この辺りになぜか多い「素盞嗚神社」

− 牛頭天王と神仏習合 −

  

 豊能町西地区、から川西市、猪名川町にかけての地域(ここの住人風に言うと、ときわ台、妙見山から猪名川パークタウン、屏風岩のあたり)の地図をジーと眺めていると、妙に「素盞嗚神社」という名の神社が多いのに気が付きます。(「素盞嗚」は「すさのお」と読みます。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟ですねェ。)
 普通、神社の名前には、地名がそのまま神社名であるものを除くと、「稲荷神社」や「八幡神社」などが多いのですが、見慣れない字なだけに余計に目に付きます。

 


付近の神社の位置    ●素盞嗚神社   ■八坂神社   ○その他の神社

 

 
歌垣神社  - 能勢町倉垣 −  ( 主祭神 : 素盞嗚命 )
 12世紀末にこの地に移転され、17世紀前半に牛頭天王が勧請された、との記録が残っている。神仏廃止令により八坂神社と改称されたが、明治の末期に村名を負わせた現在の社名に改められた。本殿覆も拝殿もないのこの辺りでは珍しい。隣接に江戸時代まで神宮寺であった日蓮宗湧泉寺がある。本殿は流れ造り。

  

統計的に調べてみると・・・

@ 豊能町と能勢町には、合わせて13の神社があり、「素盞嗚神社」はないが、素盞嗚命を主祭神としている神社が4社ある。(「大阪府神社総覧」より)

A 北摂7市3町(淀川以北)にまで範囲を広げると、神社は全部で178社あり、そのうち、
・「スサノオ神社」(表記法は数種類ある)と呼ばれているのは12社
・その名称にかかわらず、素盞嗚命を祭神にしている神社は、54社(30%)あり、44社(25%)が主祭神としている。(「大阪府神社総覧」より)

B 猪名川町には全部で28の神社があり、そのうち、素盞嗚神社が4社、八坂神社が6社、名称にかかわらず素盞嗚命を主祭神としているのが合計で11社ある。(「猪名川町文化財研究」より)

C 神社本庁の把握している日本の神社の総数は約10万社あるが、そのうち4万社が「稲荷神社」、約4万社が「八幡神社」である。

D 全国には素盞嗚命を主祭神とする主な神社には次のものがある。
・八坂神社(京都市東山区祇園町)を総本山とする八坂信仰神社が全国に2600社
・津島神社(愛知県津島市明神町)を総本山とする津島信仰神社が全国に3000社
・氷川神社(埼玉県大宮市高鼻町)を総本山とする氷川信仰神社が関東に200社
合計しても5800社。つまり、素盞嗚命を主祭神として祀る神社は、全国の神社総数の約5%にすぎない。

 各々の神社はその長い歴史の中で、近隣の神社の廃止などに伴い祭神を合祀したり、勧請により境内に「摂社」や「末社」を設けたりします。一つの神社に”系統”の違う複数の神が祭られることは全く普通のことですし、そのうちどれが主祭神なのか分からないことも珍しくないようです。また、日本に10万もの神社があるとも思えませんし、”稲荷神社系”が4万社といっても、おそらく摂社、末社も含んでの数字ではないかと思おもいます。

 ですから、この統計データを同一レベルで並べることはできませんが、すくなくとも、北摂地域には素盞嗚を祭神とする神社が多いことは間違いないと思います。

 

キーワードは「牛頭天王」&「神仏習合」

続けて調べて分かったことは、
E 素盞嗚命を祀る神社のほとんどが、明治初期までほ「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」または単に「てんのうさん」と呼ばれていて、牛頭天王なる神を祀っていた。
F 素盞嗚命と「牛頭天王」は、「神仏習合」の歴史の中で、この2神は同一視されていたが、明治以降、牛頭天王の名はパッタリと歴史から消え去り、素盞嗚命だけが現代に伝えられている。

どうも聴きなれない言葉が多いのですが、とりあえずキーワードは、

「牛頭天王」 そして 「神仏習合」

ということのようです。

 

 
山辺神社 − 能勢町山辺 -  ( 主祭神 : 素盞嗚命 )
 社記によれば推古天皇の治世に素盞嗚命を勧請したのが創建を伝えられている。山辺の地は地形的に見て、良好な耕作地として古くから荘園に組み込まれたと考えられており、その時代から集落の氏神社として存在していても不思議ではないらしい。戦国時代に山下城主塩川氏に攻め込まれ全焼したとの記録がある。本殿は流れ造り・・・だと思う。 (^^ゞ )

  

素盞嗚命(スサノオミコト)とはどんな神様?

 スサノオノミコトは、「古事記」には須佐之男命、「日本書紀」には素盞嗚命と表記されており、一般的には、"荒ぶる神"として恐れられる一方、泣いたり、怒ったり、恋したり、マザコンだったり、と非常に人間くさい神様とも言われています。  伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)による神生みの際に生まれたとされていて、天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)と同じ時に生まれたので、合わせて「三貴子(さんきし)」と呼ばれています。

 父である伊邪那岐命は、天照大神に高天原(たかまがはら/天の世界)を、月読命に夜の世界を、素盞嗚命に海の世界を、それぞれ治めるように命じます。しかし素盞嗚命だけは海の世界を治めずに大泣きして、「亡き母がいる根の国(黄泉の国/よみのくに)へ行きた〜い。」と反抗したので、怒った伊邪那岐命に追放されてしまいます。追放された素盞嗚命は、天照大神に別れのあいさつをしに高天原へ行ったものの、そこで田んぼをこわしたり、大便をしたりするなどの暴挙をはたらいて、そのおかげで天照大神は天の岩戸に隠れてしまいます。(天の岩戸隠れ)

 このように、素盞嗚命は、神々の世界では泣き虫のくせに乱暴者でしたが、人間の世界では英雄的な働きをします。 人間が住む世界へ降りた素盞嗚命は、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と奇稲田姫(クシイナダヒメ)を得、英雄として出雲の地におさまります。草薙剣は天照大神に献上され、三種の神器の一つとなります。

 その後、奇稲田姫との間に生まれた須勢理毘姫(スセリヒメ)の夫が大国主命(オオクニヌシノミコト/大国さま)でその息子が言代主神(コトシロヌシノミコト/戎さん)となり、「国譲り」、「天孫降臨」へと神話は続いていきます。

 

原林神社 − 能勢町下田尻 −  ( 主祭神 : 素盞嗚命 )
 参道が田尻小学校で分断されていて、校庭から神社境内に入る。創建は11世紀中ごろと伝えられており、覆いのない本殿と拝殿からなっている。珍しく木製の明神鳥居がある。本殿は流れ造り。

  

牛頭天王(ごずてんのう)とは何?

 牛頭天王とは、頭が牛の形をした仏教系の神で、怒らせると疫病を撒き散らす厄介な神とされてきました。
 現代の我々にはほとんど馴染みのない神で、「てんのう」の名称に違和感さえ覚えますが、明治より以前の日本人にとって「てんのう」とは、まず牛頭天王のことだったようです。
 村々にあった寺社の多くには牛頭天王が祀られ、正式には牛頭天王社、通称「てんのうさん」と呼ばれていました。天王山・天王町・天王祭など、全国で見られるこれらの名称は、ほとんどすべてが牛頭天王にかかわるものでした。

 この牛頭天王、約1000年に及ぶ神仏習合の歴史の中で、素盞嗚命と同一視されてきたのです。
 牛頭天王は、稲荷や八幡といった多くの流行神がそうであるように、極めて複雑な神格を持っており、その来歴にも不明な点が多いようです。何冊かその類の本を読みましたが、様々な説があるようですし、かなり複雑です。

 手短に言うと、牛頭天王は、

@祇園さん(京都八坂神社)や尾張(愛知県)津島神社の主祭神
A仏教の歴史においては、平家物語で有名な天竺における祇園精舎の守護神
B備後国風土記等に見られる「蘇民将来伝説」や日本書記に見られる素盞嗚命の朝鮮ソシモリ(牛頭)降臨説話などにより、「本地垂迹思想」によって素盞嗚命と習合

 ということになります。Bについては、「なんのこっちゃ?」でしょうから、より知りたい人はこちらをみてください。

 とにかく、平安時代頃から中世にかけて、牛頭天王は、疫病や諸々の災厄をもたらす神として、人々から畏怖の念をもって恐れられてきた反面、それらの災いを取り除くための、極めて重要な信仰の対象でもありました。特に村落共同体が、生産と生活を維持するために外敵から自衛しなければならない中世では、村の結束のシンボルとしても、うってつけの神様であったようです。
 しかし、近世になって、相対的に人々の生活が安定してくると、ありがたみも薄れ、その出生の不明さも手伝って、知識層からは胡散臭い眼で見られるようにさえなったといいいます。

 明治以降、維新政府の進める神仏分離政策において、牛頭天王は、神仏習合の悪い代表例として、ことごとく氏神社の祭神名から抹殺され、素盞鳴命と名乗らねばならなくなりました。記紀神話の中でも最も重要な神様である素盞嗚命と同一視されていたこと、全国に牛頭天王を主祭神とする神社があまりにも多すぎたこと、そしてなにより「てんのう」という呼び名が、維新政府は気に入らなかったのでしょう。
 近世までは単に「牛頭天王社」と名乗っていた神社のうち、あるものは「式内社」とされて「旧名」に復し、あるものは「素盞鳴命神社」、「須賀神社」、「八坂神社」などと改称する道をとり、またあるものは地名を冠した社名に変更されたのです。

 このように、民衆の生活に密着した神(牛頭天王)が、政治的理由により歴史から消し去られた後に、残された名称が「素盞嗚」であり、「八坂」であるわけです。
 この地域に点在する神社は、多田神社は別格として、そのほぼ全てが神主さんもいない、「村社」または「無格社」に位置づけられるものですが、逆に、一つの村・郷(都市化の進んだ現代においては「大字」がそれに近い単位でしょう。)には一つあるべき「産土神(うぶすながみ)」を祀る神社であるわけです。牛頭天王はその産土神の代表格であったのですから、「素盞嗚神社」や「八坂神社」は多くてあたりまえだということになります。
※「村社」、「無格社」:明治政府が定めた社格のひとつで、最下位に位置するもの。ただし、昭和16年時点で、全国の神社総数11万社のうち、「村社」は4.5万社、「無格社」は6万社にのぼり、その辺にある神社はすべてこのどちらかであった。

 しかし、それではこの地域に八坂神社系の神社が、全国に分社が4万社あるとも言われている「八幡神社」や「稲荷神社」よりも、数が圧倒的に多い説明にはなっていません。
 「稲荷神社」は京都伏見稲荷を本社としていて地理的も近いですし、八幡神社にいたっては、清和源氏の名を全国にとどろかせた源八幡太郎義家を祀っているのですから。
 これらの超メジャーな神社を抑えて、素盞嗚命を祭神とする神社がなぜ多いのでしょう。

 

素盞嗚神社 − 川西市石道 −
 石道の集落の一番奥、車も通れない細い道の先にこの神社はある。資料がないため創建時期などは不明だが、この集落自身が都市化の波から取り残されたような場所にあるため、神社も昔ながらの姿をよく残していると思う。

  

素盞嗚神社が多いのは織田信長のせい?

 牛頭天王を主祭神とする神社が多いという傾向は、何も川西市、猪名川町の辺りだけではなく、摂津国の豊島郡(今の豊中市、池田市、箕面市あたり)や 下島郡(今の茨木市、摂津市あたり)を中心として、摂津国、河内国、和泉国までの広い範囲で共通した傾向のようです。

 これには、実は織田信長が深くかかわっているらしいのです。

 元亀二年(1571)、信長の軍勢は延暦寺を焼き払い、僧侶ら数千人を虐殺したことは有名ですが、この後も、長島と越前の一向衆との戦いで数千から数万の門徒衆を執拗な残虐さで殺しています。彼には神仏を尊び、畏れるという考え方が全くなく、合理主義に徹する、当時では珍しい進歩的人物だった、という歴史的評価がなされています。
 これらの流れの中で、信長は高山右近らに命じて、摂津国一円の多数の寺社を破壊していくことになります。 豊能町、川西市、猪名川町は摂津国の北端にあたりますが、この地域に対しても、信長は甥の信澄を遣わして、多田神社、月峰寺(能勢町)、安楽寺(猪名川町)などの寺社を焼き払ったと「多田雪霜伝」には書かれています。

 このような寺社焼き払いにおいて、天照大神、春日大神、八幡大神そして牛頭天王(素盞嗚命)の諸神を祀る神社には手を触れなかったといいます。 天照大神は天皇家、春日大神は藤原氏の氏神であり、八幡大神は武士の神さまであったことがその理由といわれています。
 そして、牛頭天王に関しては、信長が氏神と仰いで社殿の造営にも協力したと伝えられる津島神社(愛知県津島市)の主祭神が牛頭天王だったためといわれています。
 つまり、信長に対する自衛策として、摂津国の神社は、この時期にこぞって牛頭天王を主祭神として奉るようになったののではないかと考えられるのです。奈良春日大社や岩清水八幡宮から由緒正しく勧請を受けることは大変で、牛頭天王はお気軽に祀ることができたのかもしれません。

 このことは、「豊島郡誌(1736)」、「摂津名所図会(1798)」や為那都比古神社(箕面市石丸)の由緒書などに記載されているそうで、歴史上の定説になっています。

 ところが、この説の出所は「豊島郡誌」一つであって、これをベースに、北摂の寺社に根強い右近悪玉伝承も加わって、当時の観光ガイドブックであった「摂津名所図会」が大々的に書いたため、明治以降の文献においても度々採用され定説になっただけで、「豊島郡誌」の著者である今西玄章の思いつきが、「摂津名所図会」の世間への影響力を借りて「事実」に変えてしまったという方もおられます。

 ま、その道の研究者でもない私には事の真偽のほどはわかりませんが、この地域に牛頭天王を祀る神社がなぜ多いのか、という疑問にこの説は唯一答えてくれましたのでとりあえず信じておきたいと思います。

 

素盞嗚神社 − 猪名川町上野 −
 猪名川町役場に近い県道沿いにある。ここの狛犬はなかなかブサイクで迫力がありチョット怖い。17世紀始めに社殿焼失の記録がある。伝説によれば、神功皇后が三韓の戦いの帰途この地で難を逃れたことが始まりだそうだ。かなり古い。神功皇后といえば八幡大神の一翼を担うほとんど神話の人です。本殿は春日造りで、拝殿と本殿覆いがある。

  

 
素盞嗚神社 − 猪名川町広根 −
 創建時期などの由来は不明だが、18世紀当初に荒廃していた社を再興したことが知られている。隣に曹洞宗雲覚寺があるがが、この寺は18世紀後半に神宮寺としてこの地に移転されたことが伝わっている。本殿は春日造りで覆いはなく、拝殿をもつ。最近建てかえられたよう。