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研究報告
天野恵:騎士道と火器(2) [2/3]
というわけで、古代世界に騎士はいなかった。ホメーロス作品そのものを知っていたわけではないダンテはアキレウスも騎士だと思っていたようだけれど、実際には彼は馬に乗っていたわけではなく戦車を、それも自分で操縦せずに運転士つきで愛用していたのである。
もちろん、戦うときは車から飛び降りて徒歩で戦った。クサントスとかパリオスとかいった名馬、神馬たちも何のことはない、戦車を牽引していたのである。
一方、こちらは正真正銘の騎士だったランスロットにとっては、車なんぞに乗せてもらうのは死ぬより恥ずかしいことだったということになっている。
ともあれ、鐙というものがこの地球上に姿をあらわしたのはそう古いことではないらしい。ヨーロッパでは六世紀後半とされている。
鐙を表わす語彙は、全部調べたわけではないがフランス語のetrier、スペイン語の estribo など、古フランス語では若干形が異なっていたものの基本的には同じ言葉で、いずれもゲルマン語源(イタリア語の staffa はロンゴバルド語源)である。
意味は馬の背によじ登る動作と関係がある。英語の stirrup やドイツ語の Steigbuegel も同じで、と言うかドイツ語の場合には steigen する(登る)ための Buegel(ハンガー)だからそのものズバリである。もともとは乗りこむ際の足掛かりに使ったものだったことが分かる。
八世紀ともなるとフランク族などは言うまでもなく鐙で体を支えて騎馬戦を行なっていた。トゥール・ポアティエの戦いに辛うじて勝つことができたのもこうした騎兵の大兵力が動員できたからだと言われている。
ルーブルにカール大帝の騎馬像というのがあって、それには鐙がないのだけれど、これはたぶんローマ皇帝の像だからというので例のコンスタンティヌス帝(実はマルクス・アウレリウス帝)の騎馬像に倣ってわざとそのように作ったのではないかと思う。
もちろん、鐙さえあればすぐに中世盛期の騎士が誕生するというわけにはいかなかった。ヘイスティングスの戦いを描いた有名なバイユーのタピスリーには、鎖帷子(チェーン・メール)とノルマン風の盾に身を固めた騎士が大勢でてくる。
彼らの鞍にはちゃんと鐙が付いているけれど、槍の構え方に関してはその多くがまだ上から振りかぶる旧式なものである。
アングロ・サクソン側はおもに戦斧を手にしてもっぱら徒歩で迎え撃っており、後の時代の常識からするとノルマン側が圧倒的に有利で、簡単に決着が付きそうに思えるが、実際の戦いは相当な接戦だったらしい。
兵力には差がなかったにもかかわらず徒歩の側が丸一日も持ちこたえることができたということは、やはり騎士の戦法がまだ確立されていなかったことを意味するのだろうか、それとも海を渡っての遠征で馬の数が十分でなかったことを意味するのだろうか。
しかしながら、タピスリーに登場する騎士の中にも、旗竿のような槍を低く構えて突撃している者がいないわけではない。どうもこの手の槍は他のよりも少し太めに描かれているようにも見える。
ところで、小生はノルマンディーへは行ったことがない。バイユーの博物館ではこのタピスリーの複製を売っていると聞いて、少々高くても欲しいなと思っていたのだけれど、どうも18世紀頃に大規模なレストアが行なわれていて、細部に関してはあまり信頼の置けないところもあるらしい。
中世の作品にはそれこそ文学から建築まで何であれこういう問題がつきまとう。うっとうしいことである。(と、小生は思うが、たぶん「わし(マ)」君などは逆にヤル気を出すのだろう。確かに文献学を志す者はそうでなくてはいかん。)
話を元に戻すと、アングロ・サクソンというのは島国にいて大陸の進歩から遅れ気味だったのか、騎馬戦は苦手だったらしいが、それはともあれ、普通このヘイスティングスの戦いが騎士の黄金時代の幕開けと目されている。
実際、これ以後14世紀に入るまで、歩兵部隊と騎士団とが衝突して前者が勝った戦いはほとんどないと言って差し支えない。皆無というわけではないのだけれど、そういう戦いはまるで奇蹟ででもあったかのように歴史に名を残しており、一体なぜ歩兵が勝てたのかが研究や考察の対象になっている。それほど珍しいことだったのである。
この時代、つまり11世紀後半から12世紀にかけての頃が騎士の大発展期であったことはあらゆる面から見て明白で、南伊ノルマン王朝にせよ十字軍にせよ、そうした騎士のエネルギーの現われにほかならないが、そうした発展のベースには何と言っても西欧の経済力の躍進があった。
いくら騎士が強くてもあまりに数が少なくてはどうしようもない。一騎当千という言葉はあるけれど、現実には数十騎、数百騎という集団をつくって一斉に突進して行くから恐るべき力を発揮することができるのである。