400年前からある"吹き場のまち" 

− 多田銀山精錬所の街 下財町・山下町 −

  

 川西市の下財町(げざいちょう)と山下町は、今から400年以上も前の戦国時代に造られた町です。
 多田銀銅山奇妙山親鉉からの銅鉱精錬所とその従事者の居住地として、江戸時代には、幕府直領の銀銅鉱の精錬所町として隆盛をきわめます。

 

 ここの住民的にいうと、国道173号線が一庫ダム方面と日生中央方面への分岐点の東側にあたり、能勢電鉄山下駅を西に降り、東谷小学校を通り越した先にある道の狭い集落です。歴史的にいうと塩川氏の居城山下城の城下にあたる場所であり、地理的にいうと、能勢街道の通る畦野(うねの)の盆地の北端にあたります。

 ここは、多田銀銅山の奇妙山親鉉から産出した銅鉱の精錬所とその従事者が居住してできた町です。江戸時代には、銀山町(猪名川町銀山町)と並んで、幕府直領の銀銅鉱の精錬所町として隆盛をきわめます。下財町の北部には、昭和10年ごろまで操業していた平安家の精錬所跡がのこっており、旧平安邸が川西市郷土資料館のとして当時精錬所で用いられた道具類や発掘調査の成果を展示しています。


平安家精錬所の稼動していた昭和初期と現在の下財町・山下町

現在と昭和初期の下財町・山下町の地図

 

 この街の歴史

 下財町と山下町が町として成立したのは、天正年間(1573〜91)のことといわれています。  多田銀銅山の採掘が進むにつれて、採鉱・精錬関係住民の居住、銀銅の精錬を行う吹屋の形成・操業が笹部村において進みましたが、それが繁栄するにつれて、吹屋からの出火が問題となったようです。そのため、天正2年に、笹部村の集落から離れた同村内の山下の地に、吹屋場が「山下町」として、また鉱山関係住民の居住地が「下財町」として集められました。
 天保年間の絵(下左図)、明治初期の地図(下右図)、そして上の昭和初期と現在の地図を見比べてもわかるように、下財町・山下町は相当昔から現在と同じ街の骨格をもっていたことがわかります。周辺は市街地化されても、この町だけは、今も変わらず当時の精錬街の姿を伝えているのです。


天保14年の絵図と明治初期の地形図

 自然銅や孔雀石、赤銅鉱などは、木炭で強熱するといった幼稚な技術で、銅を容易に還元して取り出すことがでるため、古代から中世の多田地方では、このような方法で銅の生産が行われていました。
 わが国の銅の精錬技術が画期的進歩を遂げたのは、戦国時代末期に、南蛮人の渡来によってヨーロッパの新精錬法が伝えられ、黄銅鉱から銅を取ることができるようになってからといいます。それまでは、鉄分を大量(約30%)に含む黄銅鉱は、鉄を除去することが困難なため、銅鉱石としては利用価値がなかったのですが、南蛮人から鉄を酸化させる方法が伝わり、黄銅鉱が銅の原料として使えるようになりました。この製法のおかげで、銅鉱石の主流は黄銅鉱に移り、豊臣秀吉の時代に多田銀山は最初の盛期を迎えることになります。

 江戸時代になると、多田銀銅山は幕府の直領となり、そこから出る鉱物を掌握する必要から、寛文−元禄期(1661〜1703)には、多田銀銅山の精錬はすべて銀山町と山下町の2箇所に運んで精錬させるようになりました。  また、慶長年間(1596〜1614)に導入された「南蛮吹き」といわれる技術(銅だけでなくその中に含まれる銀を分離する製法)によって、寛文年間(1661〜72)には多田銀山は第二の最盛期を迎えることになります。


現在知られている親鉉・間歩跡と下財町・銀山町の位置

 銀山町、山下町の2箇所の精錬所で灰吹銀(はいふきぎん)を絞り、抜銀された銅いわゆる゚銅(からみどう)は大阪に送られました。それは、山下町、下財町から池田の馬持ちの手で運ばれ、池田を経て豊島郡小曽根村(豊中市)から神崎川を下り、大阪の銅問屋へと運ばれました。大阪に送られた゚銅は大阪の吹屋で青銅にされ、売りに出されたのです。

 元禄期まで隆盛を誇った山下町でしたが、その後は次第に産銅、産銀が減り始め、山方が不景気になってきた享保12年(1727)に、山下町の銅精錬所が残らず類焼し、吹屋の諸道具までことごとく消失してしまう大火事があったそうです。町は復興したようですが、火災前に60件ほどあった家数は復興後には半分程度まで減少したようで、往年の隆盛を取り戻すことはなかったといいます。

 

 現在の下財町、山下町の姿

 下財町、山下町の街中を歩いてみてみると、建物は次々と新しく建て替わっていて、江戸時代の精錬所の名残を見つけることはなかなか難しいですが、町の古さを感じさせるものは、街中のいたるところにあります。

 街角のところどころに祠があったり、「なぜこんなところに?」と思う場所に石灯篭がおかれていたりします。また、現在、郷土資料館になっている旧平安邸の他にも、古めかしい建物や土塀がところどころに見られ、車の離合さえ難しい街中の狭い道を歩くと、なんとなく歴史的な重みを感じてしまいます。
 江戸時代の絵図、明治初期及び昭和戦前の地形図、そして現在の市街地図をみると、町の骨格は大きく変わっていないことがわかります。街の周辺では、能勢電鉄と国道が開通し、田畑が住宅や小学校に変わっていき、戦後に建設された工場が取り潰されマンションとなりましたが、山下・下財町の町の土台は今もしっかりと残っているのです。東西方向と南北方向に2〜3本の道が通り、出会橋、国崎地区(ともに一庫ダム建設にて水没)をとおり能勢まで通じていた能勢街道は、今もしっかりをその形を残しています。


下財町公民館の敷地内にある祠

なぜか「三社権現 御神燈」

旧能勢街道
左は酒屋なのですが相当古そう

右が旧能勢街道
道に挟まれた盛り土は「からみ」捨て場跡

 

 また、街中の至るところで「からみ」を見つけることができます。  「からみ」とは銅鉱石から銅を採取した後の「カス」のことで、銅鉱石を精錬すると大量に発生するものです。街内には今でも「からみ」を積み上げた石垣が残されていて、郷土資料館敷地内にも「からみ捨て場」が現存しています。また、街中の住宅の建築現場をのぞいてみたのですが、土中には大量の「からみ」がありました。というより、土が「からみ」そのものだと言っても過言ではありません。  400年以上にわたって「からみ」を産出しつづけた町ですから、町自体が「からみ」の上にのっているとも考えられます。

 また、この街は吹き場(精錬所)の密集地帯だったのですから、400年の間に火災が幾度となく起こったことは容易に想像がつきますし、その頻度は一般の街に比べて相当高かったのではないかと思われるのです。その度に瓦礫は積み上がり、「からみ」とともにこの街の地盤を作り出してきたのではないでしょうか。


旧平安邸(現郷土資料館)

からみの石垣