通り必死についていくだけという感じです。当然聴いてる側もその流れに引きづられてしまいます。
唯一、アダージェットの第4楽章が“普通のテンポ”で演奏されたように思います。
弦楽合奏とハープだけで奏でられるこの美しい楽章が、本当に天国的な美しさを素直に音で表現していました。
終楽章も大分遅い部分がありましたが、後半どんどん大きく盛り上がって圧倒的なクライマックスを築くという音楽なので、ここに到達するとこの曲本来の明るさが出ていました。

この日の演奏、録音されてるので、いずれ耳にする機会があればじっくり聴きなおしてみたいと思いますが、この曲を鑑賞するために聴き直すということはないでしょうし、この曲を知るために聴く演奏でもありません。
ちなみに、2002年のサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの演奏を見・聴いてみると、この曲の全体イメージがよくわかります。
決して全曲葬送行進曲というイメージの曲じゃなく、明るさ・楽しさもいっぱい持った音楽なのです。
この日の大植英次にいったい何があったのか? なぜ今回このような演奏をしたのか?
ステージに登場してきた大植英次の、病的な痩せ細った姿、歩く姿も今までの大植英次のそれではない。
一目見た瞬間に異様な雰囲気を感じ、マーラーの世界をデフォルメする異様な音楽作りに、正直<死の影>を感じてしまいました。
今まで聴いてきた大植英次の音楽は、基本的に色彩豊かな明るい音楽です。
ドイツ音楽の重厚さより、近・現代の彩り豊かな音楽に向いてる指揮者のはずです。
その彼が、音が濁ろうがアンサンブルに乱れが出ようがお構いなしで、それよりもっと心の叫びを表に出そうと懸命になってるよう。
耳に心地よい音を出すことに一生懸命になる指揮者が多い中、こういう音楽をする人は少なくなってるので、私としてはうれしいことで、特に大植英次がこういう指揮者に変身するのは大いに歓迎したいものです。
でもこのマーラーの特異な演奏は、そういうスタイルの変容ではなくて、体調の悪化で何がしかの<覚悟>というものが感じられます。

演奏後、いつものようにロビーでファンのためにサイン会をやっていたようだし、この90分を超える演奏をやり終えたわけですから、それなりの体力はあったと考えることも出来るので、実際彼の体調がどうなのかはわかりません。
大阪フィルのファンとしては、彼の<復調>を願うばかりです。


モーツァルトの協奏曲を弾いたヌーブルジェというピアニスト、見た感じは弱弱しい青年だけど、演奏は実に音の輪郭のはっきりしたピアニストです。
若きモーツァルトの傑作を、存分に楽しませてくれました。
音の一つ一つが非常に明快で、なおかつ音楽の流れをはっきり示してくれます。
変に感情移入するのではなく淡々と弾いているだけなのに、モーツァルトの音楽の美しさがしっかり見えてくる、そんな演奏です。
ただここでも、指揮者の大植英次の姿が目に入り、なかなか音楽に集中できませんでした。