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研究報告
天野恵:騎士道と火器(5)[1/4]
もう何年も前のことになるが、中部イタリアのペルージャという町で一夏を過ごしたことがある。起伏に富んだウンブリアの、絵のように美しい丘の上の中世都市である。たまたま一緒だった同僚の日本人イタリアニストN氏と、よく夕飯の後の散歩をしたものだった。ご存知の方も少なくないと思うが、ペルージャというのは散歩のコースに不自由しない町なのである。旧市街のはずれを歩きながら、暮れなずむ盆地を見下ろす城壁沿いの、どちらかと言うとみすぼらしい民家の窓を見上げて、小生は思わずこう言った。あんな家に住んで、毎日この夕暮れの景色を眺めながらパスタとワインとサラダで晩飯を食う生活ができたら幸せだろうなァ、と。ところが、これを聞いたN氏の答えはどうだったかというと、「毎日がそれだったら飽きますよ。こうしてたまに来るからこそ、うらやましく思えるんです。」という、はなはだ研究者らしい理性的なものであった。
まァ、それはその通りだろうと小生も思う。実際にそこに暮らしている人間にとっては、職場の人間関係やら親戚づきあいやらでイヤなことも色々あって、ウンブリアの夕暮れを味わってばかりはいられまい。しかし、またこうも思う。もし仮にペルージャのあの窓の住人が、やはりあの時の小生と同様、「たまに」日本の小生の家の近くに来たとしよう。すると、彼もやはり小生がペルージャの彼の家の窓を見上げて感じたように、ああ、ずっとここに暮らせたらなァ、とはたして思うのであろうか。
率直に言って、たとえ一瞬たりとも彼がそのように思うとは信じられない。
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さて、前回、触れるともなく触れたことであるが、騎士道に凝りまくっていたはずのブルゴーニュ公国は、実は砲兵隊の拡充にもおおいに力を入れていた。そして、こういう行き方に関してはフランス王国もまた同様だったから、ブルゴーニュが滅び、そして百年戦争が明けてみると、この面でのフランスの優位は絶対的なものになっていた。が、ブルゴーニュといいフランスといい、いずれも中世ヨーロッパを代表する騎士道の国である。となると、この二つの傾向の間に矛盾はなかったのだろうか。つまり、彼ら騎士たち、と言うか騎士道マニアたちの頭には、大砲をはじめとする火器が騎士道にもとる武器であるという認識はなかったのだろうか。「飛び道具とは卑怯なり」という考えは、西洋の騎士たちには無縁だったのだろうか。
結論から言うと、鉄砲はともかくとして、大砲の方はどうもそうした意味の飛び道具とは見なされていなかったようである。これについては、大砲が対人兵器ではなく、攻城用兵器であったことを考えれば納得がいかぬこともない。要するに、武士の魂たる刀のようなそのものズバリの兵器というよりは、むしろ城壁をこわすための単なる道具に過ぎなかったということである。
ただ、城壁をこわすための単なる道具とは言っても、中世のヨーロッパにあってはこの城壁なるものが実に大きな役割を果たしていた。だから、ペルージャをはじめとする中世都市にあっては、城壁は非常に大切に扱われていて、例えば城壁の外にゴミを捨てたりすると厳罰に処せられた。美観や衛生のためではない。城壁のすぐ外側にゴミが堆積すると、結果としてその分だけ城壁の高さが相対的に減ることになる。そうなると、敵にとってはそれだけ侵入が容易になるからである。
同じように、城壁の内側にぴったりとくっつけて家を建てるのもまずかった。実際にはそういう家もあったのだけれど、侵入を図る敵によってこの種の家がうまく利用される危険があった。彼らは、まずスパイを送り込んで、そういう立地条件を備えた家に住まわせ、その家の中で密かに城壁に穴を開ける工事を進めさせた。穴があくと、夜陰に乗じて兵隊をその穴から家の中に送り込む。兵隊たちはそこから市内に出ると、市壁の門を内側から襲ってこれを開き、外で待ち構えていた本隊を市内に導き入れる、とまァざっとこういう寸法である。だから、今でこそこうした城壁沿いの家の中には、あろうことか城壁そのものに窓を穿って、部屋の中から市壁の外の世界を直接眺められるようにした、小生をおおいにうらやましがらせるような例が見られるのだけれど、中世においてはこんなことは論外だった。
ところで、そもそも中世の戦争においては、たった一度の合戦でもって完全に勝敗が決まってしまうというケースは非常に稀であった。なぜかというと、たとえ負けたところで、それこそ全滅してしまったり、あるいは大将が戦死するなどして戦争を続ける意味そのものが失われでもしない限り、負けた側には砦か城市に逃げ込んでしまうという手が残されていたからである。で、そうなると、勝った側は今度は城攻めをしなければならなくなる。ところが、当時は城や都市を攻め落とすというのは、ほとんど不可能と言ってもいいくらいの難事業であった。ことほどさように、城壁というのは寄せ手にとっては実に手強い、そして守り手にとっては実に頼りになる存在だったのである。
だからこそ、中世都市はあんなに城壁の建設と保守に神経質になっていたわけである。それはそうだろう。いくら強力な騎士団にしたところで、馬に乗ったまま城壁を乗り越えて行くことはできない。だから馬を下り、敵が守りを固めている城壁に取り付いて、梯子でもかけて登って行くということになろうが、これがほとんど自殺行為であることは考えなくても分かる。そこで、城門を打ち破るための破城槌やら、城壁の上に直接乗り込むための移動櫓やらといった大袈裟な仕掛けが必要とされた。しかし、これらの仕掛けは、それ自体、準備からして大変な費用と時間を食うものであった上に、それを用意したからと言って城攻めが必ずしも成功するという保証はなかった。
包囲して兵糧攻めにしてみても、現実にはあまりにも長い時間がかかってしまい、結局失敗に終わることが多かったし、第一、それ以前にそもそも完全な包囲を行なうこと自体が困難だった。ちょっと大きな城市になると、その周囲をぐるりと包囲してしまえるほどの兵力は、もともと攻撃側が持ち合わせていないのが普通だったからである。それに、仮に取り囲んでみても、その状態を長期間にわたって維持するのはさらに困難なことだった。だから、包囲といったところでせいぜい城門からの出入りができないよう布陣する程度のことしかできない場合が多かったのである。
つまり、端的に言うと、敵が城壁の向こう側に逃げ込んでしまった場合、攻撃側にはほとんど打つ手がなかったということになる。