シュテファン大聖堂
シュテファン大聖堂
 
 シュテファン大聖堂地区には、第二次大戦後の地下工事で発見された2000年前のローマ人駐屯地遺跡がある。大聖堂年表によると、1147年、最初のロマネスク様式の聖堂がこの地に建造された。ハプスブルク家歴代のファミリーの内蔵を入れた壺が主祭壇下のカタコンベに安置されているが、このカタコンベ、ウィーンで一番ゴージャスではないだろうか、豪華ホテルのロビーも貧弱にみえるくらい。
 
王宮地区
王宮地区
 
 王宮(ホーフブルク)地区はウィーンの華。13世紀に建築の槌音がひびき、以来、16世紀にはルネサンス様式の宮殿、19世紀末〜20世紀初頭にかけて新王宮が建設された。
 1938年、A・ヒトラーが新王宮中央の張り出し窓のテラスに立って、オーストリア併合を宣言したのはあまりにも有名。現在、新王宮はオーストリア国立図書館の閲覧室といくつかの博物館となっている。上の画像は聖ミヒャエル門(1889ー93建設)前。おいしいコーヒーの飲める「カフェ・デーメル」まで徒歩3分。
 
王宮地区
王宮地区
 
 
 
マイヤーリンク
マイヤーリンク
 
 ウィーンの森のはずれ・アラント村で1889年1月下旬におきた事件は、ヨーゼフ皇帝と皇妃エリザベスを絶望の淵へ追いやった、といっても過言ではない。皇太子ルドルフの情死である。ルドルフはトルコ系のミッツイ・カスパールなる女(高級娼婦との噂あり)と閨房をともにしていたが、ある日ユダヤ系の小柄で丸顔、黒い瞳のマリー・ヴェツェラを紹介される。
マリーは17歳であった。そしてその後まもなくルドルフはマリーを道連れに自殺する。ふたりともピストルで頭を貫いていた。この奇怪な情死についてさまざまな憶測が乱れ飛んだが、真相は謎のままである。そこで私の推理を。
 
 高級娼婦(ミッツイ・カスパール)が死を免れたのは年齢と経験の相違にすぎない。ミッツイはマリーより年上であったし、職業柄、皇太子が道連れにするにしては男に長けていた。死を免れた女は、別の、あるいは次の男との快楽や新しいドレスに思いをめぐらせていたであろう。マリーはというと、皇太子と寝屋をともにするという心躍る行為に夢中だった。ルドルフの尋常ならざる心模様に不安を感じるよりむしろ、胸のたかまりと心神の麻痺をうながすほどの甘美な陶酔をおぼえていたと思われる。そうした昂奮状態のままマリーは死んだ。
 
 ルドルフの母エリザベートはルートヴィヒ2世の従姉である。ルートヴィヒがシュタルンベルク湖で謎の死を遂げたのは1886年のことである。情死事件のおきたマイヤーリンクのこの建物は当時のまま保存され、ふたりの死んだ部屋には入れない。
 
ホテル・インペリアルの  エリザベート
ホテル・インペリアルの  エリザベート
 
 
ウィーンの古地図     (ホテル・インペリアル内)
ウィーンの古地図     (ホテル・インペリアル内)
 
 紀元前4世紀ごろからウィーン中心部にはケルト人が住んでいた。が紀元前後、ローマ人が彼らを追い払ったようである。その後度重なる外敵の侵入で5世紀初頭、ウィーンは廃墟と化した。その後500年の時が推移しウィーンは復活する。
16世紀にはオスマン・トルコ軍に包囲されたりもしたが、18世紀にハプスブルク家の都として絶頂期をむかえる。古地図の右中央は旧市街で、19世紀半ばまで城壁に囲まれていた。皇帝フランツ・ヨーゼフは1857〜65年のかけて城壁を取り壊し、環状の大通りを築いた。現在のリンクである。
 
 リンクは内側の環状道路で、外側にはギュルテと呼ばれる環状道路もある。
 
美術史美術館1
美術史美術館1
美術史美術館2
美術史美術館2
 
 2Fには軽食喫茶もあり、にぎわっている。
                目ざすは2FのRoom・X、ブリューゲルの部屋。
 
モーツァルト像
モーツァルト像
 
 
雪中の狩人
雪中の狩人
 
 3人の狩人と13頭の猟犬が村に帰ってきたようすを描いた「雪中の狩人」はブリューゲルの四季シリーズ最後の作品で、16世紀半ば雪景色のフランドル。狩人の足取りは重く、背中には疲労の気配がうかがわれ、犬もこころなしかうなだれているようにみえる。獲物はどうやらウサギ一匹(左の狩人の背)と思われる。
犬の数を13頭にしたのも縁起がわるい。木の枝にはカラスが数羽。にもかかわらず絵が陰鬱でないのは、凍った池で遊ぶ子供たち、すらりとのびた木々、独特の色調などが功を奏しているからだろう。
 
 
バベルの塔
バベルの塔
 
 この絵にはじめて出会ったのは小学生のころ。父が全集あつめに凝っていた時期があって、そのなかの「世界絵画全集」で「バベルの塔」に目がとまり、身体に電気が走った。色遣いにも愕然としたが、絵の具が画布に留まっているという感じではなく、画布の上で自由自在に輪舞していたのだ。その自在さが色をより深みのあるものにし、バベルの塔が何かわからないのに、巨大な建造物が天に向かってのびてゆく生き物にみえた。
 
 ブリューゲルがこの絵を描いた時代、フランドル地方は神聖ローマ帝国&スペインが支配していた。「バベルの塔」制作にあたったブリューゲルは支配する国とその王、あるいは、改革者を名乗るやからの傲慢を念頭においたのではなかったろうか。異端審問による宗教弾圧の一方でマルティン・ルター、カルヴァンらが唱えたプロテスタンティズムがヨーロッパに広がっていきつつあった。
 
 こんにち宗教改革と呼ばれているルターの運動は、カトリック教徒やユダヤ教徒を容赦なく攻撃し、彼らの住居を焼き払い、多くの殺戮をもたらしたのである。つまるところマルティン・ルターなるドイツ男は、スペイン王フェリーペ2世顔負けの専制君主といえるだろう。私たちがいかなる思想、信仰を持とうが自由であるべきはずだ。自由こそが崇高なのであり、専制者による弾圧は信仰の自由を奪い、自己の傲慢を崇高であるかのごとく装ったのである。傲慢が天に向かってのびてゆく。ブリューゲルはそれを一枚の絵にしたのだ。