バーミヤンを旅したのは1972年10月
同じ風景は二度と見れません せめて写真でご覧下さい
標識
標識
 
  カブールを夜明け前に発って約10時間のロングドライブのすえに到着。
  これよりバーミヤンの標識です。
 
岩山の石仏・全体
岩山の石仏・全体
 
 岩山をくりぬいて造られた55bの石仏。この石仏のあるがゆえにバーミヤンの景観が31年の
 長きにわたって強烈に記憶にとどまり、ほかのどこよりも忘れがたい風景となったのです。
 
岩山とポプラ並木
岩山とポプラ並木
 
 38bの石仏が遠望できますが、手前に盛りをすぎたポプラ並木があります。
この写真を撮影した日の夕方、バーミヤンに風花が舞っていたのを今でも憶えています。
昼夜のはげしい温度差(日中30℃前後、深夜−20℃)もバーミヤンにはふさわしいのです。
 
1972年10月、バーミヤンは素朴で平和な村でした。バーミヤンを思い出して追憶に
ふけっていた頃はよかった。いまはもう二体の石仏は跡形もなく破壊され、昔を偲ぶこと
さえおぼつかないありさまです。
 
石仏(55b)と空
石仏(55b)と空
 
石仏の頭の上まで歩いて登れます。汗をふきふき急な坂道を登ったのを思い出すと
妙にかなしくなってどうしようもありません。
 
石仏(55b)
石仏(55b)
石仏(55b)と壁画
石仏(55b)と壁画
 
 ご覧のとおり顔が削り取られていました。7〜8世紀、イスラム教徒が侵入し顔を壊したのです。
 
壁画
壁画
 
       石仏(55メートル)の頭部の周りに描かれた壁画(5世紀)。
       この壁画の様式が中国をへて日本に伝わった。
石仏頭上よりの眺め
石仏頭上よりの眺め
 
 石仏のてっぺんからの景色です。遠くに雪をかぶったヒンズークシ山脈を臨めます。
 
石仏と私
石仏と私
 
    こんな写真も二度と撮影できないと思ったら寂しいかぎりです。
石仏(38メートル)
石仏(38メートル)
Baby Buddha
Baby Buddha
     
        ベイビー・ブッダ。地元の人たちはそう呼んでいた。
少女と辞書
少女と辞書
 
     地元の小学生。手に重いダーリ語の辞書を携えていました。
      そして、「英語とアラビア語をおぼえるのが好き」と片言の英語で言っていました。
      アフガンには大勢いるのです、向学心に燃えた子供たちが。
バンディ・アミール1
バンディ・アミール1
 
 バーミヤンから75qほど西へ行くと、岩砂漠の中に忽然と姿を現す五つの湖。
バンディ・アミールです。この湖の水量は年中一定であるといいます。
豊かな地下水がこんこんと湧きだしているのでしょうか。
 
バンディ・アミール2
バンディ・アミール2
 
     崖っぷちからこわごわ撮りました。荒涼たる岩砂漠を旅して、
      こんな美しい湖に出会った人は何を想ったことでしょう。
     
バンディ・アミール3
バンディ・アミール3
夕暮のバーミヤン・ホテル
夕暮のバーミヤン・ホテル
 
        ユルトまたはパオ、遊牧民の家と同じテントがホテルの部屋。
          うしろの山はヒンズー・クシ山脈。
          
 
朝のバーミヤン・ホテル
朝のバーミヤン・ホテル
 
    バーミヤン・ホテルの朝。ユルトの中にはバスルームもトイレもあります。
    うしろの山並みはヒンズー・クシ山脈。
ユルト内部
ユルト内部
 
中はベッド、イス、石油ストーブ、小さなテーブルなど。若かりし頃の私。
ユルトの内部をセルフタイマーで撮影した唯一の写真。人間が写っているの
が目ざわりだと私も思います。
 
アフガニスタンに来てはじめて水のありがたさ、大切さを知りました。
日本で断水を何度も経験してきはしましたが、断水は恒常的につづく
ものではなく、単に不便さをかこつだけのことでした。
 
断水は日常茶飯、水は出ても、毎日取水制限時間帯が長くあり、わずかな
量しか出ない状況を経験してみて、水の得がたさを知ったという按配なのです。
 
つまり私は、異質なものとの出会いによって本質をみることができたのです。
ゴルゴラの丘
ゴルゴラの丘
      だれが言いだしたのか、ゴルゴラの丘と呼ばれている。
バーミヤンに蒙古が攻め入ったとき、ここに立てこもったアフガン人はチンギス・ハーン
の軍隊に皆殺しにされたという。
ゴルゴラの丘からの眺望
ゴルゴラの丘からの眺望
バーミヤンの風景
バーミヤンの風景
What is Life?
What is Life?
 
     この写真、久しぶりにアルバムから引っぱり出して裏を見ると、
      「What is Life?」と書かれてありました。