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研究報告
天野恵:騎士道と火器(5) [2/4]
ところが、大砲が進歩して比較的容易に城壁を打ち破ることができるようになると、このあたりの事情は一変した。およそ戦争の歴史というのは、攻撃力と防御力のシーソー・ゲームという面があって、例えば現代の状況はどうかと言えば、ICBMやSLBMによる戦略核攻撃は誰にも防ぎようがないから、その意味で攻撃力が勝っている時代と言えよう。仮にブッシュ政権の推進するミサイル防衛構想なるものが実現すれば、少なくともアメリカにとってはこれが逆転して防御力優位の時代が到来することになるのだろうけれど、実際にはこのMD構想というのはかなり眉唾モノのようで、効果的な防御網を作り上げるのはどうも不可能らしい。一方、中世のヨーロッパはいわば本当の意味で防御力優位の時代だったわけで、これが大砲の登場によって攻撃力優位の時代へと大転換を遂げたのだという風に解釈することができる。
そして、大砲の登場によって城攻めが容易になった結果、戦術的にも戦略的にも、そしてさらには政治的にも、野戦というものの重要性が著しく増すことになった。なにしろ、たとえ篭城してみても、大砲を備えた敵に攻められれば短時日で落城の憂き目を見る可能性が高いわけだから、むざむざ寄せ手を待つのではなく、こちらからも討って出ようということになる。しかも、以前のように、合戦で負けたら城に逃げ帰り、篭城してさらに持ちこたえる、というわけにはいかないから、たった一度の野戦における勝敗が一国の支配権そのものの獲得あるいは喪失に直結しやすくなった。
マキアヴェリは『君主論』の中で、「外国の軍勢よりもむしろ自国民を恐れる君主は城砦を作るべきだが、自国民ではなく外国の軍隊を恐れる君主には城砦など無用だ」、という意味のことを言っているけれど、彼のこうした言葉の背景には、大砲による「防御力から攻撃力へ」という時代の変化が存在していた。要するに、マキアヴェリの主張が妥当性を持つことができたのは、彼の時代というのがちょうどこうした時代の転換点に当たっていたからであって、大砲以前の中世にあっては、マキアヴェリが何と言おうと城砦は絶対に必要なものだったのである。
防御力優位から攻撃力優位の時代へというこうした変化はまた、中央権力と地方的勢力の力関係にも大きな影響を及ぼした。例えば国王と封建貴族、あるいは既に国家統一を成し遂げたフランスやスペインのような超大国と、イタリア半島にひしめいていた規模の小さい都市国家、というような二者間の関係を見た場合、これはいずれも前者にとって決定的に有利な状況が生まれたことを意味していた。なぜならば、弱小国の側が城壁を盾にして強大な国家に刃向かう、というようなことがもはや不可能になったからである。
実際、ルネサンス期になると、例えばフランスでは封建貴族に対して国王の権力が強くなり、国家統一が進展した。これはフランスという言葉の意味の変化にもあらわれていて、中世においては「フランス」と言えば、それはすなわち「シャンパーニュではなく、ノルマンディーでもなく、ブルゴーニュでもなく、ポワトゥーでもなく、メーヌでもなく、フランスなのだ」という意味であって、要するにイール・ド・フランスのことを指していた。「レ」と呼ばれるたいへんロマンチックな短い騎士物語の傑作をたくさん残した女流詩人のマリ・ド・フランスという人がいたけれど、この場合のフランスという呼称ももちろんそういう意味で使われている。ところがマキアヴェリなどが「フランス」と言えば、それはもう今のわれわれと同じように、「ドイツではなく、イタリアではなく、スペインではなく、イギリスではなく、フランス」という意味になっている。
同じ頃、イタリア半島の諸都市は外国の軍隊の侵入を阻みきれずに次々と独立を失っていく。まがりなりにも独立を保ったのはヴェネツィア共和国だけだったが、これとてももはやかつてのような大国ではなくなっていった。こうした歴史の流れも、少なくともその一端は大砲によって引き起こされていたのである。
ちなみに、16世紀も後半に入ると、大砲による攻撃を考慮に入れた新しいタイプの築城術が確立されていく。そして、これとともにある意味では再び防御力が盛り返すことになるのだけれど、こうした新式の城砦の建設には、中世のそれとは比較にならないほど莫大な費用がかかった。だから、それがやれるのは統一国家の王権に代表される巨大権力だけであって、もはや封建貴族や都市国家のような地方的中小権力の手におえる仕事ではなくなっていた。だから、この新式築城術もまた、これはこれで中央権力をより一層強める働きしかしなかったのである。結局、都市国家の権力者に対して行なわれた『君主論』の忠告は、大砲以前の時代にも当てはまらなければ、それ以後の時代においても役には立たなかったことになる。