チェルトフカ
チェルトフカ
 
ブルタヴァ川の支流のこの細い川は特にチェルトフカ川と呼ばれている。
チェルトフカは悪魔の流れという意味であるとモノの本に書かれていた。
詳細は次頁の「チェルトフカ川」か「ヨーロッパ旅行記」の「チェルトフカ」を
お読みいただければ幸いである。
 
画像右よりの黒っぽいもの(川の中で家に接している)は実は水車で、
けっこうな音を立ててくるくる回っている。水車に接する二軒の家は文化財と
して保存されており、かつてここ(手前の家)には人形劇作者のイジー・トルンカ
(1912〜69)、奥の家には解放劇場のヤン・ヴェリフ(1905〜79)が住んでいた。
 
水車のやや先にあるのはカンパ島(ナ・カンピェ)の小さな詩人チェルトフカ橋、
この橋によってカンパ島はマラー・ストラナ地区とむすばれている。
 
チェルトフカ川
チェルトフカ川
 
カンパ島(ナ・カンピェ)で合流するブルタヴァ川はチェルトフカ川と呼ばれている。
チェルトフカは「悪魔の流れ」の意で、モノの本によると、近くのマルタ広場に
住んでいた女が悪魔のようであったことからそう名づけられたという。
 
はっきりしないのは、どこがどう悪魔だったか、である。悪魔のごとく
恐ろしげだったのか、あるいは冷酷非情だったのか、男をたらしこむ技巧が
悪魔的であったのか、そのあたりが判然としない。いつか調べなければ。
 
ヴェネチアのような細い川を隔て、右側がカンパ島なのだが、地面に傾斜もなく、
いきなり建物があるせいか、島という印象は稀薄、そこが面白いのかもしれない。
以前はここもゴンドラが行き交っていたようだが、いまはカヌーが時折通過する。
 
ところで、カンパ島(ナ・カンピェ)のマルタ広場あたりに住んでいたのは
悪魔のような女だけではなく、フランスの作家シャトーブリアンもいた。
1833年にシャトーブリアンが泊まったのは「ウ・ラーズニー」(温泉館)と
いう名のホテルで、19世紀この宿はプラハ最高のホテルであったらしい。
 
歴史の証人チェルトフカ川は、チェルトフカ橋をくぐって、家並みの間を悠々と流れている。
 
 
 
ブルタヴァ川
ブルタヴァ川
 
スメタナの交響詩「わが祖国」の「モルダウ」を聴いてこの川を想像していた時期があった。
チェコ語のブルタヴァはドイツ語ならモルダウ、私にはモルダウのほうが響きがよい。
 
古典音楽室(Classical Music)の「My Favorite Classical Music」にも記したのだが、
この曲はクーベリック指揮、ボストン響で聴くのが一番心にジーンと沁みてくる。
クーベリック(1914〜1996)はチェコ出身で一時はチェコ・フィルを指揮していたが、
「プラハの春」のソビエト戦車の侵略以来、長年チェコから遠ざかっていた。
 
クーベリックがチェコに戻ったのは、プラハ解放後のことで、その数年後彼は世を去った。
クーベリックのこの曲にかける思いは、プラハ市民の思いそのものであると思う。
ソ連圧政下にあっても凛然とし、気高さを矜持しつづけた彼らはモルダウのごとく静謐である。
 
旧市街広場
旧市街広場
 
プラハで最初に見たのがここ。(プラハ到着は1996.10.1.夜10時頃)私はこの広場をひと目みて好きになった。
季節のせいなのか、空気がすきとおっていて、目にうつるものみながすがすがしくみえ、爽快そのものだった。
 
広場はここ東側から建物群をへだて西、南、北側と広い。火薬塔も一見の価値がある、スメタナ・ホールのある
市民会館もアール・ヌーヴォーの美しい建物である。四方八方から広場へつながる細い路地は迷路のようだ。
プラハを再訪したらまずここに来て、あのとき迷子になりそうになった路地のひとつを歩いてみたいと思っている。
 
 
旧市街広場U
旧市街広場U
 
どこででもみかける風景、そういってしまうと無愛想この上ないが、欧州の広場に行けばたいてい目にする風景だ。
ありふれた屋外カフェとたいした違いはない、ただ、ここで愛飲されるのはチェコ・ピルスナーのビールである。
パラソルにPilsnerとプリントされたそれである。老いも若きもビール、日本の某大手ビール会社もチェコに範をとった。
 
商事と略して呼ばれる総合商社がいち早くチェコに目をつけ、ビールの材料となるあるものを輸入、提供した。
混入というと毒を連想させてよくないが、それを混ぜて醸造したビールはのちにラガーと呼ばれる。
日本とチェコの結びつきはビールから‥、そんなこともないけれど、たしかにビールも一役買っている。
 
あれはカレル・チャペックであったか、「いろいろな人たち」というエッセイ集(平凡社)のなかで関東大震災
について書いていたのは。「ゆれ動く世界」という標題であったと思うが、チャペック(1890〜1938)は
心の波ということばで連帯の必要性を説いていたようにおもう。阪神大震災の数ヶ月後に立ち読みした
のでうろおぼえだが、関東大震災は日本人に起こったのではない、人類に起こったのである、
ということを書き、日本への救援活動、連帯意識、そして募金が必要不可欠であると力説していた。
 
チェコという小さな国の大きな作家、カレル・チャペックはいまでもそういう評価を受けているのではあるまいか。
 
ティーン聖母教会
ティーン聖母教会
 
ヨーロッパに聖母教会と名のつくものは数多いが、このティーン聖母教会は独特のスタイル。
これがプラハの旧市街広場にあることで広場は人気があるのではと思うくらいのここの顔。
おっと、顔はほかにもあった、下の写真の天文時計、これを忘れちゃバチが当たる。
 
モノの本にたびたび紹介されているように、プラハは百塔の町である。とにかく塔が多い。
その数500とも600以上ともいわれているのだが、私はあいにく数えたことはない。
依頼心の強いことで申し訳ありません、どなたか知っている方、教えてください。
 
日中行っても面白いし、夜ライトアップされて黄金色にきらめく姿をみるのもいい。
ティーン聖母教会への入口が見当らなかったのは私の勝手な決めつけと怠慢のせい。
教会手前の建物・ティーン学校ほかの間にある路地をくぐり抜けるように行けば行ける。
 
そりゃそうでしょう、この教会を管理する人、ぜひ見学したい人もいるわけだし。
行けなければ蜘蛛の巣城になってしまう。帰国後わかって後の祭りでした。
 
ティーン聖母教会は1365年の建立。どこかに聖母がおわすのかというと、おわします。
上の写真の、鋭くとがった二本の尖塔の間にやや小さな尖塔がみえますが、
その尖塔中央の楕円部にイエスを抱いた聖母マリアの彫刻像があるのです。
 
 
天文時計
天文時計
 
旧市街市庁舎の名物、天文時計。時計は3つあって、上からからくり時計、天文時計、カレンダー時計。
からくり時計は定時になると死神が鐘を鳴らし、小さな窓がふたつ開いて、なかから十二使徒が現れる。
彼らは手に手に聖書や十字架を持ち、向きをかえながら別の窓へと消えてゆく。
 
最後にめんどりが鳴いて窓が閉まるという趣向である。からくり時計は他愛ないが、天文時計が美しい
せいもあって大盛況。画像は定時ではないので閑散としているが、定時はいつも黒山の人だかり。
天文時計は15世紀の天文学者&時計職人・ハヌシュの作。
 
天文時計の水色は昼間、内側の円は天秤宮で、なかにいるのは太陽である。
大きい画像は「夢の途中U」でご覧下さい‥。
カレンダー時計は暦板で、真ん中には旧市街の紋章、まわりは星占いの星座、月、1年間の日付。
面白いと思ったのは星座に描かれた絵。それは神々ではなく農民なのだ。
ボヘミア農民の四季の生活を巧みに描いているのである。
 
天文時計塔は70bあって、かつて塔のてっぺんは監視台となっていた。
いまはお役御免となり、観光客がかわりに見張り役を‥つまり上まで登れます。

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