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研究報告
天野恵:騎士道と火器(5)[3/4]
ところで、話があちこちに飛躍して申し訳ないが、西洋の古代彫刻というと、多くの人は普通どんなものを思い浮かべるのだろうか。小生ならば、まずは「ラオコーン群像」とか「ミロのヴィーナス」、「サモトラケのニケ」、あるいは大英博物館のエルギン・マーブルといったところだろうか。が、これらはいずれもみな大理石像である。もちろん、「デルポイの御者像」とか「アルテミシオンのゼウス」や「リアーチェの戦士像」のようなブロンズ像も知ってはいるけれど、どちらかというとこれらは大理石像に比べて少数派といったイメージがなくもない。実際、ロンドンでもアテネでもローマでも、どこの考古学博物館へ行っても、圧倒的に数が多いのは大理石像である。しかし、実際に作られた作品数の比はどうも逆だったようで、どちらかというとむしろブロンズ像の方がたくさん作られていたらしい。詳しくは知らないが、こちらは工程のうちのかなりの部分で量産がきくはずだから、まァ当然といえば当然のような気もする。
では、なぜ現存する古代彫刻には石像が目立つのかというと、ブロンズの方はその多くが後の時代に鋳潰されてしまったのである。つまり、もともとはたくさんあったにもかかわらず、熔かして他の用途に使うことが可能だったために、生き残る率が低くなってしまったわけである。ツブシの利く材料でできていたために長生きできなかったことになる。現存するブロンズ像の多くが、比較的最近になって発見され、海底から引き上げられたものであるのもこのことと関係がある。
同じことは中世ヨーロッパの芸術作品についても言えるようで、例えば初期ロマネスク時代の重要な教会の門扉には、立派な浮き彫りを施したブロンズ製のものがずいぶんたくさんあったのではないかと言われている。ただし、現存するものは極めて少数で、その中では例えばヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエルのそれなんかが有名だけれど、この当時、つまりオットー朝時代は言うに及ばず、もっと以前のカロリング朝時代にも、似たような門扉、つまり芸術的に高い価値を持つブロンズ製のそれは結構あったらしい。少なくとも記述史料などからはそのように推測されている。ところが、これらも後の時代にほとんどが鋳潰されてしまったというのである。
さて、では鋳潰されたブロンズ製品はいったい何に姿を変えたのだろうか?読者の方々にはもう想像がついていることと思う。そう、大砲である。もちろん、世を挙げての古代ブームに沸きかえっていたルネサンス期であれば、まさか古代彫刻を鋳潰したりはしなかったろうし、それにルネサンス人自身も銅像は作っていたわけで、別に全部が全部大砲になったわけではないのだけれど、大砲製造のためのブロンズの需要は高かった。
ユリウス2世がミケランジェロに作らせた自らの銅像は、ボローニャが教皇庁に対して反乱を起こした際に壊されてしまい、長寿をまっとうできなかったが、その残骸にもすぐに買い手がついた。買っていったのはフェラーラ公アルフォンソ・デステ。われらがアリオストの主君である。たいへんな大砲マニアだったアルフォンソはこのブロンズで作った巨砲をジュリアと名づけてあちこちの戦場に引っ張りまわしたという。ジュリアというのは、ユリウスのイタリア語形ジュリオの女性形である。アルフォンソはユリウス2世と犬猿の仲だったし、この教皇は気性の荒さとよくカミナリを落とすことで有名だったから、その銅像が大砲に姿を変えてアルフォンソに仕え、しかも名前までが、それも女性形になって残って、時々アルフォンソのためにあちらこちらでカミナリを落とし続けるというのは、フェラーラの人々にとっては痛快なことだったに違いない。