御影から歩いて尋ねられる遺跡・旧蹟などを紹介します。
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坊ヶ塚古墳・住吉東古墳 |
下の写真はWikipediaからのコピーで住吉宮町遺跡の過去の発掘された
場所が示されています。数字は調査の次数です。

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坊ヶ塚古墳跡は現在はシーア及びシーア駐車場、
間の道路になっています。NO.28のところです。
推定約57mの前方後円墳であったようです。
明治時代、国鉄住吉駅を建設する際、破壊されました。
そのころの住吉駅は、現在より少し東よりに、
レンガ造りの駅舎であったということです。
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住吉東古墳は現在シーアの南側の駐車場になっています。
24mの帆立貝形の古墳です。5世紀末頃造られたらしいです。
今はモニュメントが造られているのみです。
震災の際、発掘されましたが、出土物がありました。
モニュメントにされているの埴輪の馬も発見されました。
現在は西区の埋蔵文化センターにあります。
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東求女塚古墳 |
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兎原処女の伝説上では茅渟の男の墓だとされている所です。
乙女がひそかに好きだった方です。
三角縁神獣鏡4面をはじめ青銅鏡が約8面以上、車輪石・勾玉・鉄刀等が出土しています。人骨も出たようです。
これらの出土品は大部分東京国立博物館に所蔵されています。 |
約80mの前方後円墳だったようですが、
明治以降の土取り等により、
(付近の住民の壁土や阪神電車の高架工事の際に
削られたらしい)
現在では、公園内に後円部分しか残されていません。
かって前方後円墳が存在していたとはとても思えません。
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ヘボソ塚古墳 |
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摂津名所図会に扁保曾塚の名前が載せられていますが、
明治時代には破壊され、出土品は東京国立博物館に、
保存されているようです。
三角縁神獣鏡2面、画文帯神獣鏡1面をはじめ
青銅鏡6面と石釧や勾玉・管玉・棗玉などが出土しています。
写真でもどの部分かよくわかりませんが、
左側の丸いこんもりしたところかなと思われます。
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現在では石碑が残るのみで、駐車場になっています。
約63mの前方後円墳であったようですが、
そんな大きな前方後円墳が存在していたとはとても思えません。
一説には在原業平の塚という話があるようですが、
いくらなんでも時代が違いすぎると考えられます。
江戸時代には周辺に小塚が二十ほどあったとされています。 |
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御影の森 |
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江戸時代の地図には御影の杜の記述がありますが、
現在では名残すらもありません。
摂津名所絵図には御影村の浜松をいうとあります。
基俊の歌にある御影の松は,
一本の松ではなく御影の浜松ですが、
藤原基俊が面変わりすなといった言葉もむなしく、
思いっきり面変わりしています。 |
阪急御影駅北側の階段横のモニュメントです。
御影の杜に関する歌が2首刻まれています。
世尓(に)あら盤(は)又帰こむ津の國の
ミ可(か)けの松よ面可(か)者(は)里(り)すな
藤原基俊
よ見(み)置し松のこと葉能(の)散う世(せ)春(す)
ふ多(た)ゝひ千代の可(か)けそ榮む
権中納言 藤原正房新(し)留(る)壽(す)
御影本町六丁目の西方寺境内の歌碑を写したものです。 |
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御影の松 |
昔は御影町の海浜一帯は松原であり、此の浜松を御影の松、又は御影の杜といったようです。
伝説によると御影町字上中にある圓n寢マ音堂の側に御影の松があったという話で、
さらに西側に一つの石碑があり、二首の歌を刻んでいたそうです。此の石碑が現在の西方寺にある石碑だと思われますが、
明治時代まで「御影の松」はあったものの枯れてしまい、その木片も明治二十五年の大火で焼失し、
今の石碑の傍らにある若い松は二代目のようです。
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処女塚 |
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絵葉書にある処女塚です。石碑が塚の上にあります。 |
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前ページにも載せています。万葉集に歌われている兎原処女の伝説の三つの古墳のうちの乙女の墓とされているところです。
実際には古墳時代にこの地域を支配していた豪族の墓と言われています。
太平記によれば新田義貞がこの塚で敵と戦い、小山田高家は塚の上で討ち死にしたそうです。
昔の絵葉書にある石碑は塚の上にありますが、現在では塚の東横に設置されています。
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古美術商「播新」 の広告年賀状(1906年)
西求女塚古墳(灘区にある)の場所に建てられた元町の古美術商「播新」の別荘
楼閣や庭園もある大きな邸宅で、ゴードン・スミスも1904年に訪れています。
チャップリンも来たことがあるらしいです。
処女塚、東求女塚は東灘区内にありますが、西求女塚古墳は西灘にあります。
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枳殻御殿(きこくごてん) |
御影町誌によれば、澤の井の南方約一丁、元御影市場付近にあったとされています。
昔、神功皇后が三韓凱旋の帰途の途中、この地にしばらく滞在されたが、
枳殻(からたち)の垣をめぐらし、内に御殿を作ったといわれています。
広さが約三百坪あったと言うが、明治維新のころまで(元治年間1864〜1865)枳殻の垣があったということです。
元御影市場がどこにあったかというと現在の御影市場は阪神線の高架下にありますが、昭和10年に移転したもので、
それ以前は兵庫県武庫郡御影町上弓場にあったといいます。
それを考えれば、現在の御影本町4丁目あたり?らしいのですが、詳細は分からずじまいです。
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菅公船繋松 |
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天満神社の御旅所にある松が菅原道真が大宰府に左遷されるとき、
此の地を通った際船を寄せて此の松に繋いだとされるものです。
昭和11年の時点ではある枯れ木は三代目で、傍らにある古木の樹上に生えたという松が植えてあるらしいのですが、
此の松が現在の松だとしたら、少なくとも四代目以上ということになります。
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御影の滝 |
西平野大佛ヶ平にあったとされます。はじめ音無の瀧、平野瀧といい、のち瑠璃の瀧とも呼ばれていたようです。
木原伊兵衛氏の山荘、天然の園内にあって丈あまりの崖上より直下していると御影町誌にはあります。
明治時代の阪神線の観光案内には茶店とかもあったようで、今はどうなっているのでしょう?
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平野城跡 |
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「摂津志」に「御影村城 観応中平野氏拠焉」とあり、いわゆる平野城があったという。赤松円心の家臣であった平野忠勝が南北朝時代(1346年)に建てたといわれる。城の東は湿地帯で(深田池やかっての浅田池があったあたり一帯)あり、西は谷川(石屋川やその支流の新田川)があり、北には山がそびえており、地の利を活かした城であったようです。観応の乱により平野忠勝は敗れ、帰農するまで忠勝の居城となっていたそうです。
旧地名に「城の前」や「大手筋」がありましたが、これは城があった名残と言われています。
平野忠勝の墓は以前、中勝寺の南側にありましたが(山手幹線の南)、現在は中勝寺内に移されたようです。
写真の石碑は阪急御影の北側にあります。
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伊賀塚 |
摂津名所図会にも記載されていますが、平野村にあり、名義不詳とあります。江戸時代にはもうすでに詳細不明であったようです。
御影町誌には、西平野にあって「いかづか」と呼ぶとあります。
旧地番に伊賀塚がありましたので、そのあたりかと思われます。
6基の古墳があったといわれています。
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竹内松 |
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摂津名所図会の絵の中に「竹内松」があります。現在の八幡神社の境内の中に竹内松と刻まれた石碑があり、
傍らの告知板には、千七百年の昔竹内宿禰が植えられた松は江戸時代に幹周り五メートルの巨木となり、
竹内松と呼ばれ摂津の名所となったとあります。尚、老木は明治の代に枯れたのでその一部を保存しているらしいです。
石碑の側にある松は何代目でしょうか。もっとも竹内宿禰が植えたのは松の小枝らしいのですが。
この竹内宿禰は此処の松だけではなくほかにも松を植えたという話が何か所かあります。
松だけでなく、銀杏であったり、楠であったりケヤキであったりします。
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観世音 |
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左下の地図の一部を拡大したものが右の写真です |
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境内に御影の松があったところです。中の丁西方寺の東隣だったようです。現在はありません。
古地図の中に西方寺、観音、常順寺の文字が見えますが、西方寺は旧西国街道に面して現在もあります。
観音とは、真言宗の円福寺観音堂を指していると思われます。常順寺は現在移転していてこの場所にはありません。
こちらにあった石碑が現在の西方寺にあるものと同じかも?写真で見る限り同じに見えます。
この観音堂は明治時代の阪神沿線案内に記載されています。霊験あらたかだそうです。
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雀松原 |
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布引の滝、御影の杜、雀の松原、といった名所に挙げられたうちの一つですが、現在は石碑しか名残が残されていません。
図会から見れば現在の石碑の位置は全然違っています。
源平の軍勢は陣を張り、足利尊氏が弟の足利直義と戦ったところでもあります。
信長の手勢が陣を張っていた事もあります。
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二楽荘 |
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アラビヤ室(中央に噴水がある) |

イギリス室 |
西本願寺の大谷光瑞が建てた二楽荘です。エスカレーターがあったり、部屋の真ん中に噴水のあるアラビヤ室があったり、
インド室、シナ室があったりしました。
大正元年11月の公開日には、最寄駅の国鉄住吉駅や阪神電鉄青木・魚崎・住吉駅やその周辺は、
電車が着くたび超満員であったといいます。
沿道には出店が立ち並び、名物と称して「二楽荘餅」まで売っていたそうです。どんな味だったのでしょうか?
「二楽」は山と海を楽しむの意味だそうです。確かに山の上にあり、海を臨む位置にあります。
武庫仏教中学校という学校があり、測候所、園芸試験所、農園、博物館施設、印刷所もありました。
温室でマスクメロンを作って売ったり、明日の天気予想で晴れなら白球をあげていたり、博物館施設にミイラがあったりしていました。
火災があり、消失しましたが、現在は西本願寺とまったく関係のない宗教団体が所有しています。
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岡本梅林 |
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岡本梅林絵図 文化二年(1805) |
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摂津名所絵図にもあり、かっては岡本の梅と言えば有名でした。
大阪わらべ歌に「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」とあり、
兵庫木遣り音頭に「梅は岡本、桜は生田、松は湊川」と言われていたようです。
観梅のために、昔は阪神青木駅から約1キロの道を歩いていました。
一方国鉄も梅が見ごろの時期だけ天井川沿いに臨時駅を設けて、各地からの見物客を誘致していました。
現在の公園は様々な種類の梅が植えられています。
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本住吉神社 |
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左上の写真は大正時代初期の神社の正面のものです。現在の国道2号線の道幅とかなり違います。
左下の写真は明治時代のだんじりの様子です。
昔も今もだんじり頑張ってます。
摂津名所図絵では鳥居の前の参道は両側に松の並木が続いています。
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澤の井 |
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現在は阪神電車の高架の下にある澤の井ですが、かって田んぼのど真ん中にありました。
周りには民家もなく、田園風景の中でした。 |
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西岡本遺跡 |
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地図から見ると西岡本6丁目の浄水場の南側に当たります。
あたりは開発されて遺跡の面影もありません。
プレートも石碑もあるわけではないので不確かですがマンションの北側のようです。
この場所だけでなく一帯に遺跡があったようです。 |
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