もうちょっと範囲を広げたローカル昔話

− 銀山・右近・安徳に三ツ矢サイダー −

 

 ここまでは、豊能町吉川地区に直接関わる昔話を紹介してきましたが、能勢町、川西市、猪名川町あたりまでちょっと範囲を広げて、歴史上のトピックをひろってみました。あいかわらず、ちょ〜ローカルには違いないのですが、探せばいろいろあるものです。

 

秀吉の埋蔵金がいまも眠る?
多田銀山

 豊臣秀吉がその晩年に幼い秀頼の行く末を案じて、この地に莫大な黄金を隠したといわれる、埋蔵金伝説。その金額は、時価で8兆円とも20兆円ともいわれているようで、徳川幕府の赤城山埋蔵金伝説ほどメジャーではないですが、伝えられている金額は間違いなく日本一でしょう。
 いまもなお、現地には数多くの間歩(坑道)の後が残されており、どこかの間歩の奥深くに埋蔵金が眠っていると信じている人も少なくありません。

 多田銀山は歴史的にはむしろ銅山で、奈良時代に東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたと言われる古くからの産地で、秀吉の時代には盛大に開発され最も栄えたようです。当時は3000所帯が暮らしていたといわれ、いまもなお「本町」、「新町」など山里とは思われない地名や、「銀山街道」と呼ばれた街道沿いには雰囲気をもった街並みが残り、かつての銀山町の隆盛を物語っています。
 近年では、日本鉱業という会社により銅を中心として採掘が行なわれており、昭和48年に閉山した後は荒れ放題となっていましたが、最近になって「史跡公園」として整備されつつあります。


銀山の雰囲気が残る金山彦神社辺り


観光用にお化粧直しされた青木間歩

 


高山に残る高札場跡


高札場跡に残るキリスト教禁止の御触書


通称 マリアの墓

豊能町出身者で一番の有名人
高山右近

 高山右近(洗礼名:ジュスト、1552〜1615)は、戦国時代末期の高槻城主であり、父親の飛騨守(洗礼名:ダリオ)とともにキリシタン大名として有名です。
 右近は天文21年(1552)に、摂津国高山(大阪府豊能郡豊能町高山)で生まれました。といっても、右近が5才の頃には、父飛騨守が大和国宇陀郡沢城の守護の任についてため、高山の地を離れたようです。

 右近はキリスト教に改宗した父の影響で、11才のとき洗礼を受けます。その後、高槻城主として善政を行いながらも、敬虔なキリシタンとして、命をかけて自らの信仰を守りとおしました。秀吉に仕えた時、明石十二万石の大名にとりたてられながら、改宗しないために領地を没収されてしまいます。家康の時代には、加賀藩の家老になっていましたが、キリシタン禁教令(1612)により棄教を迫られ、これを拒否したため、62歳の老齢で祖国日本を追放(1614)されます。それから一年後に追放先のマニラで熱病にたおれ生涯を閉じることになります。

  宣教師ルイス・フロイスの著した「日本史」には、父飛騨守に始まり、長男・彦五郎(のちの右近)や家族、そして周囲の人々がキリスト教へ改宗していく経緯が記されています。
 それによると、飛騨守は当時の主君松永秀久の意を受け、追放しにいった宣教師に逆に感化され、洗礼を受けてしまいます。そして、日本人修道士ロレンソを伴い、長男右近を含む一族郎党150人を改宗させ、郷里の高山では仏教に帰依していた母親まで改宗させます。ついでに余野のクロード殿(多田源氏の一流で余野山城守のことと考えられている)を始め余野の人々まで教化し、クロード殿の長女ジェスタが右近に嫁ぐことになります。
 高山には、「マリアの墓」と呼ばれる4基の墓碑があり、所伝によれば、キリシタンの2組の夫婦の墓であるといいます。また、高札場跡には明治初年の明治政府によるキリスト禁止の高札が残されており、この地域におけるキリスト信仰の歴史が感じられます。

 

壇ノ浦で入水したはずの安徳天皇
実は能勢で亡くなっていた?

 文化14年(1817)、能勢の野間出野にある辻勘兵衛宅の屋根裏の古い木箱の中かから竹筒が発見され、その中から建保5年(1217)在銘の古文書が出てきました。
 そこには寿永4年(1185)3月24日、壇ノ浦で平家一門の滅亡とともに入水したと伝えられていた、第81代安徳天皇がひそかに逃れて山陰から能勢に潜幸(せんこう)し、文治2年(1186)5月17日この地で崩御した、と伝える衝撃的な内容が記されていました。これは、藤原経房(つねふさ)という安徳天皇の侍従が潜幸の経緯を綴った遺書で、辻家は藤原経房を初代とする末裔とされています。

原文は、明治時代の半ばごろに行方不明になったらしいのですが、発見当時それを研究した摂津国池田の皇陵学者・山川正宣(まさのぶ)の残した写し書が、池田市の和田家に「山川本」として所蔵されています。
 現在、安徳天皇の御陵は山口県下関市にありますが、この御陵については疑念を持つひとも多く、安徳天皇御陵参考地は全国に数箇所存在するそうです。
 こうした中、能勢町野間出野の来見山(くるみやま)にある安徳天皇御陵墓、岩崎(若宮)八幡社などの安徳天皇関係地もそのひとつのようです。地元には「王垣内(おうかいち)」や「御殿が芝(ごてんがしば)」などの地名などもあるそうで、安徳天皇能勢潜幸説は確度の高い史実とする研究者もおられます。


御霊地 岩崎(神社)八幡宮 のある小山


山上には妙に雰囲気のある祠

 


サンシャイン平野の入口からみえる記念塔


工場操業時の様子(三ツ矢記念館内写真)

平野にあるホームセンターは
三ツ矢サイダー発祥地

 川西市平野のホームセンター「サンシャイン平野」のある場所は、「三ツ矢サイダー」の発祥の地です。
 もともと、この地には炭酸水が湧出しており、江戸時代には湯治に使われていました。明治14年、イギリス人ガランによって飲料水に適するとされ、明治17年に三菱合資会社が「平野水」として販売をはじめました。平野水は国内だけではなく輸出もされていたそうです。
 明治40年にはサイダーフレーバーエッセンスを輸入し、「三ツ矢サイダー」として生産販売し、昭和24年にはアサヒビール株式会社がこれを引き継ぎ、昭和29年までこの地で生産されていました。

 「三ツ矢」の名前は源満仲が住吉大社のご神託により放った矢が多田・平野の地に飛来し、これを探すのに功労のあった男に領地と三ツ矢の姓と3本の矢羽の紋を与えたという故事に因んでいます。
 工場跡で営業しているサンシャイン平野の裏には、三ツ矢サイダーのトレードマークつきの倉庫や三ツ矢記念館が残されています。また、国道脇にあった旅館「掬水」は湯治客が利用していた宿でした。