発見のモニュメント
発見のモニュメント
15世紀初めポルトガル王ジョアン1世の子エンリケは北アフリカの先端の町セウタをイスラム教徒から奪還した。セウタはジブラルタル対岸の港町で、地中海沿岸から集まる貿易船でにぎあう要衝の地。
奪還自体はイスラム教徒とうまくやっていた商人にとっては平和と秩序を乱すことであり、多くの商人の批判を浴びたが、ポルトガルにとって異教徒を地中海から追放することは胸のすく快挙であったにちがいない。
 
爾来エンリケは国王から特許状を得、ポルトガルから西アフリカの海へと出帆していった男たちのスポンサーとなった。
発見のモニュメントはエンリケ航海王子を先頭に、地理学者、天文学者、宣教師、航海士などが思い思いのスタイルで、あるいは、航海と上陸後の艱難辛苦を思わせるようすで、ある者は海を、またある者は心の内面をみる。
 
発見のモニュメントをはじめてみたのは24歳、40年前である。エンリケ没後500回忌(1960年)に建てられたモニュメントに列せられた者たちの姿と表情は一様に苦悩に満ちている。かれらはヒーローではなかったのか、若かった私は強い衝撃をうけた。
 
15世紀・大航海時代のポルトガル王国、過去の栄華の片鱗すらみることのできない20世紀末のポルトガル、そのあまりにも大きい彼我の差がかれらの姿、表情に反映されたのだろうか、いやそうではあるまい、これらの人物を彫った人間はそんなことを言いたかったのではない。
 
海に出た男たちは、そのほとんどが航海中に、もしくは上陸後に不幸な死を遂げた。生き残って母国の土を踏むことのできた者はむしろ少なかったのである。しかしそれらの者も多くの仲間や部下を失っていた。そういう犠牲の上に王国の繁栄はあったのだ。
航海に出て再びもどらぬ者たちの家族は、夫や父をヒーローとは思わなかったはずである。ただのむこうみずくらいにしか思っていなかったのではないだろうか。
モニュメント作者は、そういう家族の内なる思いと合わせてこのモニュメントをつくったもののようである。
 
 
出航
出航
かつての海洋王国ポルトガルはいまもマリン・スポーツが盛ん、リスボンのそこかしこでこういった風景を目にする。こんにちかれらは、新しい陸の発見のためにではなく、航海に必要な地図をつくるためにでもなく、伝道や布教のためでもなく、まして一攫千金を狙うわけでもない、海に漕ぎ出すために出航するのである。
 
だが私はかれらの横顔や後ろ姿に500年前の海の冒険者たちの面影をみるのだ。
 
 
出航者
出航者
発見のモニュメントのこの群像だけは虎視眈々と野心に燃えている。ある者はパレットと絵筆を、またある者は羽根ペンを持ち、新大陸の発見と地図の作製、現実に起こる出来事の描写、記述のためにそなえているのである。
国のためにではない、自らの冒険心と知的探求心をみたすためにである。
 
モニュメントを見る者を驚嘆せしめるのは、かれら出航者が国家への使命のためにではなく、自らの天命にしたがって危険な旅に出た、そのことを訴える迫力をもっているからだ。私は24歳のとき思ったことを再度確認した。
 
われわれがヒーローなものか、むしろ好奇心旺盛な子供のようなものだ、国家に対する忠誠心とか、おのれの栄誉など問題ではない、家族への思いやりさえどこかに置き忘れることもあるのだ‥、そんな声が風にまじって聞こえてきた。
 
 
 
待つ人々
待つ人々
大航海時代、海を渡った男たちのほとんどは帰らぬ人となった。病死した者もいる、上陸後、先住民との争いに巻き込まれて亡くなった者もいる、祖国に帰ってきたのはほんの一握りである。
ポルトガルに富と繁栄をもたらしたかれらが、そのおこぼれにあずかったのは結果にすぎない。リスボンや他の町で休息した彼らは、再び旅立っていった。
 
のこされた者は旅立った者の帰りを待つ。時々夢枕に立つこともあるが、それは決まってリスボンに帰港する元気な姿なのだ。のこされた者はいたたまれなくなって港に向かう。半日、時には終日じっと海を見る。水平線の彼方からいまにも夫や恋人の乗った船が帰って来るのではないか‥という幻覚をみる。
 
多くの哀歌がそういう状況下で生まれたにちがいない。ファドもまた、そうした懊悩の果てにつくられた歌ではないだろうか。
 
 
救世主
救世主
ファドの意は運命とか生きざまであるという。愛する者に裏切られたとき、運命だからやむをえないと簡単にあきらめられはすまい。一方で運命と思いつつ、他方でそうではないという思いの丈をファドに託したのではないだろうか。
そうすることによって乱れる心に秩序を与えようとしたのではないだろうか、私たちが絵を描くことや文章を書くことでそうするように。
 
酒場でファドを聴いていると恨み節をきいているような気分になる。
ファドは元来、人にきかせる類の歌ではなく、歌でもつくって声を張りあげ、うさ晴らしせずにはいられなかった者たちの慟哭ではないだろうか。自己憐憫と自己鼓舞がないまぜになった歌ではなかったろうか。
 
航海に出、ふたたびもどることのなかった者のなかには、寄港地や新大陸で根のはえた者たちも少なからずいた。南米に特に多かったようであるが、そこで新生活をはじめた船乗りはいかなる動機で住みついたのであろう。
財欲、愛欲、そんなものが動機なのではなかったろうか。先住民の女との悦楽にふけったばかりに身も心もなじんでしまい、現地に逗留する気になった、そう思ってもなんら不自然ではない。
 
リスボンで男の帰りを待つ女は、主や聖母マリアにどれほど祈ったことだろう、しかし願いがきき届けられることはなかった。主は疲労困憊のすえ新世界に辿り着いた下積みの船乗りだけを救ったのであろうか。のこされた者は救済しなかったのか。
 
帰りを待つ者への救済がファドであったのか、主はただ手をひろげるのみである。
 
 
 
黄色い町
黄色い町
色に耽りすぎると太陽が黄色くみえるという。愛する者を忘れるほど色に耽ることは罪であるという。太陽が黄色くみえても人は自らの罪に気づくことはない。黄色は高貴な色として建物の壁の色に使用されることがあり、ウィーンのシェーンブルン宮殿はマリア=テレジア・イエローという。
 
ウィーンの人々は黄色を好むのだろう、楽友協会のニューイヤー・コンサートのデコレーションに黄色いバラなどの黄色の花を飾ることが多い。壁を黄色に塗りたくってもチンドン屋にならないのは、周囲の景観との違和感がないからだ。カラフルなようでいてカラフル過ぎることがない。色彩感覚が豊かであるから色の組み合わせ、取り入れ方もうまいのだ。
 
背景の緑豊かな高台はサン・ジョルジェ城、城というよりは城跡というほうがよいのだが、そこから夕闇せまるリスボンの町を一望する…えもいわれぬ眺めである。
 
 
ジェロニモス修道院
ジェロニモス修道院
ポルトガル王マヌエル1世がヴァスコ・ダ・ガマのインド航海の成功をたたえて建造された。院内には大理石でできたガマの石棺が安置されている。修道院の前は広場になっていて、向かい側に「発見のモニュメント」がある。
 
長年にわたるスペインとの航海合戦で常にスペインの後塵を拝してきたポルトガルにとってガマの活躍は大きな朗報であったろう。王の歓喜の大きさは修道院の規模と比例する。
しかし、ガマに同行したあるポルトガル人の手記を読めば、ガマのインド上陸は決して晴れがましいものでも栄光に満ちたものでもなく、むしろ屈辱的ですらあったと読みとれるのだ。
 
1498年5月、インド東岸のカレクーの町に着いたガマ一行は、領主(ザモリン)に会いにゆく。領主は尊大どころか、傲岸不遜ともみえる態度でガマに接した。そしてガマに望みは何かときいた。
ガマもガマである、自分はいかなる王よりも富裕で多くの国々を所有するポルトガル王の使節である、金銀など腐るほど持っているから不要、航海の目的はキリスト教徒の王を探すことであると大風呂敷を広げた。
 
すったもんだのあげく、領主からさんざんに愚弄され(贈り物の内容が貧弱という理由)、ガマに対して入国税の支払いの要求があったが、それを踏み倒し、わずかばかりの香料をみやげに出港し、再びリスボンに帰ったのは1499年8月末。
 
屈辱的な旅であったものの、ガマの航海は以後のポルトガルにも、ヨーロッパの商人にも大きな利益をもたらすこととなる。ガマのインド航路の発見は、ヴェネチアを経由しないルートを確立し、それまで香料貿易の利権を一手に握っていたヴェネチアには大打撃となったのである。
 
ガマがポルトガルに持ち帰った香料は約800sで、ガマが受け取ったのは胡椒500sであった
 
 
 
ベレンの塔
ベレンの塔
ジェロニモス修道院から西へ15分も歩くとベレンの塔に着く。創建当時(16世紀)、ベレンの塔はテージョ川の中にあって船舶の出入りを監視していたという。その頃は水位が高く、現在地上1階にある水牢は地下にあった。
潮の干満を利用した牢ということだが、満潮時そこに入れられた者は水浴びどころではなかったはずである。
 
塔の上部には砲台もあり、さらに上は王族の居室となっていた。いまそこは17世紀の家具を展示している。ジェロニモス修道院と共に1983年、世界遺産となった。
 
 
過去の栄光
過去の栄光
この彫像の左手には帆船がのっている。人が船に乗っているのではない、船が人に乗っているのである。海洋王国ポルトガルの面目躍如たる彫像である。
 
大航海時代はリスボンから頻繁に船が出た。アフリカ、アジアを股にかけ、ポルトガルに大きな富をもたらす交易のための造船に大わらわであったろう。多くの森が伐採され、船に適した樹木という樹木は森から消えた。
過ぎ去りし日の栄華をいまに語り継ぐことはできる、しかし、森は再生することはなかった。こころなしか彫像がうなだれているように見えるのは、過去の栄光を偲んでのことか、再び帰らぬ何かを悔いてのことか、彼はただ黙って立っている。
 
ポルトガルはたしかに零落した。しかし見る影もなく零落したのではない、いまでも十分すぎるほど見る影はあるのだ。過去の栄光はいまなお高貴で華美な影となって、多くの旅人の心をとらえて離さないのである。
 
 
 
サッカー練習場
サッカー練習場
リスボンは坂が多い、テージョ川のそばには家屋が密集している、だが、坂の斜面いっぱいに延々とひしめき並ぶ家のほうがはるかに多い。
 
上の写真はポルトガルの三つのF(「リスボン追想」に既出)のうちのひとつフットボール、サッカーですな。十分に恵まれた環境など望みがたくても、リスボンの子供たちはこうしてサッカーに興じる。グランドが石ゆえ、ボールのバウンドが土とは異なるが、そんなことは気にしない、場所があるだけで不満はない。
 
母親らしき女性が約三名、子供の遊ぶ様子を見やる昼下がりの光景。
 
 
 
窓
窓がいっぱいあって、おまけに洗濯物がいっぱい干してあって、実ににぎやか、私はこういう風景がたまらなく好きなのである。壁はいまにも崩れ落ちそうで、容易に崩れることはない。もろいようでもろくなく、壊れそうで壊れない。
美しいか美しくないかだけが美の基準ではあるまい、美そのもの以外にもわれわれを魅了する美学があるのだ。
 
 
 
リスボン暮色
リスボン暮色
サン・ジョルジェ城から撮影した写真、左にみえる十字架は既出の「救世主」。
サン・ジョルジェ城は、アルファマ地区からフィゲイラ広場やプラタ通りまでの交通至便な市中心部にあり、一見の価値はある。
三脚持参なら撮影の時間帯は限定されず、茜色に染まった美しいリスボンを撮れたはずであったと思うが、手持ち撮影となり、早すぎる暮色となってしまった。
 
 
 
マフラ修道院T
マフラ修道院T
「夢の途中U」でマフラ修道院の図書室をご紹介した。そこで記したように、あの豪華な装丁の製本‥金箔をはった本の、金粉だけを百冊分持って帰りたかった。
 
修道院内には年かさのガイドもいて、院内を巡るツアーもある。午前中に入ると、圧倒的存在感のガイドの案内が期待できる。おそらく今でもそう変わらないように思う。
彼は年のころ六十前後、身長は180a以上、風体と容貌は映画「ゴッド・ファーザー」に出てくるドン・コルレオーネ風、またはプラシド・ドミンゴ風。
 
 
 
 
院内は撮影禁止。理由は単純明快、ミサにしても、祈りや告解にしても、宗教的儀式や義務を行なっている最中に、大勢の人間がカメラのシャッター音をバシャバシャ立ててみなさい、あるいはストロボ光を続けざまに当ててごらんなさい、やかましい、まぶしいで気が散りましょう。禁止は当然の処置。
 
なのにどうして下の写真や図書室の写真が撮影できたか。実は前述のドミンゴ氏が私の意図を汲み取って、「ノー・フラッシュ、ジャスト・フォト、ビー・クワィエット、ノーボディ・ノウズ、ゴッド・ノウズ」と気の利いたことを言ってくれたからなのだ。
ウィンクしながらそう言った彼の屈託のない顔、いまでも私ははっきり憶えている。
やっぱり彼はゴッド・ファーザー、いや、ゴッド・ガイドでありました。
 
マフラ修道院U
マフラ修道院U
いましがた告解を終えたひとりの女性が、内陣の告解席から一直線に修道院の扉に向かう。彼女が何を告白したのか、神父以外はまさに神のみぞ知るである。
 
かつて告解は教会の広場で行なわれた。ヨーロッパの町の中心には必ず教会があって、教会の前は広場になっている。広場は告解のために設けられたのだ。
中世では告解が成人男女すべての義務とされた(1215年ラテラノ会議)。M・フーコーはこれがヨーロッパの原点であるとさえいっている。
 
1年に一回、自らの犯した罪を教会広場において、大衆の面前で告白する、これに背いた人間はあの世で地獄に落ちる、各所の教会が公的にそう発表したのである。告白しただけではすまない、何年間は巡礼の旅に出るなどの代償を支払うことを約束しなければならないのだ。
 
彼らの罪の意識はいわば公のものであり、民衆とともに罪を共有したともいえる。
はっきり言えるのは、公衆の前で告白した者は許されるということである。
記憶に新しいかどうかはともかく、クリントン氏が米国大統領であった頃、不適切な関係という言葉でモニカ・ルインスキー嬢との不倫関係を公的に認め、メディアを通して謝罪したことがあった。
 
クリントン氏はそれで許された。欧米では今もなお告解という概念が生きているのである。隠し味、秘伝を重んじる日本では理解されにくいことかもしれないが。
 
 
 
シントラの景観T
シントラの景観T
リスボンからリマさんのメルセデスでマフラを経由してシントラへ向かった。
マフラ修道院、シントラの王宮、ペナ宮、ムーア人の城跡などを効率よく観光するためにベテラン・ドライバーの彼に依頼したのだった。
彼はまっすぐ王宮に行くことをせず、王宮や美しい家並みを見わたせるこの場所に立ち寄ってくれた。シントラの景観は、私たちがポルトガルを旅する前年(1995年)に世界遺産の指定をうけたばかりだった。
 
上下の写真はあまりにも小さいが、これらの景観を肉視して、シントラの景観が世界遺産となったことに納得せざるをえないほどの自然と人工の調和をみた。
写真の白いとんがり帽子二本(円錐形)は王宮のシンボル(実は煙突)である。
 
 
 
シントラの景観U
シントラの景観U
王宮を見てもたのしいが、周囲の家並みや森を見るのはさらにたのしく、このあたりの景観に彩りを添えていることが分かる。(この時王宮は修復中でした)
この王宮は夏の離宮であったというが、なるほど涼しげな佇まいである。いまでこそ道路には所狭しと車が止まっているけれど、また家の数もふえているけれど、かつてこの離宮はうっそうとした樹木のなかに溶け込むように屹立していたのであろう。
 
家もあったにはあったろうが、まばらに点在する程度のものだったろう。道は未舗装で、豪華な馬車がときおり往き来していた。馬車といえば、リスボン市内に絢爛豪華な馬車を展示した馬車博物館があった。
 
上の写真はムーア人の城跡(後出)から撮影した。ムーア人の城跡からの眺望は、絶景のひとことに尽きる。大西洋も見え、シントラ山系の森やお伽の国のような美しい町や家々も見てとることのできる、掛け値なしの景勝地である。
ここを世界遺産に指定したユネスコの人は、ムーア人の城跡からシントラを眺めて決心したのではないかと思えるほど、ながく心にのこる風景のひとつである。
 
 
王宮廊下
王宮廊下
イスラム文化とヨーロッパ文化の融合といえばきこえはよいが、なに、ごちゃまぜの文化だと思う。アラベスクあり、象嵌あり、アズレージョあり、どれも驚くほどふんだんにつかっている。歴代の所有者の趣味に一貫性がなかったというべきか、多趣味というべきか、かえってその五目飯性が愉快というべきか、どうあれ見てたのしい。
 
 
王宮から
王宮から
王宮横の駐車場です。背景の高台にあるのはムーア人の城跡、中央やや左にいる黄色いセーター&黒っぽいキュロット姿は私のつれあい。
 
ムーア人の城跡は、こうして見ると近くにみえるが、どうしてどうして結構な距離。
それでもあの上に登って眼下を見おろせば、やっぱり来てよかったと必ず思う驚異の大パノラマなのです。
城跡まで行く人は、足場がよくないので、カカトの高い靴だけは着用に及ばず、歩きやすい靴が一番です。
 
 
 
ペナ宮入口
ペナ宮入口
花だ、花だとはいっても、ここまで辿り着くのはちょっとしたトレッキング、途中ゆるやかな坂道も、中腹を過ぎたあたりからにわかに急勾配となる。標高529bは特にどういうことはないのだが、気温が高いと大汗をかく。
 
ふだん歩かない人は乗り物を利用‥したら楽チンだと思う、しかし駐車場からは全員徒歩なのである。足の悪い人用に籠かきでもいればよいが、あいにく籠もない。
不便といえば不便、でも行ってみて損はない。ペナ宮からも大西洋やシントラの素晴らしい景観が一望に見渡せるのだから。
 
 
 
ペナ宮
ペナ宮
ペナ宮ほど多くの建築様式を取り入れた建造物も稀ではないだろうか。まるで五目焼きそば、もしくはごちゃまぜ加薬ごはん、あるいは八宝菜。
 
なにしろペナ宮は、イスラム、ゴシック、マヌエル、ルネサンス、バロックなどの建築様式が混淆しているのである。ムーア人の城跡とここは以前、テレビ映画「ガリバー」のロケ地となったことがある。ムーア人の城跡の風変わりなガウディ的面白さ、そしてペナ宮のお伽の国的面白さが、ガリバーにうってつけであったのだろう。
 
映像でペナ宮を見ても、お菓子でできた宮殿みたいでありました。
 
 
 
ペナ宮遠望
ペナ宮遠望
パラシオ・デ・セテアイス(「ホテル紀行U」参照)からペナ宮を望む光景。
逆に、向こうからこちらを望んだ光景は「夢の途中」に掲載しています。
 
 
パラシオ・デ・セテアイス
パラシオ・デ・セテアイス
魅力などというものは魅せられたのも束の間、すぐに消え去る曖昧さをもつ。私はいつの頃か忘れたが、現在に興味を示さなくなった。それというのも、現在は未来のためのさまざまな日程をこなしているにすぎないからである。
 
それにひきかえ過去は豊かさに満ちあふれている。そこには無数の哀歓、怒りにも似た嗤い、耐えがたい苦痛、極度の緊張がひしめきあっている。
私はいまでもそうだが、たとえ心惹かれるものであっても、通りすがりのものを愛することはできない。真実の扉へと誘い、魂の震撼を強いるものしか愛せないのだ。それが漆黒の闇への誘いであるとしても。秋の夜の雨のように話そうとすればするほど深奥から漏れるものは不向きで、急所に届くものにしか興味がない。
 
急所‥あえて言葉にするなら、爛熟と孤高。それはちょうど隠遁者の嗜好ではなかったろうか。大航海時代に較べれば、いまのポルトガルは隠遁者のようなものである。
こういう前置きをする人を私は好まない。パラシオ・デ・セテアイス(七つのため息の宮殿)については「ホテル紀行U」で。
 
 
城跡T
城跡T
ムーア人の城跡へは徒歩で行くしかない。さほど高くない山、いや、丘といったほうが適当の、小山の尾根づたいを這うように走る細い道をひたすら歩いて辿りつく。
 
頂上に到着した時はすさまじい風で(「夢の途中U」をご参照下さい)、身の置きどころのないありさまであったが、そのうち風もおさまり、急な石段を歩けるようになった。
写真でも分かるように、けっこうな急勾配の、今にも崩れ落ちそうな外壁と石段。
こういう場所が私は大好きで、居るだけで、いいしれぬ充足感にひたるのである。
 
写真を撮ってもらいたいと私に頼んだ30代半ばの英国人男性も、古城や城跡は英国で見慣れてはいるが、ここは特別だとひときわ感慨の面持ちであった。
見るべきは城跡ばかりではない、360度の広大なパノラマ、球形の森と見晴るかす大西洋、そこかしこに点在する小粋な建物、空と大地と人との共生と交歓‥。
 
 
城跡U
城跡U
この風景をみた瞬間思い出したのは、バルセローナのグエル公園ほかのアントニオ・ガウディ作の建築物だった。ガウディの宇宙などと勿体ぶったことをいう書物は多い、しかしながら、ガウディが影響をうけたのは宇宙ではなく、むしろ地中海を隔てた北アフリカからの闖入者がもたらした異文化であろう。
ムーア人の城跡がそのことを何よりも如実に物語っているのではないだろうか。
 
ガウディは異教徒が生んだ文化から多くの恵みを享受しつつ、独自の建築美術を創造したのだ。ガウディの天才を導き出したのはイスラム教徒の美学にほかならない。
 
 
キンタ(Quinta)
キンタ(Quinta)
鬱蒼とした森のなかに超然と、あるいは凛然と佇むキンタ(館)は、貴族や資産家の豪華な隠れ家。館に住むのは必ずしもポルトガルの富豪だけではなく、ヨーロッパ中の大金持ちも住んでいるのです。コモ湖畔の別荘もいいが、私は森に囲まれたこういう住環境のほうが性に合っているように思います。キンタ本来の意味は荘園、大農園
 
それにしても、ペナ宮やムーア人の城跡から眼下を見おろすと、なんとたくさんの館があることか、あまりの多さに目を見張る。双眼鏡やカメラの望遠レンズを通して見ると、上の写真のごとくはっきり見える。ひとつくらい格安で分けてくれないかなぁ‥。
 
見れば見るほど目の毒、いい加減なところでレンズに目を当てるのはやめにした。
そして、もしここに住んだら、山火事が起こったら恐いかなと思うことにしました。
 
 
 
ロカ岬1
ロカ岬1
ユーラシア(Eurasia)は単なる合成語(Europe&Asia)としても、うまく言ったものだ。
ユーラシア最西端ロカ岬はほとんど人気もなく、風もおだやかで、岸壁を洗う波が白く泡立ち、悠久の時を打っていた。
リスボンからメルセデス240Eを操っていた案内人リマさんが、「35年間数え切れない人を案内しているが、こんな日はめったとない。」と言った。
 
ある種の妄執にとらわれている者はここで妄執を断ち切ろうという気になるのだ。ここで陸は終わる。妄執も終わりにしなければならない。悲しみと怒りの記憶は決して空洞化しないとわかっていても。
 
 
ボカ・ド・インフェルノ
ボカ・ド・インフェルノ
この種の景観は肉視するのと写真で見るのとでは大違い、肉視に較べてなんとまあ写真の迫力のなさよ、はっきりそう言えるのだが、あえて掲載した。
 
ボカ・ド・インフェルノ=「地獄の口」という響きが面白かったからだと思う。なに、地獄にはこのような口などありゃしません、地獄は極楽の中にあるのです。誰が見てもここが地獄の入口と分かる形ではなく、一見天国かもしれないと思わせるような形にカモフラージュされている、それが本物の地獄の口です。
 
2002年12月9日付「EssayU」の「地獄と極楽」に書いたので重複は避けます。
ごつごつした岩の向こうは大西洋、ぽっかり空いた口から狭隘な岩肌に飛び込む海水は真っ白に泡立ち、巨大なホイップ、あるいは生クリームさながら。ちょっと目には森羅万象・陰陽のいとなみを感じさせる光景でもある。写真左上に人間数名。
 
この日の夜、リスボンの中華料理店で食事をした。たまたま隣の席に居合わせた中年の男女が私たちに話しかけてきた。彼らは南アフリカ共和国のケープタウンから最近リスボンに赴任した英国人夫婦で、旦那は銀行家。
 
シントラ、地獄の口、カシュカイスの町が話題となったのだが‥旦那は俺に言わせてくれとばかりに口を大きく裂いて、ボカ・ド・インフェルノと叫んだ‥そのとき上記のような内容のことを私が言うと、つまり本当の地獄は極楽の中にあるのではと言ったら、君は作家かといわれた。
チェコのカルロヴィ・ヴァリでは「君は銀行家か?」といわれたこともある、そう言ったのも英国人であった(「夢の途中U」の「カルロヴィ・ヴァリ」)。
 
ケープタウン氏の言によると、そういう発想はひどくユニークで面白くもあるが、ふつう(何がふつうかよく分からない)それは小説家の領分であるということらしい。
その後も話に花が咲き、閉店間際までいたのではなかろうか、ケープタウンのご夫婦はマイカーで私たちをホテルまで送ってくれたのだった。
 
旅先でのこういう話は枚挙にいとまがないけれど、そろそろ紙面も尽きました。