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研究報告
天野恵:騎士道と火器(10)[1/4]
ここ関西ではさほど大きな揺れはなかったし、津波の被害ももちろんない。それどころか、東日本とは交流の周波数が異なるため停電さえ起きていないので、肌に感じる震災の影響はさほど無いと言って差し支えないが、直接的な被害に遭われた方々には何と申し上げていいか、掛けられる言葉もない。最近はパソコンに向かっていても、ついついニュースやその他の関連サイトを見ては、あまりの悲惨さにショックを受けてしまい、全然仕事にならない。亡くなられた方、行方の分からない方、合わせて3月末の時点で3万人近くに上っているという。
犠牲者の方々のご冥福を謹んでお祈りするとともに、寒さと余震の続く中、放射能の恐怖にも耐えながら必死に頑張っておられる被災者の方々の安全が一刻も早く回復され、被災地が少しでも早く復興することを願ってやまない次第である。
ところで、このたびの震災は、太平洋プレートが周辺のプレートを押し込む形でエネルギーを蓄積していった結果として起きたものだそうで、その周期は約1千年と言われている。前回は9世紀に起きた貞観地震。この時もやはり大きな揺れと巨大津波が引き起こされ、歴史に残る大災害となったらしい。こうしたプレート間の軋轢は環太平洋地域のみならずヨーロッパでも常に起きていて、実際、ユーラシア・プレートとアフリカ・プレートの境界に位置するイタリア半島はたびたび大きな地震に見舞われてきた。アルプス山脈というのも、他ならぬこうしたプレート間の衝突の結果、地面が隆起してできたのだという話を以前聞いたことがある。
貞観地震から150年ばかり後の1117年1月3日に北イタリア全域を襲った巨大地震も、やはり歴史に残る大災害をもたらし、その記憶は900年後の今日でもなお各地に残されている。こちらは震源地が内陸部だったせいか津波による被害はなかったようであるが、それにもかかわらず、ちょうど今回の震災の犠牲者数に匹敵する3万人の死者を出し、初期中世のモニュメントはそのほとんどが倒壊した。人口密度や建物の構造など、様々な要因が関係していようが、貞観地震の犠牲者が約千人と推定されているのに比べても、この1117年の北イタリアの地震がいかに甚大な被害をもたらしたかが分かる。ヴェローナのアレーナをはじめとする古代ローマの建造物も大きな被害を被ったが、とりわけ中世に入ってから建てられた宗教建築はほとんど全滅状態で、だから例えばモデナ大聖堂のように生き残ったものの方が希少な例としてよく知られている。
そもそも北イタリアというのは前回の連載でも名前を挙げたポーターはじめ著名な学者たちがヨーロッパ建築の揺籃であったと考えた地域であるのに、実際に残っている建築物はと言えば、カロリング朝時代はおろか、はるか後の初期ロマネスクについても非常に少なく、フランスのそれの方がずっと古い作例をたくさん残存させている。小生も素人なので断言はできないが、もし仮にこのときの地震がなかったなら、イタリアにはかなりの数の初期中世の遺構が残されていたのではなかろうか。また、もっと後の建築物でもラヴェンナには5世紀から6世紀に建てられた初期の教会が結構残っている。古代建築に属するテオドリクスの廟などは、内部空間を重視した教会建築とは根本的に違うし、それに加えて建材も煉瓦ではなく切り石で、しかも一個一個の石材は巨大だし、見るからに精巧な造りで、だからこれは別枠に入れるべきだとは思うが、ビザンツ式の教会群もちゃんと崩壊せずに残っている。ラヴェンナというと海にも近く、地盤は弱そうで、それこそ液状化現象が起きても何の不思議もなさそうな土地であるが、それでもあれだけの数のモニュメントが生き残ったのは、やはり東ローマ帝国の建築技術が優秀だったからなのだろうか…。