”神仏習合”とはなんでしょう?

 神仏習合については、説明が非常に難しく、私自身も理解が十分ではありません。 (*^_^*)
 そこで、「神社ふしき探検」(外山晴彦著 さきたま出版会)という本に、とても分かりやすい解説がありましたので、長いですが抜粋します。 m(__)m

  


仏教との融合 − 神仏習合 −  

 仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て、6世紀半ばには日本に伝来しました。聖徳太子の時代の少し前です。仏教は、仏・法・僧という三宝によって体系づけられています。「仏」は崇拝対象である仏像、法は思想・教理を明確にした経典、僧は布教集団としての教団組織です。
 当時の人々が見たこともないような偶像と確固たる理論体系、そして有能・強力な布教スタッフ陣、これに加えて仏教美術といわれる建築・彫刻・絵画・工芸などの優れた技術や医療の知識を携えて、日本に上陸したのです。
 これほどの思想・科学技術・文化集団を迎え撃つには、わが土着の神々の準備態勢は整っていません。神社は、元来、多神教ですから敵対するよりは、「仏教の神も仲間入りさせる」という方向を選ぶ傾向があります。柔軟性とおおらかさが日本の神々、つまり神社思想の特徴なのです。

 一方、仏教も、古代インドの在来宗教との習合、中国の道教との習合を経て、日本に伝えられました。
 それだけに豊かな経験と柔軟性がありましす。しかも、理論的かつ戦略・戦術的に事を運びます。一気に制圧しようなどとは考えず、巧みに神社との融合・調和をはかりつつ浸透していくのです。
 これを「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)といいます。
 決して急ぐことなく、長い時間をかけて徐々に行われます。8世紀中ごろから、その攻勢は活発化し、江戸時代まで続きます。

 まず、時の政権のバックアップを取り付けます。つまり、聖徳太子の認知を得て、国家宗教への道を切り開きます。
 そして最初に目をつけるのが神社境内です。すでに存在する神社の境内に寺を建てれば、立地条件としては申し分ないばかりか、「氏子」をそのまま「檀家」に変えられる可能性もあります。
 こうして神社に付属する形で、その境内にできた寺を神宮寺といいます。神宮寺の実現も、なかなか手の込んだ戦術のもとに行われています。
 支配層の有力者の夢枕に日本の神々を立たせます。「私は長いこと神をやっているが、いろいろ苦労している。この際、仏教の修行をしたいのだ」といった趣旨のことを告げるのです。告げられた有力者は、その神のために神社境内に仏教寺院を建立します。
 「夢枕」の真偽はともかく、こうして各所に神宮寺(じんぐうじ)が建てられていきます。もちろん、神宮寺は仏像を安置し、神社には神の象徴としての鏡や剣・玉などを祀ります。「軒先を貸した神社が、徐々に母屋を仏教に取られていく」といった構図です。

 「神をやめて仏法に帰依したい」などということは、神様にとって屈辱的な発言に違いありません。「神様がそんなことを言うなんて、冗談言うな!」といった庶民感情もあったでしょう。
 そこで、護法善神(ごほうぜんしん)という考え方も流布させます。仏法を守護する善なる神という意味です。一見、神が仏の上位にあるように思わせるところに特徴があります。八幡神に仏教の菩薩の名称を与えて八幡大菩薩と称し、菩薩像や権現像が祀られるようになります。

( 中略 )

 さらに、神社は一体であると説きます。
 これを本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)といいます。
 難しい言葉ですが、「本来は仏であるが、仮の姿として神となって現れる。」という意味です。神様の本性は仏である、ということです。
 仏が神の姿に変わって、この世に現れたのが権現(ごんげん)です。「権」は「仮」を意味する文字で、「権威をあらわす」というわけではなく、「仮の姿で現れる」ものです。
 仏教用語である権現の称号を与えて、熊野権現や春日権現などが出現します。薬師如来が垂迹して素盞嗚命、さらに、もう一度垂迹して、牛頭天王とされます。伊勢神宮に祭られる神は日輪、すなわち天照大神ですが、実は大日如来の化身である、と主張されます。
 大日如来は釈迦如来に次ぐ仏教界ナンバー2の大物です。しかし、元は古代インドの神様で、仏教に取り入れられたものです。ここにも仏教の柔軟性と、結局は、「仏主神従」の結末に持ち込むしたたかな攻略法が見て取れます。

( 中略 )

 千年以上にわたり、神と仏は徐々に融合・調和されてきました。様式的にも神明系(和洋建築)から発展して、大陸から伝えられた寺院建築様式の影響を受けた明神系の鳥居や神殿がつくられます。賽銭箱や灯篭・手水舎などは、寺院も神社も同じ形態となってきます。
 江戸時代の庶民生活の中では、神も仏も特別に区別する必要さえなくなっていました。人々は「神様・仏様」に祈り、成就しなければ「神も仏もあるものか」と嘆きます。常に神と仏は一体なのです。本来別個の宗教である神と仏が合祀されていても、神棚と仏壇が並んでいても、何の不思議もありません。
 私たちは一般的に、正月は神社に、お盆はお寺に行きます。お宮参りや七五三では神社を訪ね、葬儀はお寺に出向く、といった区別をします。しかし、今日の葬儀や結婚式などの様式は、決して日本古来のものではありません。明治以後、比較的最近になって確立した習慣なのです。
 霊柩車は戦後に開発・普及されたものですし、それに合わせて今日の葬儀の様式ができあがりました。現在、神前結婚式が主流を占めていますが、神道式の結婚式を日本で最初に行った人はなんと大正天皇なのです。

千年を超える歴史との決別 − 神仏分離 −

 明治政府は明治元年(1868)に神仏分離令を出します。祭政一致の理念の下に、千年以上にわたって習合されてきた神と仏を明確に分離し、神道国家の道を歩み始めようとするのです。これは日本だけではなく世界の宗教史の中でも例のない大転換といえるものです。

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 明治維新政府の打ち出した神仏分離政策は、複数の法令の総称である「神仏判然の令」によって具体化されます。その骨子は次のとおりです。

@神社では仏像を神体としてはいけない。神社内にある梵鐘、鰐口、仏具等、仏教関係のものは除去する。仏教的建造物も撤廃する。
A寺院が神社の祭祀に関与してはならない。神社での仏事は行わない。
B従来、神社の管理・祭祀は別当とか社僧と呼ばれる下級僧侶が行っていたが、それらは退職するか、またはその名称を神主、社人等と改める。つまり、僧侶を廃業するか、廃業したのち神主・社人として再就職する。
C神社では権現、菩薩、牛頭天王などの仏教後の名称を廃止する。

 要するに、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏をはっきりと区別する。というもので、必ずしも廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が目的ではありません。
 しかし、@に関しては、その趣旨は徹底されませんでした。一般民衆には廃仏毀釈と受け取られ、多くの仏像や仏具・経巻などが一揆か暴動のような荒々しさで破壊・焼却される場面もありました。お施布などで生活が圧迫されていたという腹いせもあったのでしょう。これを煽動するものもいました。
 中には、他の寺院への移管や競売により幸いにも保存された仏教文化財もあります。しかし、全体的に仏教界に大きな打撃を与え、多くの貴重な文化遺跡が失われました。
 Bの別当や社僧とよばれた神社担当の僧侶は、寺院の中で最も位が低く、なかには元山伏や乞食坊主などといわれていたものもいました。明治政府としてはその質的向上を図るために明治4年(1871)に神職の世襲制を廃止して、人材登用を図ります。
 Cについては、例えば、祇園神社が、主尊を牛頭天王から素盞嗚命に代え、名称を八坂神社と改めます。熊野権現や春日権現なども名称を改めます。

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   以上の神仏分離に加えて、明治4年には廃藩置県とともに社寺上知令が出されます。境内の祭事法要に必要なる物を除いて社寺領が政府に没収されています。現在、一の鳥居が神社境内のはるか外側に立っているといった例を見かけます。多くの場合、これは没収された社寺領にあったものが、そのまま残されたと解釈されます。
 こうして、急激な大改革が進められる中では、政府の意図に反して廃仏毀釈の運動が地方にも広がりました。寺院の廃合や神社の独立につれて、廃業する僧や廃業して神職に転換するもの、没収された社寺領の耕作許可を得て、百姓になる僧もいました。
 神仏分離令から数年で、ほとんどの神社から仏教的色彩が消えていきます。「神仏判然の令は廃仏毀釈を意味しない」とう再三の政府発表や説明とあいまって、発令から数年後には廃仏毀釈の動きも収束に向かいました。

  


”牛頭天王信仰”と素盞嗚命との”神仏習合”

 牛頭天王の信仰は、八坂神社(京都市東山区)や君津神社(愛知県君津市)を中心とするものです。
 荒ぶる神である「牛頭天王信仰」には、人々の祟りへの恐れと、それを何とか沈めたいという思いがあります。
 古くから、死んだ人の霊や怨霊が疫神になり、疫病をはやらせたり社会に災いをもたらすのだと考えられていた。これを御霊信仰といいます。
 清和天皇の治世に、都で疫病が流行したため、祟りを沈める目的で御霊会という儀式が行われました。その後、御霊会は恒例化して、現在の祇園祭につながっています。祇園祭の行われる夏は食物も腐りやすく、疫病が発生しやすい季節です。それが荒ぶる神「牛頭天王」の祟りだと、人々は恐れたのでしょう。そして牛頭天王を主祭神とする八坂神社が設けられ、牛頭天王が祇園精舎の守護神であることから、その地は「祇園」と称されたのです。

 天竺の神「牛頭天王」と日本の神「素盞嗚命」が習合した理由には、次のような説があります。

説の1
日本書記に見られる素盞嗚命の朝鮮ソシモリ(牛頭)降臨説話

 「日本書紀」には、「素盞嗚命はその子50人の猛々しい神を率いて新羅の国に下ってきて、曽尸茂梨(ソシモリ)の地に居を構えた。」とあるそうです。その後、素盞嗚命は埴輪の船で日本海を東に渡り出雲の地に至ることになるのですが、この「ソシモリ」とは、韓国語で「牛頭」または「牛首」を意味するといいます。
 また、韓国には江原道春川というところに牛頭山があり、そこでは熱病に効果のある栴檀(せんだん)を産したところから、この山の名を冠した神又は仏が信仰されてきたという話もあります。
 韓国における「牛頭」に繋がる信仰と、天竺で生まれた祇園精舎の神が、仏教の伝来とともに日本に伝えられ、神話の中にその痕跡を残しつつ、庶民の中に牛頭天王信仰(=素盞嗚命)を植えつけていったという説です。

説の2
「備後国風土記」に語られている蘇民将来の説話

 蘇民将来の説話とは、「釈日本紀」が所引してる「備後国風土記」逸文にあります。

 昔、北の海にいた武塔(むとう)神が南海を旅して日暮れになった。そこには蘇民将来と巨旦将来の2人の兄弟がいて兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富み栄えていた。武塔神が宿を乞うたところ、巨旦は貸さず、蘇民は快く貸して、粟飯でもてなした。やがて年を経て武塔神は八柱の御子をつれて再び来訪し、さきの礼として蘇民の家族には茅の輪をつけて疫病にかからないようにしたが、他の者はことごとく死に絶えてしまった。神は「われはハヤスサノヲの神なり。後の世に疫病流行すれば、蘇民将来の子孫といい、茅野輪を腰につけていれば免れさせる。」と仰せられた。

 これは、備後国の古社の縁起であるが、「釈日本紀」には、「これすなわち祇園社の本縁なり。」とあり、古くからの祇園社の縁起であったことが知られています。京都の祇園祭に「蘇民将来之子孫也」と記した護符をつけたり、粽を軒先につるしたりするのは、この由緒によるものだそうです。

 つまり、
 素盞嗚命=武塔神→「蘇民将来説話」=「祇園社縁起」←牛頭天王
 という連想ゲームが成り立つというわけです。