プラハ城とカレル橋
プラハ城とカレル橋
 
プラハで眺めのよい場所は数多い。ここからの眺めは平凡かもしれないが、天候にかかわらず絵になるように思う。
旧市街とプラハ城および城下町は、ブルタヴァ川(ドイツ語ではモルダウ川)によって分かれている。
カレル橋は14世紀後半、カレル4世が建設した。その結果、城と旧市街は陸路でつながったのである。
 
その後のボヘミア王戴冠式のさいのパレードは、旧市街広場〜カレル橋〜プラハ城へと進行するのが恒例となり、
物見高い市民はこぞって沿道に集まって行列を見物したという。後にこの道は「王の道」と呼ばれた。
 
 
プラハ城
プラハ城
 
プラハ城開門と同時に城に入った。朝か昼か、影の長さでお分かりのことと思います。
帽子姿はつれあい。私たちがプラハを旅して数年後、つれあいの懇意にしている女性が
「銀婚記念に旅行するが、欧州の都市でひとつ選ぶとすればどこがよいか」と尋ねた。
 
彼女は、ウ‥といいかけてプラハとこたえた。口から飛び出そうになったのを言いなおしたのだ。
つれあいがウィーンではなくプラハをすすめた気持が私にはよく分かる。ウィーンもプラハも美しい町だ。
両者の違いは‥旅人を受け容れる政府と市民の姿勢の相違であると思われる。ウィーンは
観光客にあぐらをかいているが、プラハは観光客に対して真摯である。旧ソ連の鎖から解放されて
日もあさく、プラハには国が安定するまでの混乱期につきものの雲助タクシーがいないわけでもない、
しかし総じてプラハは旅人にやさしく、ウィーンのようにお金で人をはかる町とは一線を画す。
 
町の風景がウィーンより美しくすがすがしいと感じるのは、市民の心が旅人に反映されることと、
96年当時のチェコ大統領・ハヴェル氏の施政方針、とくに環境保全、町づくりへの取り組み方に
よるところ大なるものがあるのではなかろうか。旧東欧は、ワルシャワもそうであるが、営々と
町の景観保全と建築物修復にベストを尽くしていると思う。そういう現場をプラハで何度もみた。
 
つれあいがプラハをすすめたのもそういった理由ゆえのことなのである。
 
しかしながらチェコも、どこかの町の石油化学工場で環境汚染の波がひたひたと押し寄せている。
チェコが2004年にEUに加盟し、ヨーロッパの発展途上国からの脱皮をはかるには問題も多い。
渡り鳥が、そうとは知らず羽根休めに寄った町の化学工場の汚水で羽根を汚され飛べなくなる。
 
それはあたかもふた昔以上前の日本を想起させる情景である。プラハの智慧は発揮されるのか。
そういう危惧感にとらわれないでもないが、プラハは今後も健在ぶりをみせてくれると思う。
 
為政者がかわっても、彼らの町づくりへの思いは将来にわたって変わらない。
ある種の願望もこめて楽観的にそう思ってしまうのである。
 
写真の、いちだんと背の高い黒っぽい二本の尖塔が聖ヴィート大聖堂(内部は後続の頁で)
 
 
黄金の小路
黄金の小路
 
その名のとおり小路で、実に狭い道。人でごったがえしているように見えるが、狭い路地のせい。
17世紀、この路地の小さな家々に金細工をなりわいとする人々が住みついたのが名前の由来。
 
なんでも19世紀頃、このあたりはスラム化し、犯罪者も隠れすんだとか。桑原、桑原。
各家々は1950年代に修復されて、ほとんどの家はみやげ物屋になっている。
ここが有名になったのは、旧市街で人生を送ったフランツ・カフカ(1883〜1924)が、
1916〜17年にかけて数ヶ月の間、妹と一緒にここに住んでいたからである。
 
 
マラー・ストラナ
マラー・ストラナ
 
プラハ城から小地区(マラー・ストラナ)をみると、いかにも古そうな家並みを眺望できる。
プラハでは旧市街に次いで古い町で、以前はリトル・プラハ・タウンと呼ばれた。
 
このあたりは18世紀末以来、新しい建物はほとんど建っていない。
マラー・ストラナにはベートーヴェンやシャトーブリアンも一時滞在した。
中央やや右よりのバロック様式の二つの尖塔は聖ニコラス教会。
13世紀末にゴシック様式で建てられたが、1711年にバロック様式に改築され、
教会内のバロック・オルガンは、1787年にモーツァルトが演奏したこともある。
 
カレル橋T
カレル橋T
 
カレル橋は昼も夜も観光客でにぎわっている。昼の雰囲気もいいものだが、夜ライトアップされた橋を
散策するのも格別な味わいがある。朝早めとか、夜おそい時間はさすがに人はまばらで、そういう時間帯
を狙って出向くのもまた一興かと思う。雑踏のなかにいる時とは違う情緒がそこはかとなく感じられる。
 
ところで、カレル橋につくられた30体の彫像だが、これらはすべて聖人に除せられた人々の像で、
最初に聖ヤン・ネポムツキーの像が1683年につくられて以来、34年かけてふえていった。
歴史の教科書でおなじみのフランシスコ・ザビエル像も、凛然とわれわれをながめている。
 
カレル橋は橋という感覚でとらえるには違和感があるようで、むしろ広場といったほうがいい。
14世紀後期建造の橋としては幅(9.5b)が広いような気もするし、長さも515bほどある。
 
 
カレル橋U
カレル橋U
 
プラハの町を散策していると時々心に去来するのは「スラブ舞曲」の「作品72・第二番ホ短調」である。
ドヴォルザークのこの名曲が耳にきこえてくるといつも、路地で遊ぶ子供の姿が目に浮かんでくる。
はじめはやるせなく、徐々に軽快なメロディとなり、再び甘くせつなくなってゆく音楽に胸がいっぱいになる。
 
私のつれあいもこれが好きで、ハンガリー舞曲やスラブ舞曲がコンサートのアンコール曲として演奏
されると、いちだんと拍手が大きくなる。彼女は子供が好きで、私はもしかしたらそれは、彼女自身が
子供に戻りたいという願望のあらわれではないかと秘かに思っている、変な話ではあるが。
 
 
カレル橋より
カレル橋より
 
カレル橋観光の魅力は‥というと、何か他にいいことでもあるのか‥プラハ贔屓の人に顰蹙(ひんしゅく)を買いそうであるが、
カメラ愛好者にとって良いことはあると思う。火薬塔やティーン聖母教会といった、西欧は勿論、東欧にも珍しい一風変わった、
特異というか、幻想的というか、珍奇な形の建物が多いし、それは恰好の被写体になるし、至れり尽くせりなのだ。
 
ところが帰国後、被写体であった写真をしげしげ眺めるに、どうも面白くない。何が面白くないかといえば、やっぱり教会である、
間近で見れば前述のごとく幻想的ですらある建物も、写真になってみればただの写真、いや、そういってしまえば身も蓋もない、
要するに、現場で肉視するのに較べて迫力に欠けるのである。その点、カレル橋から見た上と下の景色はドラマが
ありそうで面白味がある。上の写真の、窓を封鎖して絵を飾ってある光景は、絵の不気味さもあって意味深長。
 
下の写真などは、これではまったくドラマは期待できそうにないが、川を隔てて両側に閑静な住宅が並び、左のほうには
川へと降りる石段がみえる。水路を利用して物資を運ぶ、それは容易に分かるけれど、そんなことどもを考えていたら、
突然カヌーが川下からやって来て川上(画像の上)に消えていった。「あぁ」も「おぉ」もなかった、アッという間の出来事だった。
 
手にも首にもカメラは二台も持っていたのに、呆然として、カメラを構えることもシャッターを押すこともできなかった。
カヌーの色は鮮やかな黄色であったから憶えているが、カヌーをこいでいた人間が男であったか、女であったか、
よく分からなかった、いくらなんでも両性具有ではあるまいが。この小さな川の名は「悪魔の流れ」というらしい。

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