大阪フィルハーモニー交響楽団



歴史

 
1947年 戦後の混乱期に、朝比奈隆のもと、在阪の音楽家を中心に<関西交響楽団>として発足。
1960年 関西交響楽団を改組し、<大阪フィルハーモニー交響楽団>となる。
1975年 ヨーロッパに演奏旅行。このときに、聖フローリアン教会で演奏されたブルックナー作曲交響曲第7番がレコード化され、伝説的名演となる。
1997年 創立50周年。
2001年 12月29日 創立者・音楽監督の朝比奈隆永眠。
2003年 第2代音楽監督に、大植英次が就任。

大阪を代表するオーケストラである。というより、半世紀以上の長い歴史を、朝比奈隆とともに歩んできたオーケストラといったほうがいいかもしれない。
朝比奈時代のベートーヴェンやブルックナーのCD・レコードは、欧米の数々の名演と肩を並べる存在であり、日本の誇る大きな文化的財産でもある。
2003年のシーズンからバトンを引き継いだ大植英次が、近い将来、第二の黄金時代を築いてくれるものと信じてます。 





朝比奈隆との接点


朝比奈隆という名前、これは重いものです。
その演奏は、決して派手なものではありません。きれいにまとめられた響きでもありません。どちらかといえば、ごつごつとした手作りの音というほうが分かりやすいように思います。
都会的・流行・洗練・外面的、こういう言葉と正反対の音楽家。
自分は<職人>であるという姿勢を最後まで貫き、多くのファンを魅了し続けた彼の音楽、今から思えば、もっともっとコンサート会場に行くべきだったなと後悔しています。
でも、生で聴いた演奏は、私の宝物のひとつに違いありません。
ただ、朝比奈の演奏すべてがすばらしかったとは思ってません。
すばらしい演奏もあったけど、期待はずれのときもありました。
でも、彼の名演奏を一度でも体験した人は、一生の思い出となってるはずです。
ザ・シンフォニー・ホールでの<お別れの会>は、寂しくもありまた彼の残してくれた宝物を、われわれの心の中で暖めはぐくんでいくスタートになると思います。



出会い


はじめて聴いたのがこの演奏会1970年第85回定期演奏会です。
部屋の整理中偶然発見!した懐かしいチケットです。今となっては、演奏はまったく覚えてませんが、当時の状況が懐かしく思い出されます。


別れ


2002年2月7日 ザ・シンフォニー・ホールでのお別れ会。
舞台に大阪フィル、指揮者の前に献花台、二階席のパイプオルガン前に朝比奈隆の大きな写真が・・・
若杉弘の指揮で、ベートーヴェンの交響曲第3番の葬送行進曲が演奏されていました。




2003年・新たな出発 ≪Age of Eiji≫



 大植英次(Eiji Ohue)、名前は聞いたことがある、でも演奏は聴いたことがない。
佐渡裕と同世代の指揮者、バーンスタインの弟子・・・
そんな程度の知識しかなかったけど、朝比奈の後継者として、第2代大阪フィルの音楽監督に就任というニュースは少し意外でした。
でも、アメリカでの活躍してた様子、ドイツへの進出、<日本では大阪フィルしか振らない>という発言などが、次第に私の中に期待を膨らませてくれました。
時を同じくして、星野阪神が大きく変わりつつありました。オーケストラとプロ野球、何の関係もないのですが、私の中では同時進行の期待の星となりました。
そうです、星野監督と大植英次さんが同じウェイトを占めだしたのです。

朝比奈隆をもう一度聴くことはできません。でも、大植英次が何か素晴らしいものを聴かせてくれるような気がしてなりません。朝比奈と比較するんじゃなく、これからのわれわれに素晴らしい音楽を提供してくれそうな予感がします。

朝比奈隆の大阪フィルから、大植英次の大阪フィルへ
朝比奈の時代から、大植英次の時代へ。
Age of Eiji の到来です。





大植英次ってどんな人?


1957年 広島県生まれ
桐朋学園で斉藤秀雄に学ぶ。
1978年 アメリカに渡り、バーンスタイン・小澤征爾らに学ぶ
1991年

1995年
エリー・フィルハーモニックの音楽監督
1995年

2002年
ミネソタ管弦楽団の音楽監督
1998年 西ドイツのハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニーの主席指揮者に就任
2000年 ハノーファー音楽大学の終身正教授を務める
2003年 大阪フィルハーモニー交響楽団の第2代音楽監督に就任
2005年 バイロイト音楽祭に日本人として始めて登場、「トリスタンとイゾルデ」を指揮

熱いハートの持ち主
勉強熱心、
「朝比奈隆の魂と一緒に、大阪フィルを成長させたい」
「一人でも多くの人に音楽の楽しさを分かってもらいたい」
まちがいなく、大阪フィルを変える男


ザ・シンフォニー・ホールで確かめてください。

定期演奏会