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研究報告
天野恵:騎士道と火器(10)[2/4]
さて、我々は中世の北イタリアを発って、ルネサンス期の南イタリアへと時空をワープしよう。
前回の続きであるが、カノーサの野営地を発ったフランス軍は、オファント川を中流で渡河してチェリニョーラへの道を急いだ。このあたりに地理感のある方は別として、そうでない読者は、今はインターネットがあるからして地図を参照していただきたい。
フランス側は、重装騎士団にスイス歩兵という、当時の典型的なフランス式構成の軍隊である。一方、その頃すでにチェリニョーラに到達していたスペイン軍は、城外の丘陵地帯に広がる葡萄畑に陣地を設営しようとしていた。場所の選定と作業の指揮を任されたのは、コンサルヴォの副官プロスペロ・コロンナと彼の甥ファブリツィオ・コロンナの二人である。コロンナ家というのは、オルシーニ家と並んでこれまた何人もの教皇の輩出した有名なローマ貴族で、この二人はもともと武将としてナポリのアラゴン王家に仕えていた。このナポリ王国がスペイン本国とフランスによって分割・解体されてしまった経緯については前回お話ししたとおりである。で、主君のいなくなった二人のコロンナは、その後はスペインに仕えてコンサルヴォの指揮下で対仏戦に参加していたのである。例の「バルレッタの果たし合い」に参加したイタリア人騎士たちも、この二人の武将の部下を中心とするメンバーだった。
話はまた脱線するけれど、こういった昔の話を聞いたり読んだりするときに、小生にはいつも気になることがひとつある。それは《イタリア人意識》というのが一体どうなっていたのか、という点である。ご存知のようにイタリアという国は19世紀なってできたもので、今に至るまでイタリアには自分のことをイタリア人というよりもミラノ人だとかフィレンツェ人だという風に感じている人が多い。この辺は「日本教徒」の数が圧倒的に多い(だから、誰も自分が特に日本教徒だとは感じてさえいない)わが国とは大きく事情が異なる。というような言い方をすると、小生のことを、「こやつは日本人の一致団結ぶりを一種皮肉な目で見ておるのではないか?」と思う人がいるかもしれないので、念のためお断りしておくが、小生は自他ともにゆるす典型的日本教徒にして愛国者である。
で、日本のことはさておくとして、16世紀初頭のイタリア半島においては、時々非常にはっきりとした《イタリア人意識》が立ち現れてくるのである。「バルレッタの果たし合い」もその一例である。これにはやはり外国軍の侵入という事態が大きく関係していたような気がする。人間は「外国」を知って初めて「自国」とか「祖国」とかいう意識を持つのである。それはそうなのだけれど、この手の《イタリア人意識》というのは、ロマン主義の洗礼を受けた近代的な愛国心とはやはりまったくの別物だったと考えるべきだろうと思う。言い方を変えるなら、それは《イタリア人意識》ではあっても《イタリア国民意識》ではなかったということかもしれない。
だから、今の我々が話題にしているこの戦争に当たっても、旧ナポリ王国のイタリア人武将の中には、コロンナたちのようにスペイン側で戦う者がいた一方で、フランス側についた者たちもいて、チェリニョーラの戦の際には両方の軍勢に等しくイタリア人が含まれていた。でもって、こういう状況が、「バルレッタの果たし合い」に熱狂する心理と恐らくは何の矛盾もなく同居していたのである。もっとも、これは別にイタリアに限った話ではなく、この面でははるかに進んでいたはずのお隣フランスだって、ジャンヌ・ダルクのエピソードが一体ナンだったのか、結局のところあんまりハッキリとしないみたいだから、ヨーロッパ全体、いや世界中どこでも似たような状態だったのだろう。