僕達の氏神さまは八幡大神

− 吉川の地に息づく神様たち −

  

高代寺と妙見さんの二大寺院に見守られる吉川には、
これ以外にも神社やお寺がいくつかあります。

地域の氏神さまとして、今も信仰され、手入れされている社もあれば、
世代の移り変わりともに、忘れ去られようとしている社もあります。

 


吉川地区の神社、寺院

 

吉川八幡神社

 妙見口駅から旧道を北へ10分ほど歩くと、左手の小高い山の山すそに、椎−シイ−の大木に社殿をすっぽり包みこまれた吉川八幡神社があります。

 多田満仲の4代後の頼仲が治歴年間(1070頃)に吉川城在住の折に創建したものと言われ、昔は社務一切を高代寺が差配していたそうですが、明治以降の神仏分離政策により高代寺から独立し、神職を置いて現在に至っています。
 享保(1730頃)、天明(1780頃)、嘉永(1850頃)の各年の吉川村の大火の際にはここも消失したとの記録があるそうです。
 享保七年(1722)の寺社書状帳には「石八幡宮川辺郡黒川村も氏子にて神事も一所にて御座候」「社修復黒川村と当村と申し仕候」とあり、隣接の黒川村とは八幡神社をとおして相当深い関係があったと思われます。旧吉川村の氏神であるので、ときわ台や光風台の氏神さまということになります。

 全国に3万以上を数える八幡神社は、八幡大神(誉田別尊−ほんだわけのみこと−応神天皇)を御祭神としており、なかでも京都の石清水八幡宮、大分の宇佐神宮、鎌倉の鶴岡八幡宮は特に有名です。
 貞観年間(860頃)、宇佐八神宮から勧請を受け、京の南西・裏鬼門にあたる男山の峯に石清水八幡宮が創建され、その地で源八幡太郎義家が元服して八幡大神を氏神として仰いだため、以降武勇の神様として武家社会の信仰を集め、鎌倉の地にも鶴岡八幡宮が勧請されました。
 また八幡大神は、道鏡の事件を始めとして、国家にふりかかる災厄を除ける神様として歴史的に重要な役割を果たしてきたため、厄除けの神社として知られています。


本殿覆と拝殿をもつ立派な神社です

 


オイスカ南西にある燈籠


元町営プール跡の横にある燈籠

愛宕神社 秋葉神社

 吉川村は享保、天明、嘉永の各年に、村のほとんどを消失する大火にあっているため、たびたびの大火に苦しんだ村人たちが、火伏せの神である京都賀茂の愛宕神社を勧請したものと思われます。また、吉川の主要産業としての炭焼きは火を使うため、防火安全を祈願して愛宕さんを祀ったとも考えられます。

 愛宕神社の総本社は京都賀茂の愛宕神社であり、祭神は「愛宕様」と一般に呼ばれる火の神様ですが、基本的には迦遇土大神(かぐつちのおおかみ)とされています。

 この愛宕神社に燈明を差し上げる燈籠が近くに2ヶ所あります。ひとつは妙見参道沿いで元町営プール跡の横にあり、あとひとつはオイスカ南西の旧街道沿いの民家の裏手にあります。両方とも愛宕神社と秋葉神社の名前が刻まれています。

 秋葉神社とは、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)を祭神とする神社で、静岡県春野町にある秋葉神社を総本社としています。

 

金高稲荷神社 −きんたかいなり−

 保之谷から延びる山道を進むと、一庫ダムへの谷筋に金高稲荷大明神を祀る神社がひっそりとたたずんでいます。三坪程度の社、半坪程度の小宮、手水屋と木の鳥居だけの小さな神社です。

 この近くにあった桐山鉱山の守り神として、鉱山の繁栄と作業の安全を祈願するために祀られていたものと思われます。
 建立した人物や時期などは不明ですが、鉱山の衰退とともにお稲荷さんも荒れ果てて管理できなくなったため、明治30年に保之谷の方々が現在の地に移転・安置したといわれています。また、上棟の木札には明治13年に近郊の村々からの寄進を受け再建されたことが記されているそうですが、詳細は定かではありません。

 保之谷から神社へは3本の道が通じているそうですが、私は新光風台からダムに降りていく旧道沿いの谷筋から山道を辿りました。鉄塔の下までは細道をのぼりますが、そこから先はどこが道なのか分からないくらい草木が生い茂って、かなりの時間、林の中を彷徨った挙句になんとかたどり着くことができました。

 保之谷からの道のほかに、人庫ダム方面から登る道もあります。ダム沿道の鉄橋から石の鳥居がみえますが、これが正面からの参道にあたります。
 鳥居には明治30年2月建立と刻まれていますが、一庫ダム建設により、昭和58年に今の地に移築されたもので、以前は旧県道(湖底に水没)沿いにあったそうです。鳥居の額はなくなり、傍らの燈籠は一基がなく、残った一基も上部が欠如しています。

 昭和30年代頃までは、年暮れには掃除をし、正月にはお供えをし、9月の稲荷盆にも盛んだったそうですが、今はほとんど清掃管理も覚束ない状態のようです。

 稲荷神社は五穀豊穣と商売繁盛の神様であり、伏見稲荷大社を総本社として全国に約三万社祀られています。「金高−きんたか−」という名称は、金が高く積もる、金持ちになるという願いからつけられたのだと思います。


社の中には小さな本殿と多くの絵馬がある


鳥居と小宮 鳥居方向に上ると保之谷


ダム沿道から見える鳥居


上部の欠落した燈籠

 

若宮神社

 保之谷の北西側の細い急坂を上ったところにあります。本殿覆をもつ社、鳥居、手水屋、一対の狛犬そして末社がひとつあります。

 金高稲荷神社と違いとてもよく手入れされていて、これが保之谷に氏神さんなのでしょうか。

 

 

考きゅう寺 −こうきゅうじ−

「きゅう」の漢字は門構えに亀と書き、浄土宗総本山の京都知恩院の末寺です。妙見口駅前の旧道のオイスカの北横の道を東に少し上った右手にあります。

 この寺院は天正年間(1580頃)に土豪の吉川氏の菩提寺として建立されました。当時の寺名は吉川山高久寺といわれ、真言宗高代寺の末寺であったそうです。
 延宝年間(1680頃)に檀徒の争いがもとで高代寺から離脱し、浄土宗に改宗したうえで、今の寺名に改められたといいます。嘉永年間(1850頃)の大火により全焼した後に立て替えられたものが現在の本堂です。

 

西方寺 −さいほうじ−

 吉川の井戸に所在し、妙見口駅からは旧道を南に歩き、道路が大きく左にカーブした場所の左にあります。

 満谷山西方寺と称し、浄土真宗西本願寺の末寺です。

 天文五年(1536)に満ヶ谷(現在の東ときわ台の東側)の地に創建されましたが、慶長十五年(1610)に火災で焼失し、現在の地に再建されたといわれています。