御影から歩いて尋ねられる近隣の自然をを紹介します。
|
住吉川 |
 |
 |
 |

昭和40年前後、住吉川河中通路を走るダンプカー |
 |
上の地図は江戸時代の住吉村の絵図ですが、東側の青色部分は住吉川で、
横側の緑色のところは松林であり、河口まで続いていました。
松林地帯は土地がやせて作物が育たず、年貢が軽くしかかけられませんでした。
反高林と呼ばれていたところはこうしたところです。
黄色の部分は田畑で、赤い線は道ですが、本住吉神社の前の道は西国街道です。
下の写真は明治〜大正時代の住吉川の風景です。 |
ページトップへ |
魚崎、深江の浜 |

魚崎海岸の地引き網の風景 |

昭和32年(1957)年頃の深江浜でのイワシ干し風景 |
 |
昭和30年代まで、魚崎、住吉、御影の浜では漁業が盛んでした。
当時はイワシ、アジ、チヌ(クロダイ)、カレイ、アナゴなどが水揚げされました。
地引き網で獲れるカタクチイワシは、釜ゆでにして干し、主にだし用のイリコとして出荷されていました。
昔は海水浴場でもありました。
|
ページトップへ |
御影の浜 |
 |
 |

御影の浜から住吉方面を望む |
 |
江戸時代前半は御影石の出荷、後半は酒の出荷で御影の浜でにぎわっていたようです。
そもそも御影石は御影の地からは産出しません。
御影では石屋の地名があるようにもっぱら石の加工が行われていました。
住吉の浜は浅く荷出しには不向きだったというのが理由のようです。
|
ページトップへ |
深田池 |
 |
 |
古地図の東側にある池が村田池で深田池と同じく灌漑用の池だったようで、今は埋め立てられてありません。
今の御影ガーデンシティあたりかと思われます。
深田池、村田池共に「クンケ村、ミカケ村、ヒラタ村」に水の権利があったとされています。
昔から農地にとっては水利は重要な問題です。
深田池の南側に浅田池がありましたが、古地図には記載されていないようです。 |
ページトップへ |
六甲山 |
 |

明治36年(1903)、再度山付近の治山工事施工直後 |

東六甲極楽渓(戦後の絵葉書) |

裏六甲の懸崖裂石(昭和初期の絵葉書) |

(六甲名勝)山頂の雄姿(昭和初期の絵葉書) |

六甲ケーブル(戦後の絵葉書) |

(六甲名勝)ケーブルカー(昭和8年以降?) |

六甲山・ケーブルカー(戦後の絵葉書) |

(六甲名勝)六甲開祖の碑(昭和初期の絵葉書) |

摂津有馬六甲山頂白山権現参詣道
(明治〜大正時代?) |

昭和40年代の回る十国展望台 |

昭和20年代後半の六甲ケーブル土橋駅 |

明治36年植林時の六甲山 |

植林後10年目(大正2年) |
今は緑の木々が茂る山ですが、明治時代中頃まで、六甲山はハゲ山でした。
植物学者の牧野富太郎が「海上から六甲山の禿(はげ)山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った。」
と書いているほど緑がなかったようです。白い花崗岩が雪に見えたのでしょう。
左下の写真は明治36年に植林が進められた頃のもので、右下の写真は10年後の六甲山です。
化石燃料が利用されるようになると、薪の需要が減り、徐々に緑の六甲山になっていったのです。
昭和初期の山頂の絵葉書はまだまだはげ山で、いかに現在の風景にするのに時間がかかっているかが分かります。
六甲開祖の碑は昭和17年に「敵国人の顕彰碑」であると軍部の圧力で破壊され、谷底へ捨てられました。
この頃は現在のイノシシ問題もなかったと思いますが、餌を与える人の気がしれません。 |
摩耶山 |

神戸港から望む摩耶山 |

摩耶山ホテル |

摩耶山ケーブル頂上から六甲山眺望 |

摩耶山を上下するケーブルカー |

摩耶ロープウェー星の駅
|
ページトップへ |