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研究報告
天野恵:騎士道と火器(1) [5/5]
16世紀も1520年代になるとこれら大小さまざまの大砲が花盛りだったらしく、たとえば彫刻家・工芸家として有名なベンヴェヌート・チェリーニは、1527年の「ローマの劫略」において自分がカステル・サンタンジェロからさまざまな種類の大砲を撃ちまくって大活躍したことを『自伝』の中で吹聴している。(ちなみに岩波文庫から出ているチェリーニの『自伝』は、大砲に関する記述もおおむね正確に訳出されており、小生のような軍事マニア?の目から見ても評価できる。ただ、上記のmezzo cannoneやmezza colub-rinaなど、その名称にmezzoの付いたものに関しては、訳者はこういう名称の大砲が存在したことを知らなかったらしく、mezzoを修飾的に使われた通常の形容詞と解釈して「ちっぽけな」「半人前の」といった意味にとってしまったように見受けられる。)
しかしながら、こうした大砲の発達によって戦争のやり方が劇的に変わったのかと言うと、実はそうでもない。徐々にではあるが大きく変わったのは築城法である。
ルネサンス期以降の城壁は低く、厚く、また石よりも砲弾の衝撃を吸収しやすいレンガ造りになった。が、これは先にも述べたように大砲が攻城用兵器だった以上、はなはだ当然の結果だろう。
それに対し、野戦を含めて戦術そのものを大きく変えたのは、大砲ではなく鉄砲である。そのせいか、鉄の鎧に身を固めた中世の騎士を時代遅れのものにしてしまったのは鉄砲だという説がある。
そうした声は既に16世紀当時から聞こえていた。実を言うと、アリオストが『オルランド・フリオーソ』の中で行なっている火器批判こそは、そうした声の中でも最初期の、しかも最大の影響力を持ったもののひとつに数えられるのである。
われわれ日本人にとっても、長篠の戦で信長の鉄砲隊の前に敗退したのは確かに武田勝頼の騎馬隊だったから、そうした主張はもっともに聞こえるかもしれない。しかし、ヨーロッパの騎士を時代遅れにしてしまったのは実際には鉄砲ではなかった。
次回はそのあたりの話から続けることにしようと思う。
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