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京都・伏見の面白情報満載
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 

■ 家族の一員として、『ねこ』 と共に暮らす。


 白黒の方が、「キーちゃん」で昔飼っていた猫で、雑種の男の子です。
茶虎の方も雑種で約1歳ぐらいで、当時(2009年)の2月から家族の一員になり「ケイちゃん」と命名しました。
昔飼っていたキーちゃんは男の子で、去勢をすると女の子のようにおとなしく、やんちゃな事は一切しないおりこうさんでしたので、こんな子は他には居ないだろうと思っていて、 2度と飼うことは無いと思っていましたが、近所に野良猫が2・3匹うろうろしており、キーちゃんを飼っていたときに、専用の出入口を付けており、そこを開けておいてえさを置いていたところ、 時々その野良猫たちが来てえさを食べていましたが、去年の暮れぐらいから今まで見なかった茶虎の猫が来るようになり、仕事から帰って来ると、他の猫たちは飛んで逃げて行きましたが、 その茶虎の猫は今年の2月のある日、逃げることなくすり寄って甘えてきました。
その時にうすうすは感じていたのですが、そこまで甘えて頼ってくれると、仕方がないのでうちの子になるかと言う事で、その日にトイレの砂とか首輪、缶詰のご飯を買ってきて、 ついに家族の一員になりました。
女の子は初めてだったので分からなかったのですが避妊手術に掛かった費用は4万5千円程です。やはり男の子の方が格段に安かったですね。
そんなこんなで、手術をして頂いてその日の内に連れて帰ってきましたが、暫くは元気が無く2・3日後も机に飛び乗ったり飛び降りたりするのが、力が入らないのか怖々でしたが、 1週間程で元に戻りました。
その後、母性本能が薄れたのか、生活に慣れてきたのか少しやんちゃな面が出て来ました、これも、家の中に閉じこめ、殆ど仕事をしている為に遊んでやれない為にストレスが貯まる為の様です。
ただ不思議なのは、営業の人やお客さんが来られると、待ってましたとばかり、玄関へお出迎えし誰彼無しに足元にまとわり付いていきます。普通でしたら好き嫌いが有ったり、 無くてもたいがいは飛んで逃げて行くのですが、不思議なねこです。
同じ猫でも色々な個性がありますが、仕事で長時間留守にしていても、スキーで5日間留守にしていても、家の中を散らかしたり物が散乱する事無く、賢く留守番をしてくれるのが嬉しいです。
ただ余りにも頻繁に毛繕いばかりするのが気になります。私の顔もぺろぺろとなめ回してくれます(痛いので余り嬉しくは有りませんが)。心配なので、猫の草を育てているのですが追いつかず、 毎朝庭の草を探して取ってくると待っていたかの様に、飛んできてよく食べます。
食べ物も、基本はカリカリで、1日に1個ぐらいの缶詰(色々な種類を買いそろえています)を食べますが気まぐれで、今日はガツガツ食べていても明日は見向きもしないのは理解不能です。
それから約10年、住まいと事務所を引越しをし、ねこも一緒に住まいを移し、一度に環境が変わる事に、どう対応してくれるのか不安でしたが、引越しが終わり、寝床やトイレもどう認識して くれるのか不安でしたが、結果として非常におりこうで、直ぐに馴染んで覚えてくれました。
こちらに来てからの食事は、基本カリカリで、チャオチュールはご多分に漏れず好きですね。
それでも味の種類によっては食べずに、プイと横向いて向こうへ行ってしまう時があります??。
食べ物の好みは、本当に分からなく、日替わりで変わります。
やはり1匹飼いなので、遊ぶ相手が要ないので、退屈でストレスが貯まり、毛づくろいのし過ぎで、あちこち禿げて来ているのが気になります。 若い時から中年に成り、今は老年で、年と共に行動や生活リズムが変化して行き、今は大半が寝て過ごしています。
後何年行きられるか分かりませんが、出来るだけ長生き出来る様サポートしてやりたいと思います。


 ■ ここからは、京都・『伏見・深草』 界隈の面白色々情報です。


■ まず初めに、『宝塔寺』の紹介です。
 此処 宝塔寺(七面山)は、生まれ育った家の近所で、小さい時の遊び場でした。
ここも里山の一部で、虫や生き物の宝庫で、夏休みになれば毎朝徘徊し、ゲンジやカブトを取りに周り、とんぼ釣りやサワガニ取りや山菜採りにも、よく通いました。
 山の一部や南東の隣接地は工業高校に成り、山池も無くなり、様変わりしていますが、宝塔寺自体は、維持管理上の改修は各所で行われておりますが、基本は昔と変わっておりません。
『宝塔寺』 のいわれや、塔頭などの配置・歴史は、このリンク先ホームページで、確認して見て下さい。
 本堂から上には七面山の語源の七面大明神が祀られている神社等も有りますが、その北側には昔よく遊んだ滑り山が有ったのですが、今は無くなり全てお墓に 変わっており、残念です。



■ 『宝塔寺』の塔頭及び、上部(七面山)の紹介です。
 此処の多宝塔は、重要文化財でも有り、今住んでいる極楽寺町の地名の『極楽寺』は、この多宝塔のみ残っているそうで、この場所に有ったそうですが、 お寺やその他の建物は一切残っておりません。
西の四脚門の横に、痕跡の一部(柱脚)が展示されており、説明書きも有ります。
 西から四脚門を入り仁王門まで、両側に「円妙院」「直勝寺」「霊光寺」「慈雲院」「自得院」等の塔頭が有り、本堂から上に、「三十番神」の横から、鳥居をくぐり登って行くと、 七面大明神の本堂や熊鷹社等が有り、横を抜け七面山頂上を経ると、一気に視界が広がり、京都市内が一望出来ます。
その眼下に、京都市の(樹木葬共同墓地)が有り、そこから階段を降りて行くと、京都市共同墓地公園が有ります。


■ 瑞光寺・元政上人廟(三本竹)

 生まれ育った家から、歩いて1分の処に有った三本竹(元政上人廟)を抜けて、JR奈良線を渡れば、この 『瑞光寺』が有ります。
此処も、当然子供の頃からの遊び場で、お墓(霊園)が有る位置は昔竹藪で、スミカ(隠れ家)を作ったり、その横には池や築山が有り、よく魚やエビガニを釣ったりして遊んでいました。
梵鐘は、今の位置では無く、昔は築山の上に有り、大晦日の晩には「除夜の鐘」を突きに来ていました。(懐しい〜〜。)
JRの両横は、今は駐車場ですが、昔は三本竹と共に雑木林で、時代と共に変わって行きます。(寂しい〜。)
但し、此処の本堂は昔から萱葺きで、今も守られていて嬉しい限りですが、山門は残念ながら茅葺きで無く成り、寂しい限りです。


■ 『眞宗院』の紹介です。

 ここも生まれ育った家の近くですが、お寺の中で遊んだ記憶は殆ど有りません。
多分境内が狭いせいと、時間が来れば閉門されるせいだと思います。
でも、名前は会話の中にはよく出て来ます。
それ程、私達の中での記憶に残り、この辺の話になれば必ず名前が出て来るので、知名度は有ります。
近くには十二帝陵が有り、直ぐ横には田んぼや畑が有ったり、里山形態でよく山菜採りや虫取りにうろついてたから、親近感と原風景になっているからだと思います。
『眞宗院』に付いては、このホームページを見て下さい。
深草のトレッキングルートに位置し、此処を通過して暫く行くと、竹藪の中を巡るトレイルになって行きます。



■ 『伏見稲荷大社』と、山上近くの『薬力亭』

 此処、『伏見稲荷大社』も、生まれ育った家から近く、当然子供の頃からの遊び場で、歴史や神聖な場所と言うより、虫取りや遊び場で 裏道や、道が無い山の中に分け入り、探検や虫取りをしていました。
少年時代は、山の上も熊鷹池位迄で、そこから上の四つ辻(にしむら亭)すら、余り行って無かった気がします
伏見稲荷大社本殿近くは、お正月の3ガ日、パチンコ等の出店に日参して、よく遊んだ事を懐かしく思い出します。
『伏見稲荷大社』は余りにも有名なので、そちらの方は楽天が案内のホームページを見て貰い、 その中から有名な千本鳥居から上の方に有る、薬力社向かいの茶店 『薬力亭』 を紹介します。
リンク先にも掲載しましたので、場所や行き方はそちらで確認して下さい。
 ここは深草中学の先輩がされており、山スキーやアウトドアが大好きで、最近まではゴルフにも熱中されていましたが、少し前までご両親が店に居られましたが体を悪くされて先立たれ、 先輩の木村嘉宏さんが店を切盛りしなくてはならず、殆どここに居られますので、色々な話を聞いてみて下さい。
但し行くのには時間帯と、体力が要りますが。



■ 氏神様の 『藤森神社』
 ここも小さい時の遊び場ですが、家からは少し遠く、普段は殆ど行かなかったのですが、春のゴールデンウイークがここのお祭りで、5月2日から5月5日までで、 とにかく出店夜店がいっぱい出ていて型抜きや輪投げ、ヨーヨー釣りや金魚すくい等々、子供心をくすぐる店がいっぱい有り、お祭りの間は友達などと日参していました。
変わったところでは、蛇女やろくろ首の見せ物小屋が有りましたが、入ったことは一度も有りませんが、当時はすごく興味(怖い物見たさ)をそそられました。
一方大人は、御輿や武者行列、掛け馬がメインイベントで、今は武者行列は無くなり、一部は時代祭に組み込まれておりますが、駆け馬は有名になり、毎年テレビのニュースに出て来ます。
その事により競馬の神様、勝ち馬の神様と言う事で、競馬関係者など多数の参拝客が訪れられています。
名前の通り、昔はこの辺り一帯に藤の木が有ったと思われますが、今は境内に少しだけになっています。
近くでは最近 鳥羽水環境保全センター の藤の花が綺麗で、一般公開もされております。
5月の春祭りが終わり6月に入ると約1ヶ月間『紫陽花祭り』が行われて居り、約3500株の紫陽花が咲き乱れています。

     

■ あの伊藤若冲が晩年を過ごした『石峰寺』

 生まれ育った家から、歩いて5〜6分の処にこの『石峰寺』が有ります。
当然子供の頃からの遊び場で、昔は七面山から地続きで柵も無く、この”五百羅漢”さんの周りも遊び場で、よくゲンジやカブトムシを取りにうろついていました。
表玄関の山門は、昔も今も変わっていませんが、昔から変わったイメージ(黄檗宗)で、皆は"龍宮城"と呼んでいました。
大きな出来事として、私らの脳裏にも焼き付いておりますが、昭和54年に放火で消失したと言う事ですが、夜の火事で遠くから(家の近く)でも火勢が凄かったのを覚えておりますが、 後に再建され現在の姿になって居るとの事です。
お寺の関係者にとっては、表に出るのを控えられ、トラウマになって居られるのでしょうか?。
最近でこそ、伊藤若冲の名を聞くだけで、大変驚きますが、昔はそれ何・・・?と言う感じでした。
ここに伊藤若冲のお墓が有る事自体も余りよく知られておりません。
なぜかと言うと、遺髪がかの有名な”相国寺”に埋納されたらしく、そちらにお墓が有る物と思われているのでしょうか?。

■ あの伊藤若冲が晩年を過ごした『海宝寺』

 生まれ育った家から、近くでは無い(但し、歩いては行きます。)のですが、前に住んでいた桃山から移動する時に、この『海宝寺』前をよく通っていましたが、 まさか伊藤若冲ゆかりのお寺とは知りませんでした。
たまたま、以前から気になっていたので、トレッキングの通りがかりに寄ってみたら、晩年上記の『石峰寺』と共に縁が有り、筆を持ち、挙句の果てに筆投げの間の遺恨を残されたそうです。
このお寺は黄檗宗のお寺のようですが、それ程変わった感じは有りませんでした。
普茶料理が有名らしいのですが、食したことは有りません。
小さいお寺ですがまとまっており、綺麗に手入れされて居られます。


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