この辺りになぜか多い「素盞嗚神社」
− 牛頭天王と神仏習合 −
豊能町西地区、から川西市、猪名川町にかけての地域(ここの住人風に言うと、ときわ台、妙見山から猪名川パークタウン、屏風岩のあたり)の地図をジーと眺めていると、妙に「素盞嗚神社」という名の神社が多いのに気が付きます。(「素盞嗚」は「すさのお」と読みます。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟ですねェ。) 普通、神社の名前には、地名がそのまま神社名であるものを除くと、「稲荷神社」や「八幡神社」などが多いのですが、見慣れない字なだけに余計に目に付きます。 |
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統計的に調べてみると・・・ @ 豊能町と能勢町には、合わせて13の神社があり、「素盞嗚神社」はないが、素盞嗚命を主祭神としている神社が4社ある。(「大阪府神社総覧」より)
A 北摂7市3町(淀川以北)にまで範囲を広げると、神社は全部で178社あり、そのうち、 B 猪名川町には全部で28の神社があり、そのうち、素盞嗚神社が4社、八坂神社が6社、名称にかかわらず素盞嗚命を主祭神としているのが合計で11社ある。(「猪名川町文化財研究」より) C 神社本庁の把握している日本の神社の総数は約10万社あるが、そのうち4万社が「稲荷神社」、約4万社が「八幡神社」である。
D 全国には素盞嗚命を主祭神とする主な神社には次のものがある。 各々の神社はその長い歴史の中で、近隣の神社の廃止などに伴い祭神を合祀したり、勧請により境内に「摂社」や「末社」を設けたりします。一つの神社に”系統”の違う複数の神が祭られることは全く普通のことですし、そのうちどれが主祭神なのか分からないことも珍しくないようです。また、日本に10万もの神社があるとも思えませんし、”稲荷神社系”が4万社といっても、おそらく摂社、末社も含んでの数字ではないかと思おもいます。 ですから、この統計データを同一レベルで並べることはできませんが、すくなくとも、北摂地域には素盞嗚を祭神とする神社が多いことは間違いないと思います。 |
キーワードは「牛頭天王」&「神仏習合」 続けて調べて分かったことは、E 素盞嗚命を祀る神社のほとんどが、明治初期までほ「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」または単に「てんのうさん」と呼ばれていて、牛頭天王なる神を祀っていた。 F 素盞嗚命と「牛頭天王」は、「神仏習合」の歴史の中で、この2神は同一視されていたが、明治以降、牛頭天王の名はパッタリと歴史から消え去り、素盞嗚命だけが現代に伝えられている。 どうも聴きなれない言葉が多いのですが、とりあえずキーワードは、 「牛頭天王」 そして 「神仏習合」 ということのようです。 |
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素盞嗚命(スサノオミコト)とはどんな神様? スサノオノミコトは、「古事記」には須佐之男命、「日本書紀」には素盞嗚命と表記されており、一般的には、"荒ぶる神"として恐れられる一方、泣いたり、怒ったり、恋したり、マザコンだったり、と非常に人間くさい神様とも言われています。 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)による神生みの際に生まれたとされていて、天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)と同じ時に生まれたので、合わせて「三貴子(さんきし)」と呼ばれています。 父である伊邪那岐命は、天照大神に高天原(たかまがはら/天の世界)を、月読命に夜の世界を、素盞嗚命に海の世界を、それぞれ治めるように命じます。しかし素盞嗚命だけは海の世界を治めずに大泣きして、「亡き母がいる根の国(黄泉の国/よみのくに)へ行きた〜い。」と反抗したので、怒った伊邪那岐命に追放されてしまいます。追放された素盞嗚命は、天照大神に別れのあいさつをしに高天原へ行ったものの、そこで田んぼをこわしたり、大便をしたりするなどの暴挙をはたらいて、そのおかげで天照大神は天の岩戸に隠れてしまいます。(天の岩戸隠れ) このように、素盞嗚命は、神々の世界では泣き虫のくせに乱暴者でしたが、人間の世界では英雄的な働きをします。 人間が住む世界へ降りた素盞嗚命は、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と奇稲田姫(クシイナダヒメ)を得、英雄として出雲の地におさまります。草薙剣は天照大神に献上され、三種の神器の一つとなります。 その後、奇稲田姫との間に生まれた須勢理毘姫(スセリヒメ)の夫が大国主命(オオクニヌシノミコト/大国さま)でその息子が言代主神(コトシロヌシノミコト/戎さん)となり、「国譲り」、「天孫降臨」へと神話は続いていきます。
牛頭天王(ごずてんのう)とは何?
牛頭天王とは、頭が牛の形をした仏教系の神で、怒らせると疫病を撒き散らす厄介な神とされてきました。
この牛頭天王、約1000年に及ぶ神仏習合の歴史の中で、素盞嗚命と同一視されてきたのです。
手短に言うと、牛頭天王は、
とにかく、平安時代頃から中世にかけて、牛頭天王は、疫病や諸々の災厄をもたらす神として、人々から畏怖の念をもって恐れられてきた反面、それらの災いを取り除くための、極めて重要な信仰の対象でもありました。特に村落共同体が、生産と生活を維持するために外敵から自衛しなければならない中世では、村の結束のシンボルとしても、うってつけの神様であったようです。
明治以降、維新政府の進める神仏分離政策において、牛頭天王は、神仏習合の悪い代表例として、ことごとく氏神社の祭神名から抹殺され、素盞鳴命と名乗らねばならなくなりました。記紀神話の中でも最も重要な神様である素盞嗚命と同一視されていたこと、全国に牛頭天王を主祭神とする神社があまりにも多すぎたこと、そしてなにより「てんのう」という呼び名が、維新政府は気に入らなかったのでしょう。
このように、民衆の生活に密着した神(牛頭天王)が、政治的理由により歴史から消し去られた後に、残された名称が「素盞嗚」であり、「八坂」であるわけです。
しかし、それではこの地域に八坂神社系の神社が、全国に分社が4万社あるとも言われている「八幡神社」や「稲荷神社」よりも、数が圧倒的に多い説明にはなっていません。 |
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素盞嗚神社が多いのは織田信長のせい? 牛頭天王を主祭神とする神社が多いという傾向は、何も川西市、猪名川町の辺りだけではなく、摂津国の豊島郡(今の豊中市、池田市、箕面市あたり)や 下島郡(今の茨木市、摂津市あたり)を中心として、摂津国、河内国、和泉国までの広い範囲で共通した傾向のようです。 これには、実は織田信長が深くかかわっているらしいのです。
元亀二年(1571)、信長の軍勢は延暦寺を焼き払い、僧侶ら数千人を虐殺したことは有名ですが、この後も、長島と越前の一向衆との戦いで数千から数万の門徒衆を執拗な残虐さで殺しています。彼には神仏を尊び、畏れるという考え方が全くなく、合理主義に徹する、当時では珍しい進歩的人物だった、という歴史的評価がなされています。
このような寺社焼き払いにおいて、天照大神、春日大神、八幡大神そして牛頭天王(素盞嗚命)の諸神を祀る神社には手を触れなかったといいます。 天照大神は天皇家、春日大神は藤原氏の氏神であり、八幡大神は武士の神さまであったことがその理由といわれています。 このことは、「豊島郡誌(1736)」、「摂津名所図会(1798)」や為那都比古神社(箕面市石丸)の由緒書などに記載されているそうで、歴史上の定説になっています。 ところが、この説の出所は「豊島郡誌」一つであって、これをベースに、北摂の寺社に根強い右近悪玉伝承も加わって、当時の観光ガイドブックであった「摂津名所図会」が大々的に書いたため、明治以降の文献においても度々採用され定説になっただけで、「豊島郡誌」の著者である今西玄章の思いつきが、「摂津名所図会」の世間への影響力を借りて「事実」に変えてしまったという方もおられます。 ま、その道の研究者でもない私には事の真偽のほどはわかりませんが、この地域に牛頭天王を祀る神社がなぜ多いのか、という疑問にこの説は唯一答えてくれましたのでとりあえず信じておきたいと思います。 |
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