もうちょっと範囲を広げたローカル昔話
− 銀山・右近・安徳に三ツ矢サイダー −
ここまでは、豊能町吉川地区に直接関わる昔話を紹介してきましたが、能勢町、川西市、猪名川町あたりまでちょっと範囲を広げて、歴史上のトピックをひろってみました。あいかわらず、ちょ〜ローカルには違いないのですが、探せばいろいろあるものです。 |
秀吉の埋蔵金がいまも眠る? 豊臣秀吉がその晩年に幼い秀頼の行く末を案じて、この地に莫大な黄金を隠したといわれる、埋蔵金伝説。その金額は、時価で8兆円とも20兆円ともいわれているようで、徳川幕府の赤城山埋蔵金伝説ほどメジャーではないですが、伝えられている金額は間違いなく日本一でしょう。 多田銀山は歴史的にはむしろ銅山で、奈良時代に東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたと言われる古くからの産地で、秀吉の時代には盛大に開発され最も栄えたようです。当時は3000所帯が暮らしていたといわれ、いまもなお「本町」、「新町」など山里とは思われない地名や、「銀山街道」と呼ばれた街道沿いには雰囲気をもった街並みが残り、かつての銀山町の隆盛を物語っています。 |
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豊能町出身者で一番の有名人 高山右近(洗礼名:ジュスト、1552〜1615)は、戦国時代末期の高槻城主であり、父親の飛騨守(洗礼名:ダリオ)とともにキリシタン大名として有名です。 右近はキリスト教に改宗した父の影響で、11才のとき洗礼を受けます。その後、高槻城主として善政を行いながらも、敬虔なキリシタンとして、命をかけて自らの信仰を守りとおしました。秀吉に仕えた時、明石十二万石の大名にとりたてられながら、改宗しないために領地を没収されてしまいます。家康の時代には、加賀藩の家老になっていましたが、キリシタン禁教令(1612)により棄教を迫られ、これを拒否したため、62歳の老齢で祖国日本を追放(1614)されます。それから一年後に追放先のマニラで熱病にたおれ生涯を閉じることになります。 宣教師ルイス・フロイスの著した「日本史」には、父飛騨守に始まり、長男・彦五郎(のちの右近)や家族、そして周囲の人々がキリスト教へ改宗していく経緯が記されています。 |
壇ノ浦で入水したはずの安徳天皇 文化14年(1817)、能勢の野間出野にある辻勘兵衛宅の屋根裏の古い木箱の中かから竹筒が発見され、その中から建保5年(1217)在銘の古文書が出てきました。 原文は、明治時代の半ばごろに行方不明になったらしいのですが、発見当時それを研究した摂津国池田の皇陵学者・山川正宣(まさのぶ)の残した写し書が、池田市の和田家に「山川本」として所蔵されています。 |
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サンシャイン平野の入口からみえる記念塔
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平野にあるホームセンターは 川西市平野のホームセンター「サンシャイン平野」のある場所は、「三ツ矢サイダー」の発祥の地です。 「三ツ矢」の名前は源満仲が住吉大社のご神託により放った矢が多田・平野の地に飛来し、これを探すのに功労のあった男に領地と三ツ矢の姓と3本の矢羽の紋を与えたという故事に因んでいます。 |