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研究報告
天野恵:騎士道と火器(2)[1/3]
ローマの名所のひとつにカンピドリオの丘がある。頂上にミケランジェロの設計した広場があって、その広場の中央にはマルクス・アウレリウス帝の騎馬像が置かれている。
この騎馬像は、ミケランジェロに命じてこの広場の整備を進めさせたパウルス三世がここに運ばせたもので、それ以前にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの前に置かれていたということである。
中世にはコンスタンティヌス帝の像だと思われていた。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノはこの皇帝の肝いりで建立された、いわゆるコンスタンティヌス・バシリカのひとつだったし、この皇帝が例の「コンスタンティヌスの寄進」を行なう動機となった(ということになっている)病気治癒の奇蹟もここの洗礼堂で起きたとされていたからである。
そして右手を挙げて馬にまたがったこの図像は、それがコンスタンティヌス帝ということになっていたおかげで、写本の細密画やら教会のレリーフやらのモデルになってヨーロッパ中に流布したということを、確かエミール・マールが書いていた。
ところでこの騎馬像、古代彫刻の傑作ではあるのだろうけれど、小生は初めて見た時に何となくシマリがないような印象を受けた。偉い皇帝にしては、どうも威風堂々あたりを制するといった雰囲気が不足している。どことなく頼りなげで、あたりを制するどころか十分に馬を乗りこなしているようにさえ見えない。極端な言い方をするなら、もし馬が少々跳ねたりしようものなら、その拍子に簡単に落馬してしまいそうである。実は今見てもそういう印象を受ける。
ただ、それは決して彫刻家のウデが悪かったせいでもなければ、小生に彫刻を見る目がない(このこと自体はおおいに真実なのだけれど)せいでもなく、恐らく古代の乗馬姿勢がわれわれの見慣れているのとは違っていたせいなのである。
そもそも古代人は鐙(アブミ)というものを知らなかった。実を言うと、マルクス・アウレリウスの騎馬像に鐙がなく、皇帝の両足がブランブランなのはひとめ見れば分かる。
しかし、この像を初めて見た頃の小生は、何しろ古い銅像だからその辺の細かい部品は盗まれてなくなったのだろうと勝手に思い込んでいた。それどころか、無知とは恐るべきもので、早くきちんと修理すればイイのに、とか、いや、元通りにしてもどうせすぐにまた盗まれるだろうし、マッ、これでもいいか。ったくローマの治安の悪さにゃあ困ったモンだ、などと、イタリア人は全員が泥棒だと固く信じたままひとりごちたりしておったのである。
とにかく、古代ローマ人は鐙なしで馬に乗っていた。だから馬の背に登ること自体かなり大変だったろうと思うが、乗ってからも体を安定させるのがむずかしかった。
正直に言うと小生は馬に乗ったことがないので実感はわかないのだけれど、まあステップを取っ払ったバイクに乗るのを想像してみればだいたいの見当はつく。(こうしてみると、バイクにステップがあるのはそれ以前に鐙があったからなんだ!ということに今はじめて気がついた。)
いずれにせよ、馬でもバイクでもそういう状態で乗っていてさほど楽しいとは思われない。実際、あれほど戦車競走に夢中になった古代ローマ人も競馬をやったという話は聞いたことがない。なるほど騎士階級 equitesというのは共和制時代からあって、その社会的地位は普通の市民階級たる重装歩兵より高かったのだけれど、では騎兵が戦術上どのような役割を担っていたのかとなると、今もってよく分かっておらず色々な議論があるらしい。
小型の丸い盾と投げ槍のような槍を持っていたことは様々な図像からはっきりしているものの、馬具の方は鐙もなし鞍もなしというお寒い状態だったから、これが戦闘の主力になろうはずもなく、基本的に馬の役割は単に機動力を増大させることにあったものと思われる。
弓矢ならいざ知らず、槍など持っていたところでこれを馬上から投げたり突いたりできたかどうかさえはなはだ疑わしいし、仮にできたとしてもたいした威力はなかったはずである。
もっとも、馬上から弓を引くとなると手綱を完全に放してしまわなければならないから、これまた鐙なしでは厄介だったであろう。いずれにせよ、これが中世の騎士と無関係だったことは、equus とか equito とかに由来する言葉が、派生語も含めて中世の騎士時代にまで生き残ることがなかったことからも見て取ることができる。